2024.02.25 主日礼拝「立って、真ん中に出なさい」ルカの福音書6:6-11

今朝、鶯の声をききました。季節の移ろいを感じる今日この頃です。

(あかつきさん)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。礼拝式にようこそお集まりくださいました。今日もイエス様の十字架を見上げて、主の食卓にあずかりましょう。

イエス様の生涯をおぼえる教会カレンダーは受難節(レント)に入っています。イエス様が私たちの罪のために苦しまれ、ついには十字架にかかられたことを思い出す季節です。

教会は集会所に十字架を掲げています。ほとんどの場合は一番目立つ場所(会堂の正面や建物の屋根の上)にあります。夜にはライトアップされます。町の人々は十字架をみるときれいな教会堂や華やかな結婚式を思い出すかもしれません。しかし、十字架は本来、ローマ帝国の死刑でした。死刑場を見て、いい気分になる人はいないでしょう。血だらけの人間が何日もかけられたままにされ、上空では死体を狙っている鳥が飛んでいるような場所です。そんな十字架を住宅街に建てようものなら反対運動が起こりそうなものです。

毎年受難節が来ると思うことがあります。教会は十字架をきれいなものとして宣伝し、福音を台無しにしているのではないだろうかということです。なぜ私たちは十字架を掲げるのでしょうか。鞭打たれ、血だらけで、手足に釘を打たれて十字架にかけられたイエス様と、それを見ながら嘲笑い、唾をかけ、「おまえが王なら自分を救ってみろ」と言った人々の様子を見て、私たち自身の罪が示されるからです。神を認めようとしない自分の行為がどれほどむごいのか、十字架を見て知るのです。傲慢の罪はあれほど悲惨な十字架の死に値すると、十字架を見て知るのです。しかし、その木にかけられたのは私たちではなく、主イエス様でした。これが聖書が伝えている福音です。聖書は十字架をきれいなものとはしていません。十字架は神ののろいだと書いてあります(ガラテヤ3:13)。

私たちがいつも十字架を掲げている理由を、この機会に共に考えたいと思います。教会に行けば、聖書を読めば心が安らぐよとばかり宣伝していないでしょうか。御言葉は私たちの罪を明らかにするのです。罪が明らかにされて安らぐ人はいません。しかし罪を認めた時に初めて、十字架のイエス様と出会い、神の救いを知ることになります。その先で、神の国の本当の平安をいただくことになるのです。

聖書をお開きください。ルカの福音書6:6-11(120ページ)【聖書朗読】

今日の箇所で一人の人がイエス様と出会いました。その出会いの話に入る前に、彼の頭の上を飛び交っている議論がありました。彼は主役ではありませんでした。イエス様とパリサイ人とのバトルがスポットライトをあびていました。

律法学者たちとパリサイ人たちは「自分たちは神を敬っている」と誇っていました。彼らは聖書を調べ、そこに記されている生活規範を杓子定規に守り、さらには細かいルールを独自に追加して守っていました。いま、王寺教会でも旧約聖書の律法を学んでいます。律法はシナイ山で民に与えられた神の国の生き方を記したものです。どのように生活するかが書かれています。しかし、最も大切なことは書かれているルールではなく、主との関係です。どんな出来事を思い出すために、その祭りがあるのか。主がどんな方であるから、その制度が決められたのか。目に見えない主との関係を確認し、関係を保ち、主への心を表していくために行事や、制度、習慣を教えられたのでした。私たちは、律法に書かれているものが、主との関係の何を表しているかを学んでいます。ところが、パリサイ人たちは古代イスラエル人が犯した失敗を繰り返しました。彼らには主を知る心がありませんでした。形だけのルールを守り、大切な主との関係に目を向けなかったのです。心は主に向かうことなく、いつも自分自身に向かっていました。「私は正しい」「律法を厳格に守っている私は正しい」

イエス様はパリサイ人たちに「あなたたちは主を知らない」と指摘されました。主との関係が途切れているのに、神を敬っている自分たちは正しいと考えているパリサイ人たちは偽善者だと言われました。もし彼らが主との関係を失っていることを認めていたなら、イエス様は正しい人を救うためではなく、罪人を救うために来られたのですから、希望があったのです。

この6章のはじめから、今日の箇所にかけて議論となっていたのは、安息日の決まりでした。安息日にはいかなる仕事もしてはならない(出20:10)と律法で定められていました。パリサイ人たちは「仕事をしてはならない」という決まりにだけ注目しました。彼らは安息日が何を表す日なのか、なぜその制度が決められたのか、聖書から調べていませんでした。それよりも「ルールを守って私が正しいことを証明するのだ」とばかり考え、聖書に書いていない仕事の定義をあれこれと考え、付け加えました。彼らの考えでは、けが人を治療することも仕事であり、安息日にしてはいけないことでした。この日、パリサイ人たちはイエス様を追い詰めようと思っていたのです。安息日のルールをいくつも破り、パリサイ人は偽善者だと言っているナザレのイエスを訴えてやると思っていました。

一方、イエス様は安息日の意味を分かっておられました。安息日は主が天地を創造され、良いものを人に備えてくださったことを思い出す日です。荒野で天からマナが降り、人の糧が神の恵みによって与えらたことを記念する日です。主が人に良いものを与えておられることをおぼえる日が安息日です。安息日ほど、人のいやしにふさわしい日はないのではないでしょうか。

さて、そのような非常に重要な対決が起きていた渦の中に、右手の萎えた人がいました。今日は彼の視点から、この出来事を見てみましょう。彼にとってみたら、安息日の議論は、自分とは無関係に頭の上を飛び交うバトルのようでした。なんとも哀れなことに、パリサイ人たちはイエスを訴えるための罠として、自分を利用しようとしていたのです。こんな険悪なムードの中で、舞台に引きずりあげられ、人々の注目を浴びながら道具として利用される。一体どんな気持ちでしょう。

彼の抱えていた問題は右手が不自由だということでした。生まれつきだったのか、大きな怪我をしたのか分かりませんが、当時の時代背景を考えると、仕事を満足にできず、家族の役に立てない状況だったでしょう。みなさんの人生にも、似た状況はありましたか。(障がいに限らず)自由に自分自身を動かすことができず、役に立てない(お荷物になってしまう)経験があるでしょうか。彼はどんな気持ちで人生を過ごしていたのでしょうか。_ この人は安息日ごとにいつも会堂に来ていたのだろうと思います。パリサイ人たちが彼を知っていて、イエスが安息日にその会堂に行けば、訴える口実を見つけることができると思っていたのですから。そして、8節から分かりますが、どうやら彼は会堂の後方で寝転がっていたようです。投げやりで、でも、右手が何とかならないかなと心の奥では期待している様子がみえます。

今日はナザレのイエスという、最近巷で噂になっている若いラビが会堂に来て、教えています。横の方には、鋭い眼差しでイエスを訴えようと企んでいるパリサイ人たちがいます。イエスとパリサイ人の対決を見ようとしている野次馬もたくさんいそうな感じです。いつもと会堂の雰囲気が違います。すると、ナザレのイエスがこちらを見て、言いました。「立って、真ん中に出なさい」_ 会堂の真ん中にいるのは、そこで教えていたイエス様です。「立って、私がいるところまで来なさい」と言われたのです。パリサイ人たちがツバを飲み込んで凝視しています。急に何が起こったのでしょうか。彼は立ち上がって、真ん中に出ていきました。

これから何を言われるのでしょう。何をされるのでしょう。ところが、イエス様はパリサイ人たちの方を向いて、彼らに尋ねられました。《「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」(9節)》自分より弱い人に向かって怒る人は沢山います。彼も色んな人からひどい言葉を投げつけられ、何度も傷ついて、恥ずかしい思いをしてきたでしょう。ところがイエス様は、権威を誇っているパリサイ人たち(人数でも多い人たち)に向かって、強く尋ねられたのです。しかも、イエス様は「いのちを救う」と言われました。彼の右手が萎えていることを周りの人はどの程度大きなことと考えたでしょうか。かわいそうねと言うことはあっても、「まさかいのちを救うなんて大げさな。その人は生きてるじゃない。」と他人事だったのではないでしょうか。でも、彼にとってみたら、屍の人生から蘇るほどの重大な事柄でした。主は「いのちを救う」と言われた。イエス様はこのようなお方なのです。あなたの心の底に秘められている問題も、周りの人は大した事ないと言うかもしれないけれど、主はそれをいのちの問題だと思っていてくださるのです。

それからイエス様はその人に「手を伸ばしなさい」と言われました。傲慢な人なら、「あんたが右手を手にとって治療しろよ」と思うでしょう。でも、彼は、会堂の後ろで寝っ転がっていたその人は、イエス様の言われたとおりにしました。人々が注目している中でしたが、もう人の目は気にしていないようです。イエス様との関係が結ばれていました。

イエス様にはパリサイ人たちの間違いに反論するという大きな仕事がありました。しかし、それにも関わらず、イエス様と出会った人々の目線から見ると、イエス様は一人ひとりを大切にし、愛しておられ、個人的な関係をもって救おうとしておられることが分かるのです。その人の人生は気にも留めず、自分の正しさを証明するために、イエスを訴える口実を見つけようと躍起になっていた人々とは全然違います。そのようなイエス様に、あなたも出会ったほしいと願っています。

イエス様は突然「立って、真ん中に出なさい」と呼びかけられました。これは、今も生きておられる主イエス様から私たちにかけられている言葉でもあります。私たちの住む社会でも、イエス・キリストが救い主だなんてありえないと思っている人が沢山います。イエスがよみがえったなんて嘘だとか、イエスは神ではなくただの人間だったとか、教会は人からお金を集めるために信者を増やそうとしているとか、色々批判的な考えをもっています。聖書にこれだけ丁寧に説明されているのに、それも受け入れていません。そんな状況に囲まれているのに、「立って、私のいるところに出てきなさい」とイエス様に言われたら戸惑うのではないでしょうか。しかし、イエス様を批判している人たちは、あなたの問題を本当に解決してくれるのでしょうか。あなたが教会に来て、どうなるかを見て、それを種にイエスとその弟子たちを批判しようとしているだけではないでしょうか。イエス様はあなたの人生を困難にしている問題をいのちを救うことと考え、周囲の人々からあなたを守り、あなたのいのちを救ってくださるお方です。主は変わることないお方なので、当時も今も同じようにしてくださいます。

イエス様は聖書を通してあなたに語っておられます。「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言っておられます。

お祈りします《手の萎えた人に言われた。「立って、真ん中に出なさい。」その人は起き上がり、そこに立った。イエスは彼らに言われた。…そして彼ら全員を見回してから、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、手は元どおりになった。》

天の父なる神様。私たちのすべての咎を赦し、すべての病を癒し、いのちの穴から贖ってくださるお方。私たちに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、一生を良いもので満ち足らせてくださる主よ。

あなたは私たちに「立って、真ん中に出なさい」と言われました。会堂の後ろで寝っ転がっているような人生を送る者に、突然、声をかけられました。こんなにあらゆる宗教が批判されている時代に、イエスは神ではないと考えている人々が注目する中で、あなたのところに出ていくのはとても勇気のいることです。しかし、主よ、あなたはすべての心を探り、心の奥底を読み取られるお方です。私たちの隠された問題をよく知っていてくださいます。できれば隠れたところで、人に知られずに救ってもらいたいと考えがちな私たちですが。あなたの呼びかけは、人を恐れないで、人々に見えるところでイエスのもとに進み出てきなさいとのお言葉でした。

主イエス様。あなたを信じ、あなたのお言葉通りにやってみます。

主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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