2023.7.30主日礼拝「大勢の群衆への給食」マルコの福音書6:30-44


7月も終わろうとしています。まだまだ暑い日が続きますが皆様ご自愛ください。
(ひでまる)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 「月月火水木金金」ということばが、第二次世界大戦終戦まで使われていたようです。
 これは、「土日」が除かれているように、国のために休日を無くして働き続けることが要求されていたことばのようです。
 高度成長期でバブル経済の頃には、モーレツ社員ということばが流行ったように、休まないで働き続けることが求められ、美徳ともされてきました。
 このようなことも影響、あるいは悪影響しているのかも分かりませんが、何もしないでいるという事に罪悪感さえ感ずるクリスチャンの方もあるかと思います。
 という私も、じっとしているという事が中々出来ない者の一人のようです。
 しかし、聖書は屡々休息の時を取ることを命じています。安息日において、詩篇の「セラ」ということば、それは音符の休止を意味しているともいわれています。
イエス様も、休息の必要性をよくご存じで、弟子たちに激しい働きの後、強制的に休息を取らせようと、寂しい所に連れて行かれました。
 そのような時に、一連の事が起きました。
 
  ―この個所からー
  「大勢の群衆への給食」      
1、自分たちで食べる物を買えるように   32~37節
 イエス様と弟子たちは、休息をとるために、ガリラヤ湖の対岸の寂しい所に着いた時、すでに一行の行き先を察知した大勢の群衆が、その場所に到着して待っていました。
 その群衆の霊的な必要性を深く感じられて、イエス様は群衆を憐れんで癒しをなさり神の国のことを教え始められました。
そしてそのことが長く続いたため、夕食をする時間―当時の食事は1日2食でしたのでー午後の遅い時間でした。
その夕食の時間になっていて、群衆は食べ物も無く空腹になっているので、各自食料を買いに行かせるようにしてくださいと、弟子たちがお願いしました。
それに対して、イエス様は「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」と命じられました。
イエス様は、霊的な必要を満たすことだけが大切なのであって、体のことは必要ではないとは言われませんでした。
むしろ、人の体のことや毎日の必要な事にも心を止めてくださっている愛のお方です。
イエス様は、山上の説教で「まず神の国と神の義を求めなさい。」と教えられると共に(そこには神様は私たちの必要をよく知っておられるから心配しないようにとあります)、主の祈りの中で「我らの日用の糧を、きょうも与えたまえ。」と、祈るように教えてくださいました。
また、『「あなたがたが…あげなさい。」のあなたがたが』―とのことばには、神様は御業をなさるとき、人を通してなさるということが教えられています。
神様は人を越えて、足手まといだからと言って単独でなさることはありません。
イスラエルのエジプト救出からカナン迄の40年間、モーセが用いられ、さらにその後ヨシュアが用いられました。
イスラエル王国の確立のためにダビデが、その後の国の霊的回復を目指して諸預言者を神様は用いてなさいました。
福音が世界に広がって行くために、弟子たち・パウロが用いられてゆきました。
神様は、今も福音がさらに広がるために私たちを用いなさるのです。
 
2、パンはいくつありますか         38節
 この記事は弟子たちにとって衝撃的でしたので、4福音書全てに記されています。
ヨハネの福音書6章7~9節(188頁)の中に、パンと魚について言われているのを見ます。
イエス様が、「あなたがたが、食べる物をあげなさい。」と言われた時、ピリポが「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と答えました。
さらにアンデレが「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」と言っています。
弟子たちの手の中に有る食べる物は、目の前にいる大勢の群衆にとって無に等しい程であって、到底必要を満たせないと思われました。
それは、弟子たちにとって、目の前にある問題はとても大きく、解決すべき自分たちの力は無に等しいと思えたのです。
同じように、「私たちの目の前にある信仰の課題は大きく、それに対処する力はありません。」と私たちもしばしば告白しなければならない現実に直面することがあります。
 
3、イエスはお与えになった         39~44節
 「それが何になるでしょう」と弟子たちが言った「パン五つと魚二匹」について命じられています。
(マタイ14章18節)に、「それを、ここに持って来なさい」とイエス様が命じておられます。
さらに、弟子たちに群衆を組みに分けて座らせるように命じられました。
その無に等しいと思われたパンと魚を取り、神様をほめたたえて、弟子たちを通して群衆に分け与えられました。
そのようにして、その無に等しいものを通して群衆の必要を十分に満たし、その上さらなる祝福を増し加えられたのです。
「それを、ここに持って来なさい」とのイエス様の命令に弟子たちが従った時、「無に等しいもの」が必要を十分に満たしました。
それだけに止まらないで、さらに大いなる恵みを、弟子たちにも群衆にももたらしたのです。
私たちも、目の前に立ち塞がる課題に直面する時、自分の無力さを謙って認め、その現状をイエス様の前に持ち出し、イエス様に委ねたいものです。
そうするならば、イエス様がそれを恵み豊かなものとしてくださいます。

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