2023.7.2主日礼拝「律法の下から恵みの下に」マルコの福音書2:18-22


すっかり夏に日差しになってきました。今日のお説教では、『聖書は入れ子のようになっている』と。ロシアの人形、マトリョーシカみたいに?新しい視点で聖書の深い構造と奥義を見せていただいたようです。(Re)

  [礼拝説教] 中尾敬一牧師
おはようございます。今日もみなさまをお迎えでき感謝です。目に見えませんが、主は私たちに祝宴のテーブルを用意してくださり、予約席を備えてくださっていました。私たちはイエス様のテーブルに着き、神の恵みを共に喜び楽しんでいます。ここにはイエス様のぶどう酒とパン(十字架で流された血とみ体)が用意されています。
 何か心配事があるでしょうか。心配で食事が喉を通らない日もあるでしょう。しかし、《あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Iペテロ5:7)》と聖書は言っています。ある時、こんなことを言われたことがあります。私が相談を受けて、最後に「ではイエス様にゆだねましょう」と言いましたら、「神にゆだねるのは自分で出来ることを精一杯やった後でしょ!」と怒られてしまいました。世間一般では、神に頼むとは「どう考えても、どう工夫しても、行き詰まってしまって、困り果てた先に行うもの」だからでしょう。ところが、聖書が言っているのはそういうことではないのです。まず神にゆだねよと言うのです。
 信仰の人アブラハムは、神である主の《召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。(ヘブル11:8)》またパウロを宣教に送り出した教会は、パウロとバルナバを「神の恵みにゆだねて」送り出しました。何月までにアジアを周り、いつまでにヨーロッパに渡って、何ヶ月後にローマに到着する。開拓する教会の数は…。そんなことは考えていないということです。彼らは何が起こるか知らないで、パウロを送り出しました。まず神にゆだねて、そこから始めることです。目標を定め、ルートを決めて歩み始めるので、外れると思い煩うのです。主は目的地を知っておられる。主は通るのに一番良い道筋を知っておられる。神の恵みは私たちに十分ではありませんか。
 聖書をお開きください。マルコの福音書2:18-22(68ページ)【聖書朗読】
 
 聖書はとても興味深い書物です。聖書の中には聖書が含まれていて、入れ子のようになっています。律法と呼ばれるモーセ五書がまずあって、聖書の中の聖書と言われています。律法に預言書と諸書が加わったのが旧約聖書です。さらに旧約聖書に使徒たちの書物が加わったのが聖書なのです。ですから、入れ子構造があるゆえに、聖書を読むと、聖書をどのように扱ったら良いかが分かります。聖書の中で律法をどのように扱っているかを知ることが出来るからです。しかし、現代のクリスチャンは意外と律法(モーセ五書)を知りません。神の命令を守ることは大切ですと言いながら、実は律法を読んでどう扱ってよいか、よく分かっていないのではないでしょうか。律法を知らず、その向き合い方が分からなければ、聖書全体についても同様です。
 今日の箇所はイエス様が律法について質問を受けている場面です。《「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」》断食の決まりはレビ記と民数記に「自らを戒める」という言葉で出てきます(レビ23:27など)。彼らはイエス様が律法をどう取り扱っておられるか尋ねているのです。イエス様の弟子たちが律法を守っていないようだけど、なぜ律法を守るように弟子たちを教えないのですかと言っています。イエス様はこの問いに《新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる(22節)》とお答えになりました。初めてこの箇所を読まれた方は、なるほど古い律法ではなくて、何か新しいものになったんだなと、すんなり受け取られることでしょう。でも、聖書をもう少し読み込んでおられる方は、ここで?マークが浮かんでくるかもしれませんね。あれ?イエス様も断食してましたよね。弟子たちに《断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。(マタイ6:17)》と教えていましたよね。どういうことでしょうか。律法は終わったのでしょうか、続いているのでしょうか。
 この話のポイントはイエス様がどなたで、聖書が何か知ることにあります。
 私たちは日本に住んでいます。日本は法治国家です。どんなに偉い人であっても、すべての人が法の下に置かれています。しかし、神の国は王国です。王には法よりも大きな権威があります。例えば、律法にはツァラアトに犯された人を隔離しなさいと命じられていました(レビ13)。ところがイエス様はツァラアトの人に触れて、癒やし、きよくされました(マタイ8:3)。律法ではツァラアトが癒やされてから、その患部を祭司に見せてきよめられていることを宣言してもらう方法がありました。しかしイエス様はそれを越える権威(主権)をお持ちであり、ご自分で患部に触れて、癒やし、きよくすることがおできになったのです。律法はイエス様こそが主であることを指し示しています。それはイエス様が主であることを指し示す役割であり、決してイエス様の上に置かれるものではありませんでした。別の例は神殿税(出30:11-16)です。イスラエル人は自分のたましいの償い金を主に納めなければならないと律法に定められていました。ある時、その神殿税を集める人たちがペテロのところに来て、「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか」と言ったのです。これに対してイエス様は神殿税を納める義務はないと言われました。ただ「あの人たちをつまづかせないために」と言って、神殿税を納めなさいました(マタイ17:27)。自分のたましいの償い金とは何を指し示していたのでしょうか。イエス様が十字架にかかって、人のたましいの償い金を支払ってくださったことです。律法はイエス様が来てくださって、罪の贖いを成し遂げて下さることを指し示す役割があり、本物の十字架が成就したので、もはやその役割は終えたのです。
 19-20節で、イエス様は花婿と花婿に付き添う友人の例えを話しておられます。花婿が一緒にいる時といない時で状況が違うと言っています。イエス様が何をしておられるか、その状況によって聖書(神の命令)は扱いが変わるのです。なぜならイエス様が主だからです。聖書があって主がおられるのではありません。はじめに神がおられて、聖書があるのです。
 それでは、イエス様が聖書を全く離れて違うことばかりをしないのはなぜでしょうか。あることは律法の通りに行われませんでしたが、律法の通りに行っておられたことも沢山あります。なぜでしょうか。それはイエス様が主であり、聖書は神の霊感によって書かれたからです。主がご自分の心や計画、目的を伝えるために、書かれたのが聖書です。神である主と聖書は互いに関係のないものではありません。主が人にメッセージを伝えるために、聖書を用意して、これを通して人に語っておられるのです。ですからイエス様があることを律法に沿って行われるのは、自然なことです。
 モーセの律法はシナイ山で与えられました。エジプトを脱出して、これから新しい土地に行き、ひとつの国になろうとしていました。これまで長い間奴隷状態だった人たちです。果たしてどのように社会を形成していったら良いのでしょうか。検討も付きません。主は彼らに具体的に掟を定め、ヤハウェを主とし、神の民の社会を築いていく道を教えてくださいました。律法には神の御心が記されているのです。
 それゆえに律法は不本意ながらもう一つの役割を果たしました。人が律法を守らないとき、人を罪に定める役割です。もちろん主は人を罪に定めたいから律法を与えたわけではありません。そんな意地悪ではありません。しかし、そこに神の御心が記されているゆえに、律法は神の命令を守らない人を罪に定めたのです。罪とは①神の命令を守らないことでしたね。
 すると私たちはこのように考えてしまいます。「罪を犯してしまって大変なことだ。今度は聖書を守って、神の怒りの逃れられるようにしよう。」これは大間違いです。実は多くの人がこの勘違いから、なかなか抜けられないのです。聖書は神の御心を記しているゆえに、それを守らない人を罪に定めます。しかし聖書は人を救うことはできません。聖書は人を罪に定めますが、人を救いません。主が王であり、聖書は主に従属している神のことばだからです。違反認定はできますが、違反を取り消すことはできません。私たちを罪から救うのは、十字架にかかって死に、よみがえって死に勝利されたイエス様だけです。だから聖書はイエス様を指し示すのです。
 私たちは聖書をどのように扱ったら良いのでしょうか。とくに律法とどう向き合ったら良いのでしょうか。実はあんまり分かっていなくて、聖書の中の聖書と呼ばれるモーセ五書を、特にレビ民申命記はほとんど飛ばし読みしていたりする私たちです。そんな私たちに良い知らせがあります。イエス様は神の国の王ですが、イエス様を信じる者たちは王の子どもなのです。パウロは《あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。(ローマ6:14)》と言っています。聖書は主が御言葉を伝えるために、人に与えてくださったものです。主が上におられて、聖書があって、その下に人がいて、神の言葉を受け取っていたというイメージです。神の国に生きるために、聖書を通して、主の御言葉を知り、いのちを選び取ることを望まれていました(申30:19)。ところが人は、律法に違反し、死を選び取ってしまいました。その違反があるので、人は罪の奴隷になってしまったのです。そして死から逃れようと、聖書に救いを求めました(律法主義)。しかし、聖書は人を救うことはできません。これは神のことばに過ぎず、聖書は神ではないからです。キリストは罪の奴隷になっていた私たちを救うために世に来られ、十字架にかかって贖いの代価を支払い、死に勝利してよみがえられました。イエス様を信じる者は、この御子の十字架と復活によって救われます。そして神の子とされる特権を与えられます。もはや律法の下にではなく、神の国の王家の子として、神の恵みの下にあるのです。
 では、聖書はもはや関係ないのでしょうか。用無しなのでしょうか。いいえ、大いに関係あります。神の恵みの下にいることを右、律法の下にいることを左と横並びに置くから混乱するのです。聖書は神のことばであり、神から出ているのです。むしろ垂直(縦向き)に置かれるべきでしょう。横並びに置いて、律法の下から恵みの下に移ったと考えていると、聖書は主と関係がない物とか、聖書は主の恵みの対岸にある物と思い違いをしてしまいます。垂直に置いて考えてみてください。イエス様に贖われ、神の子とされる特権を与えられた人々は、自分を縛っていた律法から解かれて、聖書の下から神の下へ移されます。しかし、聖書は主ご自身と無関係なものではありませんので、この下にあります。そして私たちに仕えるのです。聖書は依然として目に見えない主を指し示しています。ここには主の御心が記されているのですから、御霊によって神に仕える人たちが主の御心を行うなら聖書とかけ離れることにはならないでしょう。
 律法のある命令はもはや守られておらず、ある命令は引き続き守られている。一体どういうことでしょう。これは私たちの目に見える現象です。イエス様が《新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる(22節)》とおっしゃったのは、左を止めて、右にするということではありません。古い文字の下から、新しい御霊の下に移すということです。しかし、聖書は神に属する聖なるものなのですから、私たちが聖書に救いを求めることをやめて、聖霊によって主イエス様に従う者と変えられても、神の戒めに反対する者になったのではありません。ある命令は、イエス様が来てくださって成就されたので、役割を終えました。ある命令は、継続して有効であるように見えます。でも、それは現象です。御霊によって主に仕え、結果として律法を満たしているのです。
 主イエス様は神の国の王であり、聖書は神に属する、神のことばです。私たちは罪の奴隷から解放されて、王家の子とされました。今は神の恵みの下にある者たちです。御霊によって主に仕え、主の喜びを喜びとする者とされました。
 お祈りします《だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。…まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。…新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。》
 
 天の父なる神様。家を飛び出し、財産を放蕩していた者たちを赦し、しもべとしてではなく、ご自分の子として迎え入れてくださった主よ。あなたのあわれみの深さと愛の広さをおぼえ、心から感謝いたします。
 私たちはみな、あなたの掟に耐えず、み前に罪を犯しました。今もなお、知らないで罪を犯している者たちです。いのちをもたらすための律法は、私たちの罪のゆえに、違反を告げるものとなりました。のろいに縛られ、死に向かっていたのです。しかしあなたは、ご自分のひとり子をお与えになったほどに世を愛されました。イエス様を受け入れた人々、すなわり、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権を与えてくださいました。もはや私たちは律法の下にはおらず、恵みの下にあります。
 新しい御霊によってあなたに仕える私たちが、再び罪の奴隷に戻ることがないようにお守りください。私たちの王は、主よ、あなただけです。
 あなたがたを帰らせるだけではない、《わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする》と約束してくださったことを私たちに思い出させてください。私たちにそうなれとはおっしゃらず、あなたがそのようにするとおっしゃいました。今週もあなたの真実の愛を知る週となりますように。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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