2023.7.16主日礼拝「恵みを与えようとして待つ主」ハガイ書1:1-11


今日は、ナザレ会の歓迎礼拝でした。証、ハンドベル、賛美があり、恵みの時でした。(FU)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日もようこそお集まりくださいました。主イエス様が復活された日曜日の朝を記念する主日礼拝のひとときです。礼拝は私たちが何者であるかを確認する時でもあります。はじめに神である主がおられて、私たちを創造してくださいました。私たちの日々の歩みは、すべて神の恵みによって成り立っています。主の御前に静まり、主が成し遂げてくださった一週間を感謝し、主が始めてくださる新しい一週間を共に希望もって踏み出しましょう。

 今日はナザレ会の特別企画で、証・演奏・賛美と盛りだくさんでした。ナザレ会は子育て世代のグループから始まったと伺っていますが、順調に年数を重ね、壮年から中年期にやってきました。人生100年時代と言われていますが、ちょうど折り返し地点に立っておられるということですね。ひとつの山を超え、それを振り返りながら、これから登っていこうとしている2つ目の山を見ている時期ではないでしょうか。
 職場では現場から管理職へ、教わる立場から指導する立場へ変わり、携わる仕事内容が変化することがあるでしょう。忙しく毎日の仕事から、少し余裕とコントロールが効く仕事になる一方で、退職や閉業までのキャリアも見えてきます。青年期に夢を抱いて、自分はあのようになりたいと思っていたけれども、大体その辺でキャリアは終わりだなと分かってきます。気持ちは退職後に向いてくるでしょう。
 家庭では子どもが自立し始め、家庭のルールを変更するように求めてきます。人によって親のお世話や介護も、この時期から入ってくることがあります。子どもが巣立っていけば、夫婦2人の生活がもう一度始まります。家族内のルールや役割が移り変わって、揺れ動くこともある一方、自由な時間が増える楽しみもあるでしょう。
 身体的には体力の限界を感じたり、生活習慣病にかかりやすくなります。更年期障害も以前は女性だけのものと考えられていましたが、男性でも起こっていることが分かってきています。親世代の人たちの重い病気や訃報に接することも増え、死が現実味を帯びてきます。
 こうして、ひとつ目の山を越えてきて培ってきたやり方では、どうも2つ目の山は越えられないと感じ始め、見直しを迫られる時期です。そこには不安や心配、あるいは解放や楽しみなど色々な思いが巡ることでしょう。
 そのようなナザレ会世代の方々に向けて、今日は聖書にあるメッセージをお話させていただこうと思います。聖書をお開きください。ハガイ書1:1-11(1608ページ)【聖書朗読】
  
 1節にユダの総督ゼルバベルの名前が出てきます。ゼルバベルは、ユダヤ人がペルシャ帝国時代にエルサレムに帰還した時、民を導いたリーダーです。その時代に、主のことばを語った預言者がハガイでした。その時代のエルサレムでの出来事です。
 それまでユダヤ人たちは70年間バビロンで暮らしていました。70年間ですから世代が変わっています。彼らはエルサレムに帰ったというよりも、民族の故郷と呼ばれている場所に初めて行って生活を始めたのです。それは夢のある新しい人生の始まりとなるはずでした。ところが現実はそんなに甘くなかったのです。
 日本でも明治時代に外国への集団移住が行われていました。ハワイやメキシコ、ブラジル、ペルーに多くの人々が移住し、その子孫が世界中に360万人以上いるそうです(外務省2018)。また国内でも北海道に移住して開拓する人たちもいました。当初は移住すれば仕事があるということで、しばらく働いて貯金をして帰国しよう計画して船に乗り込んだといいますが、現地に着くとそこには未開の原生林でした。仕事うんぬんの前に、まずどうやって生活するかです。原生林を切り開き、風土病と戦い、作物の栽培をはじめ、なけなしの資金を出し合って組合をつくり、差別にあいながらも販売して、長い時間をかけて生活を成り立たせてきました。移住というのは夢がありますが、中を開けてみると苦労が多かったのです。
 バビロンからエルサレムに帰還した数万人のユダヤ人たちは、民族の故郷、ソロモンの神殿があったエルサレムへ意気揚々とやってきました。私たちはエルサレムに行って、ソロモンの神殿を私たちの手で建て直し、ダビデ王国の栄光を取り戻すのだと夢を抱いていたことでしょう。ところが現実はどうだったでしょうか。5-6節《「あなたがたの歩みをよく考えよ。多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」》食べ物の収穫が思うように行かず、また新しい生活を成り立たせるための出費が多かったことをうかがわせます。そして彼らが神殿の再建を中断してしまったのは、現地人の妨害のためでした。移住してきた人たちが一大勢力になると、心中穏やかではいられない住民がいるのです。ペルシャ政府に、「ユダヤ人たちは力を蓄えて皇帝に反旗を翻そうと企んでいますよ」と告げ口する人たちがいて、神殿再建は中断されていました。それでユダヤ人たちはこう言っていたのです。《『時はまだ来ていない。【主】の宮を建てる時は』(2節)》と。
 この出来事を読んで、みなさんはどう思われるでしょうか。「時はまだ来ていないね」仕方ないねと同情なさるでしょうか。主が民に語っておられます。《あなたがたは多くを期待したが、見よ、得た物はわずか。…それは、…あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っていたからだ。(9節)》「いや、神さま。ずいぶん酷いこと言うね」と思ってしまいませんか。
 ここでエデンの園を思い出してみましょう。人が神のようになろうと思って、主との関係を捨ててしまった時、人は呪いをうけました。その呪いはこのようでした。「食べるもののために汗を流して働かなければならない。また土地は人に反逆し、作物を実らせないようにする。」それ以前は呪いではなく祝福がありました。祝福はこうです。「神である主が食べるものを用意してくださって、土地は人のためにあふれるほどの実を結ぶ。人は食べるもののために働く必要がない。」すなわち、人の生活の必要は、自分の家のために走り回ると十分になるのではなく、神である主との関係が愛によって結ばれている時に、あふれるほどに与えられるのだということです。
 愛である神が、なぜ呪いを加速させるようなことをなさるのか理解に苦しむのですが、時にはこういうこともなさると聖書は伝えています。その心は、「いのちを選びなさい」と語られた主のことばに込められています。律法にはこう書かれていました。《私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。(申30:19-20)》呪いを加速させることで、この道はこのまま進んではいけない、いのちの道に戻ろうと民が気付くように願われたのです。礼拝出席しないと呪いがあると言っているわけではありません。主は呪いたいと思っているのではなく、祝福したいと思っておられます。神である主との関係が断絶したままいると、いずれ呪いの道に深く進んでしまうことになります。それを止めさせたいということです。
 さて、みなさん。主を礼拝すること。どのような順番ですか。自分のために走り回って、山を超えて落ち着いたら、感謝して礼拝に行こう。こういう順番でしょうか。それとも、まず神である主との関係を正しくして、主が備えてくださっている恵みの海に飛び込んでいく。こういう順番でしょうか。先日、あるテレビ局の番組を見ていました。あることで困っていて、どこに行っても助けがなく、孤立してしまって、途方に暮れている人々のドキュメンタリーでした。本当に心が痛みます。このような方々に聖書は何と語っていると思いますか。「主を礼拝しよう」と呼びかけています。恵みの神さまとの関係を取り戻そうと言っています。クリスチャンは行って人々にこの福音を宣べ伝えているのです。まず主を礼拝しよう。それから支援者を探してみよう。住むところを探してみよう。仕事をさがしてみよう。そうして恵みの主が備えておられる救いを見出すことになるのです。私はしばらく前に教会に相談に来られた方に、そのようにお話ししましたら、その方から怒られてしまいました。先に何かやって後で神の話をしろとおっしゃるのです。でも、聖書はそう言っていないのです。今からでも気が付いてほしい思って、祈り続けています。イザヤ書にはこのような一節があります。《【主】は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。【主】が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:18)》
 ある時、ある貧しいクリスチャンの家庭で、夕食の時に食卓に行くと、何も入っていない食器が並んでいました。その日食べ物がなかったのです。みんな席について、食前のお祈りがいつものように始まりました。「天の父なる神様。日々の糧をいつも与えてくださりありがとうございます。…」祈り終えた時、玄関のチャイムがなって、ある人が食べる物を何にも知らないで持ってきたのです。用意されていた食器に食べ物が並べられ、家族は主のみ名をあがめながら感謝してそれを食べたそうです。
 人生のひとつ目の山を超えて、2つ目の山を見据えておられる方々へ、お話します。ひとつ目の山はどうだったでしょうか。振り返ってみて。自分の家のために走り回る人生だったでしょうか。きっとそうだろうと思います。隣の芝生は青いと言います。あの人の人生は楽しそうだなと外からは見えますが、実際、楽な人生はないですね。ちょっと深く聞いてみたら、みなさん本当に苦労しておられます。でも、パウロはこう言っていますね。《私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。(IIコリント4:8-10)》主が共にいてくだされば、どんなことも主が成し遂げてくださいます。ですから、2つ目の山も状況は大きく変わりますが、主がおられるなら大丈夫です。
 振り返ってみて、仕事も大変、子育ても大変。とても礼拝に行けるような状態じゃなかったという方もおられるでしょう。我が家も3人の子育てをしていますから、よく分かります。礼拝したいなと思い続けていたけれど、ちょっと遠のいてしまったというケースは少なくないのではないかと思います。さて、何とか走っている内に、「あれ、時間が取れるようになってきた。自由になってきた」と気がつく時があるかもしれません。さぁ何をしようか。あれもしたいと思っていた。これもしようと計画していた。と、その前に、主を礼拝することは何番目でしょうか。
 お祈りします《万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。》
  
 天の父なる神様。恵みを与えようとして待ち、あわれみを与えようと立ち上がられる義の神である主よ。あなたのみ名をほめたたえ、心から礼拝いたします。
 エデンの園で、あなたは人に「あなたはどこにいるのか」とお尋ねになりました。もちろんあなたは人がどこにいるのかご存知だったでしょう。しかし、人があなたと共に歩むことをやめて、神のようになって自分の知恵で明後日の方向に行こうとしていたことを知っておられました。「あなたはどこにいるのか。」今日も、主が声をかけていてくださることを感謝いたします。主よ。私たちは御前におります。
 あなたのいのちの道に私たちを導いてください。あなたが備えておられる恵みの道を歩ませてください。人生はいつも前途多難ですが、あなたが共に歩んでくださるなら、一体何を恐れることがあるでしょうか。人生の2つ目の山を登っていこうとしている方々に、主の祝福が豊かにありますように。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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