2023.7.9主日礼拝「教会と神の民、実物と影」エペソ人への手紙2:11-22

     


今日から礼拝の前に賛美の時間が設けられるようになりました。会堂の飾りは夏バージョンに変えられ、竪琴と歌の名手だった王になる前の青年ダビデが神に賛美を捧げている絵が見られます。メッセージでは、「教会とは何?」が旧・新約聖書全体の奥義から説明されました。

また午後にはゴスペル同好会が3年ぶりに再開されました。どなたでも参加できます。毎月第2土曜日 午後1:30〜2:30、参加費は300円です。(Re)

 [礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。先聖日の午後は、午後の会が開かれ、多くの方にご参加いただき感謝でした。午後の会は、みなさんから色んな質問を受けて、それに答えるという時間ですが、説教とはまた違う学びがありますね。それは質問から始まる学びです。一方で、説教はこれとは違う要素があります。それは突き詰めると、質問から始まるのではないということです。もちろん、テーマや今日の聖書箇所など色々と考えながら準備していますが、どうしてその話をするのですかと聞かれて、元を辿っていくと、「ここに神のことばがあるから」なのです。その話が私の人生にどう関わっていますか。なぜ今その話を私にするのですか。私(説教者)には分かりません。生きておられる神である主が、手紙を渡して、あなたにメッセージを送っておられる。私は配達員みたいなものです。こんなメッセージが来ていますよとお伝えしているのです。ですから、来ている手紙は全部渡さなければと思っています。

 最近では心理学が発達しまして、こういう時にはこういう言葉が語られると良いよ等と言われるようになっています。すると聖書にはそのような言葉があるんですね。凄いことです。ところが心理学は発展しつづけているわけですから、実は時が経って色々と変わるわけです。昔はあれが良いと言われていたけど、今はこうなのだとか。すると最近になって良いと言われるようになったことも、聖書に見つけることができるのです。本当に凄いことです。ですから、私にはなぜこれを語るのか分からないこともあるのですが、どんなことでも主が情熱と愛を持って語っておられることを余すことなくお伝えしたら良いのだと思っています。後になって価値を見出すことがあるのですから。
 山登りが好きな人は、なぜ山に登るのですかと聞かれて、そこに山があるからと答えるそうです。牧師が、なぜ説教を語るのですかと聞かれれば、その答えは、ここに主のことばがあるからです。
 聖書をお開きください。【聖書朗読】
 
 教会では研修会を開くことがあります。そして参加してくださった方にアンケートを取ることがあります。「今回のセミナーはどうでしたか。次回に向けて改善点はあるでしょうか。」と尋ねて回答をいただきます。ある時、今後取り上げてほしいテーマがあれば教えてくださいと質問を設けましたら、「教会の存在意義について知りたい」と回答がありました。なんだか含みのある回答だなと思いました。教会は何のためにあるのか、色々と考えてしまう状況というものが、信仰生活にはあるのでしょう。
 この話はセミナーのテーマを聞いているのですから、良い回答をいただけたと思います。とても学びのある研修会になるのではと思います。それはそれでいいのですけれども、実は「教会の存在意義って何」という問いは、質問から始めるとうまくいかないのです。
 教会って何?と思い、私たちは自分の目で周りを見渡すことから始めてしまいます。まず教会に名前がついていて、十字架がついた建物があり、牧師がいて、信徒がいて、礼拝とか祈祷会とか活動があり、献金があって、れいけんあらたかな神の御言葉が掲げてあり、などなど…。そこから始めてしまうと、全然見当違いの理解に行き着いてしまうのです。ではどこから始めたら良いのでしょうか。聖書には主イエス様が教会を始めたと書いてあります。三位一体の主から始まった教会を知るには、主から始めなければなりません。
 王寺教会では聖書全体を通して語られているメッセージに耳を傾けようということで、歴史を軸に創世記から全体像を俯瞰して来ました。特にアブラハムから始まる神の民イスラエルの歴史は聖書全体の大部分を占めています。すべての人の造り主であられる主は、全人類の中からアブラハムを選び出して、彼の子孫を特別なご自分の民とし、世界中の人々がイスラエル人を見て、彼らの主ヤハウェは全地の主であることを知るようにされました。さて、ヘブル人への手紙にはこのように書いてあります。《律法(モーセ五書)には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。(ヘブル10:1)》旧約聖書の中には、実物の影だったものがいくつもありますが、実は「神の民」も実物の影でした。主イエス様が地に来てくださり、影で示されていた実物をもたらしてくださいました。それが教会です。
 イエス様はユダヤ人の中から12人をご自分で選び、弟子とされました。12はイスラエルの部族の数です。教会は新しいイスラエルだということです。そしてこう言われました。《わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。(マタイ16:18)》古代イスラエル民族は「神の民」の他に「ヤハウェの集会(神の集会)」と呼ばれることがありました(民16:3など)。おそらくイエス様はこの表現を使い、「ヤハウェの」の部分を「わたしの」に代えて、わたしの教会とおっしゃったのでしょう。こうして主イエス様によって教会は始まりました。
 旧約聖書を開き、古代イスラエル民族を見ると、教会の影をみることができます。影は実物を映していますが、実物ではありません。実物を見ると、影を見ていたときには分からなかったことが分かることがあります。今日、朗読しました箇所に書いてあることです。11-12節《ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。》イエス様以前の人々は影を見ていました。神の民という時、そこにはユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外)の間に線が引かれていました。ユダヤ人はその線を示すために割礼を受けていました。彼らはアブラハムの血筋による子孫だけが、特別に神に愛されていると考えていたのです。ところが実物を見た時に、それは間違っていたことが分かりました。アブラハムの血筋による子孫ではなく、アブラハムの信仰による子孫がイエス様の教会だったのです。新約聖書の最初のページを初めて読んでみた時、なんだこれはと思ったイエス様の系図には、異邦人の名前が含まれていました。イエス様を信じ、イエス様に救われ、イエス様に従う人の共同体が教会です。そこには民族の隔てはありません。
 この教会には主が願っておられる目的があります。それは基本的には神秘ですので、はっきりとすべてのことが分かるわけではありませんが、少なくともいくつかの点は聖書を通して教えられています。ひとつは地の塩、世の光であることです。
 教会の影である神の民を旧約聖書に見ると、教会は単なる人の集まりではなく、共同体であることを知ることができます。神の民はひとつの国となりました。その中には社会があり、人々は共同体の中で生きていたのです。同じように教会は共同体であり、そこには社会現象があります。法律、道徳、政治、経済、教育などの現象があるのです。私たちはみな、洗礼を受けて教会に加えられます。生まれながらにして教会の中にいたという人はいません。洗礼式で水の中に沈んだり(浸礼)、水をたらされたり(滴礼)しますが、それは私たちが十字架の死にあずかり、一度死ぬことを意味しています。そして水から出てくることは、キリストの復活にあずかり、新しい命が始まることを意味しています(コロ2:12)。私たちは生まれ変わり、新しい生き方が始まります。神の民を思い出してみましょう。彼らはエジプトの奴隷状態から救われて、新しい生き方を始めました。約束の地でひとつの国となる生き方が始まりました。それにあたって、神である主がイスラエルにお与えになったのは何でしょうか。律法ですね。聖書です。聖書はそもそも、新しく生まれ変わった人たちが、新しい生き方をするために与えられたのです。聖書を通して、神の御心を知り、イエス様の教会の生き方を知るのです。ただし、先週お話したように、私たちは律法の下にではなく、神の恵みの下に置かれていることを忘れないようにしましょう。人の力によって追い求めるのではありません。聖霊によって変えていただけるように祈りましょう。22節に《御霊によって神の御住まいとなるのです》とある通りです。御霊に満たされて歩むなら、神を愛し、隣人を自分自身のように愛することが出来るようになります。その時、教会に生まれてくる実は、《愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラ5:22-23)》
 新しい生き方によって地の塩・世の光となるように願われている教会には指導者が立てられています。イエス様が最初の教会に12人の使徒たちを選ばれたように、イエス様の昇天の後に広がっていった、各地の教会には指導者が選ばれました。使徒の働きには、パウロとバルナバが《教会ごとに長老たちを選び、断食して祈った後、彼らをその信じている主にゆだねた。(使徒14:23)》と書いてあります。教会の指導者には、使徒たちの他に2種類の人たちがいました。ひとつは教会が福音を失ってしまわないように、聖書を教える奉仕者です。主にある新しい生き方は、世の生き方と全く違うものです。ところが私たちは依然として世に生きているので、常に世の生き方が教会を引っ張り続けています。主イエス様から目を話すと、すぐ波に飲まれてしまうのです。ですから、御言葉を教える奉仕者が立てられました。もうひとつは共同体の新しい生き方をサポートする奉仕者です。エルサレム教会ではやもめたちへの毎日の配給をお世話する奉仕者が選ばれました。教会には今も、聖書を教える奉仕者と新しい生き方をサポートする奉仕者がいます。彼らは指導者たちと呼ばれますが、実際にはこう言われていました。これはペテロの言葉です。《私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(Iペテロ5:1-3)》古代イスラエルの王たちを思い出してください。彼らは他国の王のようには振る舞わないようにと言われていました。国民を支配して搾取するのではなく、牧者が羊を養うように、民に正義と公正を行いなさいと。ところがイスラエルの王たちは、他国の王と同じように振る舞い、羊を養わなかったので、バビロン捕囚へと向かっていきました。教会も同様です。イエス様が教会のかしらであることを忘れてはいけません。指導する奉仕者たちが立てられているとしても、支配するためにいるのではありません。教会は全員が一体となって、新しい生き方によって地の塩・世の光となることを願われています。
 その他に、もうひとつ教えられていることがあります。《あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ28:18-20)》ここに「行って」とあります。これは神の民にはなかった要素です。今まで、異邦人がイスラエルに来て、加えられることはありました。全世界の人々が主を礼拝しにエルサレムに集まってくると歌っている詩篇がいくつもあります。「人々が集まってくる」は以前からあったのです。しかし、イエス様は弟子たちに「行って人々を弟子としなさい」とおっしゃいました。人々が教会に集まってくることはもちろん教会に願われている目的ですが、同時に、教会がそれぞれの場所に散らばって行って、福音を宣べ伝えていくこともイエス様の指令なのです。この宣教は特定の人たちだけの働きではありません。すべての教会員が世界の果てまで散らばっていくのですから、主イエス様のみ名によるひとりひとりの働きです。通常は共同体を整え、互いに愛し合うための日と、それぞれの場所に散らばっていく6日を毎週繰り返しています。
 教会の存在意義とは何か、と尋ねたくなるのは、私たちが主から始まる教会をよく分からないで、世の組織と同じようなことばかりしていると感じることがあるからなのかもしれません。イエス様の教会は聖なるものです。教会は神に属するもの。神から始まった共同体です。
 お祈りします《こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。》
 
 天の父なる神様。天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である主よ。あなたの計画はなんと壮大であり、なんと細やかなものでしょう。私たちをご自分の子として取り戻すために、救いの計画を立て、それを実行し、ついには成し遂げてくださいます。あなたの愛と情熱、また忍耐はあふれるばかりで、計り知ることができません。
 主よ。私たちがあなたを見上げて、あなたから始まる教会をイエス様の土台の上に建てることができますように。新しい生き方を始めたのに、古い生き方に戻ってしまう私たちをあわれんで、きよめて、御霊による歩みへと立ち返らせてください。
 あなたによって選ばれている奉仕者たちを格別に覚えて、あなたの御心に従って、主イエス様の愛によって教会を導くことが出来るように助けてください。花婿である主が帰ってこられるまでに、花嫁である教会を整えて、結婚式に備えなければなりません。私たちはその日を待ち望んでいます。
 今週もあなたは私たちを散らされます。最後の晩餐の用意に行きなさいと言われた弟子たちが、すでに備えられた場所を見つけたように、あなたが行きなさいとおっしゃる時には、その先に福音を待っている人たちがいるということです。失望しないで、あなたの後を歩み、福音を宣べ伝え続けることができますように助けてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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