2023.8.6主日礼拝「新しい天と地を望んで」Ⅰコリント人への手紙7:29-31

礼拝前にも讃美するようになりましたが、
今週の土曜日にもゴスペル同好会ありますので
讃美しましょう!
(まさまさ)

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。今日も主が礼拝の場を備えてくださり、こうして集まることができました。礼拝は教会と神である主との交流の時です。
 聖書によると、主は恵み深いお方です。本当にその通りですね。時にはイスラエルが荒野を通ったように、またヨブがあらゆるものを失ったように、恵みの主が何をしておられるのか分からなくなることもあるのですが、やがて、私たちが「当たり前で、自然にそこにある」と考えていたものが、天から来たのものであることを知るようになります。干からびた岩地から、神のことばによって湧き出した水であることを知るようになるのです。
 そのように神から与えられる豊かな恵みが日々注がれているのですが、私たちはそれを受け取るように造られました。これを恵みの手段(恩寵の手段、Means of grace)によって恵みを受け取ると言います。主が与え、私たちが受け取る。これは人と神とのコミュニケーションです。イエス様と天の父との間に見られたものです。
 主が造られた植物を見ますと、太陽の光を浴びて光合成をし、栄養を得ています。大豆の苗に太陽の光を浴びせると、成長し、枝豆や大豆になっていきます。太陽の光を遮ると、もやしになります。(どちらも美味しいですけれども)神の恵みは日々豊かに注がれているのですが、それを受け取るか、遮るかの選択肢が私たちにあるということです。神の恵みという大前提があります。そして私たちが恵みを喜んで受け、感謝の歌声を返す営みが、いま行われているのです。礼拝は恵みの手段です。他にも、祈り、断食、黙想、聖書の学び、少人数の交わりの集会、日誌、健康的な習慣なども、主と私たちの交流の営み(恵みの手段)として、教えられ、用いられてきました。
 この世のものはやがて過ぎ去ります。しかし、神である主と私たちとの関係は永遠のものです。
 今日も、人の悟りに頼らず、神の知恵をいただき、主に依り頼んでいきましょう。聖書をお開きください。Iコリント人への手紙7:29-31(336ページ)【聖書朗読】
 
 しばらく間が空いてしまいましたが、イエス様は始められた新しいイスラエル、すなわち教会について話をしていました。私たちはいま、狭間の時代にいます。新しい神の国の幕が上がり、イエス様の再臨によって、その幕が完全に開かれるのを待っています。「神の国はすでに来ていて、やがて完全に来る」。その時代を歩んでいるのです。
 今日、開きましたのは第1コリント人への手紙です。この手紙には「この世の霊(2:12)」とか、「生まれながらの人間(2:14)」とか、「古いパン種(5:8)」などといった言葉がよく出てきます。コリントの町のクリスチャンたちは、狭間の時代にいきる教会が、イエス様の再臨を待つまでの間にどのように生きるべきかを分かっていませんでした。それで、数々の神の国には相応しくない問題(世的な問題)が勃発し、パウロの指導を必要としていたのです。
 今日は3つのことが書いてありますので、それらに注目してみましょう。①《妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。》(結婚のこと)②《買う人は所有していないかのようにしていなさい。》(財産のこと)③《世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。》(世の支配や制度のこと)
 ①《妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい。》
 ある時、サドカイ派の人たちがイエス様に質問しました。モーセの律法には《『もし、ある人の兄が死んで妻を後に残し、子を残さなかった場合、その弟が兄嫁を妻にして、兄のために子孫を起こさなければならない。』》と書いてあります。ある7人兄弟が、この命令を忠実に守りました。長男が子を残さずに亡くなったので、次男は長男の妻を迎えました。しかし次男も子を残さずに亡くなり、三男が長男の妻を迎えました。以下同じことが起こり、最後に妻も亡くなりました。では、復活の時に、彼女は誰の妻になるのでしょうか。彼女は順番に7人の妻であったのですが。という質問でした。するとイエス様はこう答えられました。《この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。(ルカ20:34-36)》イエス様の言葉によれば、次の世で復活した人たちには、結婚がなく、死ぬことがなく、天使のようであるということです。またこれらから推測できることは、子どもを生むことも無いのではないかということです。このイエス様の言葉にはびっくりしますね。
 先日、子どもたちが絵本を読んでほしいというので、ある絵本を読んであげました。白雪姫でした。色々とバージョンがあるのだと思いますが、その絵本は最後、白雪姫と王子様が結婚するところで終わっていました。人の考えの中に、結婚は最上の幸せであるというイメージがどこかにあるのです。実際、結婚はエデンの園でアダムとエバの時から定められていた神さまの祝福です。彼らが罪を犯す前から、創2:24《男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである》と定められました。また彼らが子どもを生み、増えて、地を満たしていくことが祝福であると記されています(創1:28)。結婚は事実、神が定めた祝福です。
 それなのに、やがて来る神の国(天の御国)には、結婚がなく、子どもを生むこともない(と推測される)ことは驚きです。イエス様どういうことですかと聞きたくなります。これはどういうことでしょうか。つまり、主がこの世界を巻物を巻くように終わらせ、新しい天と地を創造される時、新しい形の祝福を用意されるということです。この世における神の祝福の形は過ぎ去って、新しい祝福の形が創造され、私たちに与えられるのです。結婚も過ぎ去り、私たちが見たことも聞いたことも考えたこともない、新しい祝福が与えられます。
 私たちは主が先に造られた世界に住んでいます。ここには結婚や子育ての祝福があります。しかし、イエス様が帰ってこられる時、世界の全ては過ぎ去り、新しい天と地がやってきます。その狭間を歩んでいる私たちは、それに相応しく生きるように願われているのです。パウロはコリント教会に《妻のいる人は妻のいない人のようにしていなさい》と教えました。新しい祝福への希望をもって、この世の祝福に執着しないようにしなさいと教えました。コリント教会がこの世の祝福だけを追求していたからです。一方で、反対の極端の人たち、つまり禁欲主義に陥って、この世での祝福を拒否する人たちがいました。結婚を禁止する人たちに、パウロは《神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。(Iテモテ4:3-4)》と教えています。この2つを表面だけを見ると、八方美人のように聞こえてしまうでしょう。ああ言えばこう言う的な矛盾を感じるかもしれません。でも、矛盾ではないのです。今の世も、新しい天と地も、主が創造された世界だからです。主が備えてくださった結婚と子育てを喜び楽しむことは、恵みの神を証しすることになります。また同時に、それは過ぎ去るものであると示し、新しい天と地の祝福に希望をもって生きることも、将来と希望を与える神を力強く証しすることになります。
 そういうわけですから、この2つのことを一人で証しすることはできません。教会という共同体の証が必要なのです。教会には結婚している人も、独身の人も等しく必要です。子育てをしている人も、していない人も同じく必要です。どちらか一方が他方を低く見たり、批難することがあってはなりません。私たちは御霊によって一つとされ、恵み豊かな神が新しく創造してくださる、さらにまさる祝福を待ち望むように願われているのです。
 ②《買う人は所有していないかのようにしていなさい。》
 今度は財産のこと、お金のこと、この世の富のことです。不正な管理人というイエス様の例え話があります。ルカの福音書16章に書かれている例え話です。ある金持ちの財産管理人が、主人の財産を無駄使いしていて、それが主人に見つかりそうになったのです。もうこの仕事は続けられないと悟った管理人は、主人の債務者を一人ひとり呼んで、証文を実際の借入分よりも安く書き換えさせました。この不正の富で、自分のために友を作った人の賢さを褒めるという例え話です。一見、何の教えだろうと首をかしげてしまう話ですね。この管理人には、2つの期間がありました。金持ちの財産管理人である期間と、首になってしまった後の期間です。彼は管理人を止めさせられてしまった後のために、管理人であるうちに利用できる財産を使って、友を作ったのです。その友は、彼が仕事を失ってしまった後に彼を助けてくれる人たちになりました。(この例えは不正を推奨する話ではありません。)
 私たちの受ける富は、主が恵みによって与えてくださったものです。私たちは収入に対する献金によって、すべての収入は主が私たちの手の業を祝福してくださったことによると証しています。初穂をささげた後の残りは、私たちが自由に喜び楽しむために与えられている恵みです。神の祝福なのです。しかし、イエス様が帰ってこられる時、それらは全て過ぎ去り、新しい祝福が与えられるようになります。ですから、この世の富に執着してはいけません。むしろ、それを永遠に残るもののために用いることが賢いのです。
 繰り返しますが、快楽主義は一方の極端、禁欲主義は他方の極端です。どちら側にも倒れてはいけません。これから先何年分も「食べて、飲んで、楽しめ」とむさぼることは愚かなこと(ルカ12:19)、「つかむな、味わうな、さわるな」と禁じることは《何の価値もなく、肉を満足させるだけです。(コロ2:23)》
 ③《世と関わる人は関わりすぎないようにしなさい。》
 パウロの手紙には、ローマ政府との関わりや、奴隷と主人の関係について色々と書いてあります。それらの制度をそのままにしておきなさいという教えです。1世紀のローマ帝国と現代の日本では、環境が随分違いますので、そのまま私たちの生活に当てはめて考えることが難しいところではありますが、これは世との関わりの話です。世の支配と制度の話をしているのです。
 新しい天と地では、この世の有様と根本的な部分が変わってしまうのです。イエス様はすべての人の王として来てくださいましたが、この世ですべての政府を打倒して王となるのではなく、来るべき世の王として帰ってこられる日を待ち望むようにと弟子たちに教えられました。
 最近SDGsという国際目標が話題となっています。とても素晴らしいことです。主が創造してくださり、人にお世話を任せておられる世界を破壊するのではなく、守っていくことは御心にかなう大切なことです。しかし、この世界は主が定められた時に終わります。新しい世が来た時、SDGsは持ち越すことが出来ません。新しい世には新しい天と地の仕組みがあるからです。この世の悪と立ち向かい、正義と公正の神を証しすることは大切なことです。それと同時に、この世の有様は過ぎ去り、新しい天と地が王なる主イエス様とともにやってくることを告げ知らせなければなりません。
 以上、お話してきましたように、私たちはこの世の有様が過ぎ去ることを覚えて、この狭間の時代を、すでに新しい神の国の子とされた者として歩むようにと願われています。今ある世界も主がお造りになり、お世話しておられるものです。今の世の祝福を喜び楽しみ、主に感謝することは大切なことです。しかしそれ以上に、やがて来る、さらにまさる祝福を待ち望みましょう。
 結局のところ、私たちが持ち越すことができるのは、私たちと主との関係だけです。この世の有様が過ぎ去るとしても、恵みの主は永遠に変わることのないお方ですから、信頼して待ち望むことができます。
 お祈りします《兄弟たち、私は次のことを言いたいのです。時は短くなっています。…泣いている人は泣いていないかのように、喜んでいる人は喜んでいないかのように…していなさい。…この世の有様は過ぎ去るからです。》
 
 天の父なる神様。恵みとまことに富んでおられる主よ。
 あなたの新しい創造の約束を思い出しています。《見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。(イザヤ65:17-18)》とおっしゃいました。私たちは今の世のことしか知りませんので、先のことが心に上ることもないほどに、新しい天と地の祝福が素晴らしいものであることを想像すらできません。知恵がなく、過ぎ去るものに執着してしまう私たちを、どうかあわれんで助けてください。私たちの心を、あなたへの信頼と、将来への希望に満たしてください。
 いま与えられている祝福を、朽ちることのない永遠のもののために用いることができるように、教え導いてください。あなたは教会の一人ひとりのそれぞれの重荷を与えてくださっています。どうか聖霊なる主が、教会を愛の帯によってひとつにしてくださいますように。一人ひとりが互いを尊重し、愛によって結び合わされますように。ひとつのキリストのからだとして、それぞれの器官がそれぞれに働き、共に主を証ししていくことができますように。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


 

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