2023.7.23主日礼拝「シモンの姑の癒やし」マルコの福音書1:29-31

 


 梅雨が明けました。ますます暑い日が続きますが、体調に気を付けましょう!

(あかつきさん) 

礼拝説教 中尾敬一牧師

 おはようございます。ようこそ礼拝にお越しくださいました。今日は神である三位一体の主、古代からヤハウェと呼ばれ、二千年前には御子イエス・キリストとして人となって現れ、今は聖なる御霊として教会のひとりひとりのうちに住んでいてくださるお方を、私たちは礼拝しています。目には見えませんが、歴史の中に現れてくださった証拠や証言と、信仰によって歩む人々の人生に今も生きて働いておられることを認めることができます。
 主は良いお方です。聖書にはこう書いてあります。《すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父(なる神)から下って来るのです。》聖書から分かることは、神である主は良い贈り物を気前よく与えてくださるお方だということです。この世界にある悪、また私たちが経験する不幸は、人が神から離れたことによって、まことの神からの贈り物を受け取らなくなってしまった結果です。(もうひとつは神に属さない霊が引き起こすものです。)神から離れることを罪と言います。罪は自分への悪影響にとどまりません。Aさんの罪はBさんにもCさんにも悪影響を与えています。まるで絡まった糸のように複雑で全容を知るすべがありません。すべて人の罪が解決するまで、悪は世に留まり続けています。しかし、聖書は《光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1:5)》と言っています。私たちは、闇が支配する世界で、天の神から下ってくる光を受け取っています。主は良いお方です。クリスチャンはいいなと思われた方。先程の聖書の言葉には続きがあります。《父には、移り変わり…はありません。この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。(ヤコブ1:17-18)》今のクリスチャンは初穂と言われています。初穂とは、畑で最初に収穫した作物のことです。まだ今のクリスチャンたちは最初のちょこっとした部分だけであって、まだまだ大部分が残されているということです。あなたにも、上からの良い贈り物を受け取るために、主イエス様の御元に来て、十字架を仰ぎ、その御名を信じていただきたいと願っています。
 聖書をお開きください。マルコの福音書1:29-31(66ページ)【聖書朗読】
 
 今日の舞台はカペナウムという場所です。ここにはイエス様の弟子のシモン(ペテロ)とアンデレの家がありました。ペテロとアンデレは兄弟です。イエス様は公に人々の前に出てこられてから十字架にかかられるまでの数年間、12弟子たちと共に各地を行き巡り、神の国の福音を宣べ伝えておられました。各地の滞在には弟子たちの関係の家に泊まっておられたようです。特にカペナウムの周辺を巡る時には、このペテロの家が拠点として使われていました(2:1、3:20、9:33、10:10)。
 21節を見ますと、この日は安息日でした。安息日といえば、何でしょうか?食事です。イスラエル人の安息日といえば、家族、親戚、友人が集まって会食をするのです。律法は「主の御前で共に食事をし、神が祝福してくださった手の業を喜び楽しみなさい」ですよね(申12:7など)。イエス様の一行が会堂に行って、帰ってきました。ぞろぞろと一団が帰ってくる。次は会食の時間です。さて、この時、家では何が起こっていたでしょうか。30節《シモンの姑が熱を出して横になっていた》のです。彼女は、シモンの姑と書いてありますね。姑ですから、ペテロの妻のお母さんです。ペテロの母ではなく、義理の母です。ペテロとアンデレの家に、ペテロの妻のお母さんがいて、熱を出して横になっている。何か事情がありそうですね。元気でその場にいたのなら、その時は手伝いに来ていただけかもしれないと思いますが、病気で熱を出して寝込んでいたのですから、その家に一緒に住んでいたのでしょう。彼女にとってみたら、ある意味、自分の家ではないところに住んでいて、今日はイエス様の一行が食事にやってくる日で、ところが自分は熱を出して立っていることもできないわけです。彼女はこの時、どんな思いで横になっていたのでしょうか。みなさんは似たような経験をされたことがあるでしょうか。その時、どのような思いでおられたでしょうか。
 彼女は苦しかったと思います。もちろん立てないほどの熱があるのですから、頭がボーッとして、全身がだるくて、関節も痛み、食欲もなく、息も苦しく、辛かったはずです。頭痛もあったでしょうか。熱の辛さは、治まると忘れてしまいますね。ですから周りから軽く思われがちです。一度熱が出始めると、「そうだった何も出来なほど発熱は辛いのだった」と思い出します。横になりながら、早く治まってくれと願っていたことだろうと思います。また、安息日に他の家族はみんな礼拝に出かけてしまって、心細かったでしょう。ユダヤ人は安息日には働いてはいけないと言われていましたので、料理はしません。前日に料理をしておいて、それを出すのです。あとで会食があっても、準備は終わっているので、会堂に行くことができます。みんな出かけてしまって、神にも見放されたような気持ちがあったかもしれません。何か悪いことをしてしまったのだろうか。神の怒りに触れたのだろうか。そんな気持ちになってしまうことってないでしょうか。そうして、治れ、治れと思っているうちに、イエス様の一行が帰ってくる音が聞こえました。これから会食がはじまります。何とか起き上がって、イエス様のお世話をしなければと思っていたでしょう。
 一方、イエス様と共に帰ってきたペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、先程会堂でイエス様が汚れた霊につかれた人を、ご自分の権威によって汚れた霊から解放されたことを見ていました。家に帰ってきて、シモンの姑が熱を出して横になっていたので、すぐに彼女のことをイエス様に知らせました。私たちが彼らのように、苦しんでいる人を見かけた人の側だった時、何が出来るでしょうか。すぐにイエス様に知らせることができます。いつも教会では兄弟姉妹のために互いにお祈りしています。これはそういうことです。もちろん主は全知全能の神ですから、すべてのことを知っておられるのですが、だからといって「知っているでしょ」とは言いませんよね。すぐに祈って、イエス様に知らせます。実はこれは、私たちがすぐにできる最善のことです。主は癒やしを受ける人の、主に依り頼む心を喜ばれるといいます。また同時に周りの人たちの心も見ておられるのです。みんなが主イエス様を信じ、イエス様に知らせるなら、一体何が主の御手を妨げるでしょうか。
 イエス様はシモンの姑が熱を出して横になっていることを知らされ、彼女のそばに来られました。どんな思いで彼女のそばに来られたでしょうか。「お腹すいたから早く食事を出してくれ」と言ったでしょうか。31節《イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。》3つの動作、ひとつひとつにイエス様の愛を感じます。「そばに近寄り」「手を取って」「起こされた」主は変わることのないお方です。すなわち、私たちが苦しんでいる時にも、主イエス様はご自分からあなたに近寄り、そばにいて、触れてくださるお方です。このようなイエス様をどのように思われますか。
 イエス様が彼女に触れて、起こされた時、熱がひきました。ちょうど熱が下るタイミングだったのでしょうか。いいえ、イエス様によって癒やされたのです。ルカの福音書の同じ出来事を見ると、イエス様が熱を叱りつけると、熱がひいたと書いてあります(ルカ4:39)。彼女はすぐに立ち上がって、食事の用意をして、イエス様の一行をもてなしました。寝ていて熱が下がってきたのなら、こんなにすぐに動き出したりできません。彼女は病気が癒やされて、いつものように元気になったのです。
 ペテロの姑はひどい熱をだして横になり、苦しんでいました。人ぞれぞれに人生の苦しみがあることでしょう。この熱病に代わる、あなたの苦しみは何かあるでしょうか。それは何でしょうか。どうしたら良いのでしょう。あのシモンの姑のように、イエス様にしていただきたいと思いませんか。イエス様は《わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)》とおっしゃいました。ペテロたちが姑のことをイエス様に知らせたように、あなたもイエス様に祈って、わたしはここで、このように苦しんでいますと知らせるなら、(また私たちも一緒に祈ります。)そうするなら、イエス様はあなたに近寄り、手を取って、起こし、問題を解決してくださいます。イエス様の御手にゆだねてみましょう。
 シモンの姑は癒やされて、熱がひいたあと、すぐに起き上がって、食事の用意をし、人々をもてなしました。これは義務感からだったのでしょうか。娘の夫の家に住んでいて、熱で寝込んでいたのだから、やらなければいけないと思って飛び起きたのでしょうか。そうではないと思います。彼女はイエス様の愛を知ったのです。主が私を愛してくださっていると、一連の出来事の中で経験したのです。このことを「イエス様と出会う」と言います。この世界を造られ、あなたを母の胎の中で創造し、いまもお世話をし続けておられる神である主は、あなたを愛しています。これは人に愛されることと全然違います。人は移り変わるからです。この時は優しくても、次の時は優しくない。あの時は親切でも、今度は冷たい。そんなことがあるからです。ところが、神である主は《移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。(ヤコブ1:17)》光のように、いつも変わらず、愛し続けておられるお方です。イエス様と出会うことが大切です。主が私を愛してくださっていると知るなら、人に仕える心があふれてきます。シモンの姑に起こったのは、そういうことです。主の愛を知り、喜んで仕える者になったのです。彼女の本当の苦しみは、熱より深いところにあったのでしょう。彼女が娘の夫の家に住んでいたこと、食事の用意もできずに寝込んでいたこと。その中で感じてきた辛い思いを、イエス様は愛で包み、解決してくださいました。
 イエス様は目に見えないお方です。十字架の死から復活された後、天に昇られたからです。しかし、目に見えないとは、いないということではありません。いるだろうという想像ではありません。イエス様が天に昇られる前に、《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)》とおっしゃったことが聖書に書いてあります。あなたの苦しみをイエス様に知らせるなら、今もイエス様は、シモンの姑にしてくださった時と変わらずに、あなたに近寄り、手を取って、起こしてくださいます。
 いや、そんなこと、あっちの神さまにも、こっちの神さまにもお願いしてきたとおっしゃる方もおられるでしょう。でも、イエス様にはお知らせになったでしょうか。イエス様に祈ってみませんか。教会堂に来ないとお祈りできないなんてことはありません。あなたが今いる場所でいいのです。献金が必要とか、そんなことはありません。イエス様は目に見えないけれど、あなたとともにいるとおっしゃるのですから、話しかけてみたらいいのです。「今日、シモンの姑が苦しみを取り除いてもらったと聞きました。イエス様、私の苦しみも知ってください。」と祈ってみてください。
 第1ヨハネの手紙4:16にはこう書いてあります。《神は愛です。》今日、あなたがイエス様と出会い、主の愛を知ることができるように願っています。
 お祈りします《イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。》
 
 天の父なる神様。私たちの内臓を造り、母の胎の内で私たちを組み立てられた方。私たちの主よ。
 あなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さは、人知を超えています。それは私たちが人の愛では経験したことがない、全く大きさの違う、完全な愛です。あなたは熱を叱りつけて、治めることが出来る権威をお持ちのお方です。しかし、あなたは単にシモンの姑の熱が下がれば良いとお考えになったのではありませんでした。彼女がどんな背景でその家に住み、病の中でどのような思いでいたのかよくご存知でした。あなたは近寄り、手を取って、彼女を起こしてくださいました。ひとりの小さな人の尊厳を認め、愛をもって触れてくださいました。熱よりも、もっと深いところにあった問題に、あなたは気が付いてくださり、それに触れて、癒やしてくださいました。あなたは私たちにもそのようにしてくださいます。あなたは変わることのないお方だからです。
 今日は、主の御前であなたが祝福してくださった手の業を共に喜び楽しむ日です。すべてはあなたの恵みによります。主よ。あなたは良いお方です。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 

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