2023.6.25 上半期感謝礼拝「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」マタイの福音書7:6-11


今日は入門書のお話を聞く日です。楽しみです。私たちの仕事は、神様の仕事を共に喜ぶことだと最初に聞いてホッとしました。会堂にはアガパンサスの花が方々に飾られて、室内も夏花の飾りがしつらえられています。(Re)

 [礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。2023年の上半期を、個人としても、群れとしても守られ、感謝の礼拝をもっております。今年はIペテロの手紙3:15から「キリストを主とし、聖なる方としなさい」の御言葉を与えられ、「目に見えない主イエス様の御名によって働こう」と掲げて、半年を歩んでまいりました。「働く」という言葉について、いつか説明しますと言いながら、ようやく先週、機会が与えられて、聖書のことば(働く)を解き明かすことができました。クリスチャンの働きは、食べ物を得るための仕事ではありません。生きるために必要なものは、いつも主が、私たちの手の業を祝福して、備えてくださるからです。主にある者たちの働きは、神である主の喜びを共に喜ぶことです。目に見えないけれども、確かにここにおられて、働いておられるお方の仕事を一緒にして、共に喜ぶことなのです。そのために大前提のなるのが、「キリストを主とし、聖なる方とすること」です。目に見える誰かが主導しているのではありません。目に見ないイエス様が教会のかしらであり、すべてのことを先導していてくださいます。聖なる方とするとは、イエス様以外には頼らないということでした。神だったら何でも頼れるかというと、そうではありません(そもそも主以外に神はいませんが)。私たちを愛しておられる方でなければ、また約束に誠実なお方でなければ、このようにはならないのです。

 この半年の恵みを数え、主に感謝いたしましょう。これから後半に入っていきますが、主から与えられている御言葉をもう一度思い出し、目に見えない事柄に心を留めながら、歩み続けましょう。
 聖書をお開きください。マタイの福音書7:6-11(11ページ)【聖書朗読】
 
 今日は入門編のお話をする日です。今、開きましたのは。イエス様の山上の説教と呼ばれる箇所です。《求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。》このイエス様のことばは有名ですので、どこかで耳にされたことがあるかもしれません。
 6節から朗読しましたので、そちらも合わせてみていただきたいと思います。「聖なるもの」と出てきます。聖なるものとは、神に属するもののことです。例えば聖書もそうです。神の国もそうでしょう。「真珠を豚の前に投げてはいけません」という言葉は、日本の諺にも成っています。豚に真珠。「どんな立派なものでも、その価値を知らない者にとってはなんの役にも立たないものである」という意味です。
 聖書や神の国、その他の神からくるものは、価値の見出し方があるのです。それを知らなければ、何の役にも立ちません。続くイエス様のことばが、聖なるものの価値の見出し方を教えています。《求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。》そうして天の父の話が続きます。すなわち、聖なるものに価値を見出すのは、神がおられることを認め、神とコミュニケーションを取ることから始まるということです。自分の目に見えることだけを現象として理解しようとしているうちは、聖書にも神の国にも価値を見出すことができません。聖書はビジネスの指南書として良いとか、聖書を読むと道徳的な生活ができるようになるとか、色々と言われていますが、イエス様は、横を見てあれこれ考えているうちは何にもならないとおっしゃいました。天を見て、神である主に語りかけることから全てが始まるのです。
 最近、私は進化に関する本(THEISTIC EVOLUTION:A Scientific, Philosophical, and Theological Critique)を読んでいます。クリスチャンが進化の本を読むんですかと驚かれますが、科学は好きです。科学を知ると、神様の働きの素晴らしさに感動するからです。最近の科学の発展によって、生き物の遺伝子の働きやボディプランと呼ばれる身体構造の仕組み等が解明されてきているそうです(素人なので専門的なことは全然分かっていませんが)。進化(退化)は生物が変化するという話ですが、いわゆるダーウィンから始まる進化論は、生物を自然界に置いておけば非常に長い時間の後に自然の仕組みによって(神の働きなしに)変化するという仮説があります。これが聖書の啓示とぶつかっているわけです。はじめに神が天と地を創造し、主が植物と生き物を丁寧に形造ってくださったと教えられています。
 進化の仕組みを調べると、遺伝子の突然変異によって特徴が変わっていくそうです。ところが、自然の中に生物を置いておいて非常に長い年月放置していたら、突然変異によって身体構造が変わり、新しい種が生まれると説明することは未だにできないと言います。化石を調べると、大体、古い種から新しい種の化石が出てくるまでの時間が分かります。突然変異が起こる確率と、新しい種になるために変異が必要な配列の数から時間が割り出せますが、計算上の時間と化石の記録は全くかけ離れていて、時間が足りません。また突然変異がひとつずつ起こると、殆どの場合、安定した生き物にならないそうです。私たちは普段、突然変異を障がいや病気と呼んでいます。中途半端な変化は、進化ではなく命を縮めることになるのです。ですから、人が実験室で狙ったとおりに遺伝子操作するように、誰かが設計して、安定したボディプランを形成できるように変化を与える必要があります。ひき肉と豆腐をお皿の上に置いておいても、何億年待っても麻婆豆腐にはならないのです。また自然淘汰という話になると、地球の天候が急激に変わって何々と言いますが、神である主は天候を変えると聖書に記録されています。イエス様は天気を変えたと証言があります。そもそも地球という惑星が宇宙の中でどれだけ特別か、そんな話を始めたらキリがありません。どうして重力に逆らって飛ぶ飛行機があるのでしょう。鉄を放おって置いて偶然飛行機にはなりません。それを作った人間がいるのです。人が遺伝子操作をして出来ることは、当然、神様もおできになります。
 進化の仕組みを知ると、神様がいないのではないこと、また神が仕組みだけ作って、後は自動的に動いているのでもないこと、主が心を込めて生き物を形造ってくださり、今もなお、手をかけていてくださることが分かります。だから感動するのです。
 神である主を認め、目に見えないけれども確かにおられる主と人格的な関わりをもつ人たちは、縦向きに世界を見ています。ですから神の業である科学にも、上から下に見ることができます。実際にクリスチャンで科学が好きな人は沢山います。しかし、目に見えることだけを考えて、科学に打ち込んでいる人は横向きに世界を見ているので、どこまで突き詰めても目線が神に向かうことがありません。結局のところ、まず神を見上げることから始まるのです。
 では、今日はこのような説教をしながら、何を言いたいのでしょう。ある時の集会で、クリスチャンたちのグループでディスカッションをしていました。私はある方の言葉に引っ掛かってしまったのです。その人はこのようなことを言っていました。「結局、神様を信じないという人に何を言っても仕方がない。」_ まるで平行線だからお互いに交わることはないと私には聞こえたわけです。しかし、神である主の姿を聖書に見る時、主の思いとその言葉にずいぶん開きがあるように思えて、引っ掛かってしまいました。「神様はそのようにはおっしゃらないんだよな」と思ったのです。
 ある人が昔を振り返って、証している記事を読みました。妻がクリスチャンで、自分は信じない人だったそうです。《ある日すごく不安になった。会社の帰りの電車で思わず祈りました。つり革を持って立ってたんですけど、神様助けてくださいって。祈ったとたん、すごくあったかい気分になって涙が出てきて、涙を流すなんて何年ぶりかなと思ったんです。でもそれも、ま、気の迷いだ、神様なんかじゃねぇわって封じ込んできました。》今の時代は、どんなに神様を感じる経験をしても、あるいは事実を見ても、すごいなと思った後でやっぱり気の迷いだと思ったり、偶然だったと思ったり、確率の問題だと片付けてしまう時代です。観察できないものは存在しない、上には何もない、目に見えるものが横に広がっているだけと仮定し、頑なに天を見上げることを拒否する時代だと思います。そんな人たちは、それで仕方がないのでしょうか。ところが、先程の証をしていた彼は、後に神様を信じて、さらに牧師になりました。
 一体何があったのでしょうか。彼はただひたすら現象だけを見る生活をしていました。横向きにしか見ていかなかったし、見ようとしませんでした。神様がいるはずがない。天があるなんて、ただの空想だと思って、ベクトルは横を向いていたのです。ところが神様のベクトルは縦向きだった。天から地に目が注がれて、主は彼を見つめておられたのです。
 聖書を読むと、「私は神を信じない」と言う人たちを見つけることができます。実は今の時代に始まったことではありません。昔の人は科学とか知らなかったから、みんな神を信じていたんだろうと思っておられるかもしれませんが、そんなことはありません。およそ3500年前から書かれた聖書の記録を読むと、いつの時代にも神の存在を認めず、目に見えるものだけを信じようとする人々が沢山いたと分かります。先日お話したイエス様の弟子のトマスも、《「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)》と言ったのではありませんか。「そんなことを言っているなら、もう知らん」と神様は見捨てたのでしょうか。いいえ、主は彼の言葉をじっと聞いておられました。
 人が神がいると思うか、思わないかは、主がおられるという事実に何の影響も与えません。とても科学的だと思いませんか。神がいると思ったら神が出てくるのでしょうか。神がいないと思ったら消えてしまうのでしょうか。あなたが神はいないと思っても、天におられる主はあなたに目を留めておられる。ただその事実があるだけです。
 それではどうして主は、神を信じていない人の意見を変えさせるために、自然の謎を教えたり、復活の仕組みを説明したりされないのでしょうか。今、巷では若い子たちの間で「はい論破」というのが流行っているそうです。相手の考えを打ち負かして、論破したというそうです。神である主はすべてを創造されたお方であり、今もすべてを支配しておられます。人が見落としていることをいくらでも指摘して、いとも簡単に論破できるお方です。しかし、それをしようとはなさいません。そうしてもあなたとの関係を取り戻すことはできないとご存知だからではないでしょうか。論破の後に平和な人間関係がくることはないでしょう。
 だから主はあなたにこうおっしゃるのです。《求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。》神との関係はここから始まります。そして洗礼を受けてクリスチャンになった人にも同じことです。クリスチャンになってしばらくして、目に見えるものだけを見る横向きの目線に戻ってしまうことがあるからです。天を見上げましょう。「見ても空があるだけじゃないか」と思うかもしれませんけれども、(主は意図的に見えなくなられたと聖書にあります)人の目に見えなくても、主はあなたに目を注いでおられます。
 
 お祈りします《だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。》
 
 天の父なる神様。私たちはあなたを待ち望みます。み顔を隠しておられる方を。私たちはあなたに望みをおいています。
 あなたはイスラエルの民への熱心を教えてくださいました。あなたに帰らず、万軍の主を求めない民に、なおも御手を伸ばされたお方でした。あなたは変わることのないお方です。すなわち、今も私たちひとりひとりに御手を伸ばしていてくださいます。あなたの愛と忍耐は計り知ることができません。そっぽを向いている私たちに目を注ぎ、心に留めておられるといいます。《人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。》
 主よ。あなたとの関係を始めることができるように。どうかあわれんで助けてください。天を見上げることを忘れて、横向きの目線で、目に見えるものだけを見るようになってしまう私たちを顧みて、もう一度あなたの語りかけを聞かせてください。
 あなたは今もおられて、生きて働いておられるお方です。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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