2023.5.28 ペンテコステ礼拝「聖なる御住まいを離れて」ルカの福音書9:28-36

















今日は第4日曜日で、説教では入門編のお話を伺う日です。最初に牧者は、あなたはどうして聖書を読もうと思われたのですか?と問われました。その問いが礼拝中、ずーっと心の中に残っていました。私は20歳の頃。太宰治の小説で「空の鳥を見よ、野の百合…」の引用文に不思議に惹かれて次を読みたくて聖書の箇所を見つけました。他にも伏線はありましたが、何年も経ってから教会に行き始め、洗礼を受けもう50年になります。最初の日のことを思い出して感慨にひたりました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステとは使徒の働き2章に書かれている出来事を記念する日です。イエス様が天に昇られてから10日後、ちょうど五旬節という、主がレビ記で定められた祭の日に、弟子たちが同じ場所に集まっていました。すると天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、弟子たちがいた家全体に響き渡りました。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まりました。すると弟子たちは皆、聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろな外国語で話し始めました。全世界に散らばってい住んでいたユダヤ人が、祭りのためにエルサレムに集まっていたからです。彼らは外国語しか分かりません。その人たちに弟子たちは、キリストであるイエス様がよみがえられたことを伝えました。このように教会全体が初めて聖霊に満たされた出来事をペンテコステと呼んでいます。
 先週のことですが、美術係の方から壁の絵をペンテコステに向けて取り替えますと伺いました。その時、私はひとつリクエストをしました。今年は、出エジプト記に書かれているシナイ山のモーセを題材にしてもらえませんかと。なぜなら、五旬節の祭りは、エジプト脱出から50日目にシナイ山にたどり着いた民が、現れてくださった主ヤハウェとお会いして、聖書(十のことばの石板)をいただいたことを記念する日だからです。
 ペンテコステと聞いて、イエス様の弟子たちに降った聖霊を思い出せるようにしてください。また同時にシナイ山のモーセ(イスラエル)に現れた主(出19章)が思い浮かぶようにしてください。エジプトを脱出した過ぎ越しの祭の時にイエス様の十字架があり、シナイ山に主が現れた五旬節の時に聖霊の降臨がありました。やがて約束の地に至る神の救いの計画が成就しています。五旬節とペンテコステに繋がりがあるから何なのかという話は、追々やっていきたいと思います。
 今日は入門編のお話をする日です。聖書をお開きください。ルカの福音書9:28-36(132ページ)【聖書朗読】
 
 入門編ということで、初めて説教を聞いている方がおられるかもしれません。その方々はどうして聖書を読もうと思われたのでしょうか。もし対面で聖書の勉強会を開くなら最初に聞いてみたい質問です。色んな答えがあるようです。他の人の推薦や自己啓発本に聖書が出てくるから読み始めた。「実際読むと心が落ち着く」「どのように生きたら良いか知りたい」「性格を変えたいと思った」といった声。あるいは「家族がクリスチャンで何を考えているか知りたいと思ったから」。他にも、池上彰さんが「聖書は世界の教養だ」と言っていたからという声もありました。確かにどんな学問も追求していくとヨーロッパ人の土台が出てきて、それを深く理解しようと思えば聖書を学ぶ必要が出てきます。このように色々な理由で人々は聖書を手にとって読むようです。聖書は町の書店でもAmazonでも買えますし、アプリなどで無料で読むこともできるので、誰に知られることもなく気軽に読み始めることができますね。
 聖書も本ですから、読みたいように読むことができます。学校の教科書でも内容を読まずに顔写真に落書きばっかりしている人がいますけれども。まあ最初から全部読んでも、好きなところだけ読んでも、読む人の勝手でしょう。しかし、読む人の勝手じゃないかと言われることを承知で、それでもお伝えしたいことがあるのです。聖書には書かれた目的があります。聖書のある箇所にはこのように書いてあります。《これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)》聖書には書かれた目的があり、それは聖書を読んだあなたがイエス様を知り、信じて、いのちを得ることなのです。すなわち「あなたにとってイエス・キリストは誰ですか」「イエス様をあなたの主であると信じ受け入れますか」と問いかけているのです。
 さて、イエス様はよくおっしゃっていました。「わたしが来たのは…。」来たというのは、別のところにおられたということ、つまりイエス様が天から来て、人となりマリヤから生まれたということです。その人となられたイエス様が、ある時、栄光のお姿に戻られたことがありました。それが先程朗読した変貌山での出来事です。この出来事は、ペテロとヨハネとヤコブの3人が目撃しており、証言をしたものです。祈り始めるとすぐに眠くなってしまう3人なのですが、3人の証言が一致していたのですから夢ではありませんでした。弟子たちの目の前でイエス様の姿が変わり、顔も衣服も光り輝いたのです。とうてい人とは思えない神々しい姿でした。
 そしてモーセとエリヤがイエス様と語り合っていました。このくだりは入門編には難しいかなと思いますが、飛ばしたら気になるでしょうし、一応説明します。新約聖書を読むと「モーセと預言者」という言葉が出てます。それは旧約聖書を指す言葉です。旧約聖書は大きく3つに区分することができます。モーセ五書(律法)と預言書とその他(諸書)です。モーセはモーセ五書を書いた人、エリヤは預言者たちの代表です。彼らが書いたものが旧約聖書なのですから、彼らは旧約聖書の体現なのです。神のご計画(御心)を熟知している人たちとイエス様は語り合っておられました。エルサレムで遂げようとしておられる最後とは、直訳(脚注)すると、エルサレムで成就しようとしている出エジプトです。かつてイスラエル民族をエジプトの奴隷状態から解放されたように、世界中のすべての人を悪と罪の奴隷状態から解放しようとしておられることについて、話し合っておられました。
 何のことかと思われた方、ご心配なく。その場にいたペテロもよく分からなかったのです。とにかくイエス様が神々しい姿であるということ、モーセとエリヤという聖書に出てくる超重要人物たちが目の前にいるということに、ただただ圧倒されていました。ここは天国かと思ったのでしょう。ペテロはイエス様に言いました。「先生。私たちがここにいることは素晴らしいことです。」そして「ここに幕屋を造りましょう」と言いました。幕屋とは要するに神殿のことです。神がおられるに相応しい神聖なところを造りましょうと言ったのです。その言葉を話しているうちに、雲がわき起こってペテロたちを包みました。旧約聖書によると、雲は神がおられる場所を覆うために現れることがあります。ペテロたちはそれを知っていましたから恐くなりました。すると雲の中から声がしました。つまり神である主の声が聞こえたのです。「これ(イエス)はわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」と。
 イエス様の神々しい姿に圧倒されてペテロが言った言葉は、何か変だったのでしょうか。神がおられるに相応しい神聖な場所って、やっぱりあるでしょうし、それを造りますと言ったのは貴いことだったのではないでしょうか。しかし、33節の終わりにはナレーションがあります。《ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。》これはつまり、当時は良いことを言ったと思った言葉が、後で振り返ってみたら、全くナンセンスな言葉だったということです。イエス様はこの後、普段の姿に戻られ、山から降りていかれました。エルサレムで何かをする計画だったようです。何をされたのでしょうか。イエス様はエルサレムに向かって進んで行かれました(51節)。それからユダヤ人の指導者たちに捉えられ、十字架につけられたのです。聖書には「木にかけられた者は神にのろわれた者だ(申21:23)」と書いてあります。
 聖なる神、主のおられる天から地にくだり、地においてすら栄光のお姿でおられるに相応しいイエス様。素晴らしい山の上で、神聖な神殿にお住いになっていても不思議ではないお方。そのイエス様はあなたの身代わりとして呪いとなるために、天から来てくださいました。イエス様が十字架の上ですべての罪を背負ってくださり、あなたの代わりに死の刑罰を受けてくださいました。イエス様ってそのようなお方なのです。
 さて、神である主がご自分に相応しい場所に留まっておられず、人のところに来られたのはイエス様の時代が初めてではありませんでした。イエス様の時代から1400年前、シナイ山での出来事です。出エジプトをご存知ないと分かりにくい話かもしれません。出エジプトは聖書を理解するのに超重要な出来事で、モーセが書いた5つの書物のうち4つは出エジプトの話です。エジプトで奴隷になっていた古代イスラエル民族が解放されて、脱出し、約束の地に入るという話です。その途中、エジプトを出発して50日後に、古代イスラエル民族はシナイという場所にやってきました。それまでイスラエル人たちは、自分たちをエジプトの王から解放してくださった神を知りませんでした。主ヤハウェという名前らしいとモーセから聞いていました。数々のヤハウェが起こされた奇跡を目撃しました。追いかけてきたエジプトの軍隊が海に飲まれてしまう様子も見ました。でも、主を見たことがありませんでした。そのような民と会うために主はシナイ山に降りてきてくださったのです。それがシナイ山の出来事でした。主は神のみ住まいである天(I列8:30)から降りて、民のところに来てくださるお方でした。しばらく前に「会いに行けるアイドル」というのが流行りましたが、主は「会いに来られる神」なのです。
 そして、シナイ山の出来事を記念する五旬節の祭の日にペンテコステが起こりました。聖霊なる主が、天に昇られたイエス様の代わりに、教会の一人ひとりの上にくだり、教会は聖霊に満たされたのです。聖霊はエネルギーのような何かではなく、感情と意志と、知性をもっておられるお方、私たちの主です。聖霊は天を離れ、教会の一人ひとり、また共同体としての教会をご自分の神殿として、そこに住みはじめられました。あのペンテコステの日から、イエス様を信じるひとりひとりのからだが、またその総合体であるコミュニティが聖霊の宮となっているのです。ですから、クリスチャンがどこに行っても、聖霊なる主はうちにいて、共にいてくださるのです。だけど、私たちの内側って聖なる方が住むに相応しい場所なのでしょうか。散らかっていたり、汚れていたり、害虫がいたり、臭いがしたりするようなところではないでしょうか。しかし聖霊なる主はそれを承知で来てくださいました。そして何と、聖霊はいのちを与えるお方なのです。呪いを祝福に変えていかれるお方です。汚れた私たちの内側に入って、きよくしてくださるお方です。
 このようなお方が、私たちの神である主、三位一体の主です。聖なる天から離れて、あなたに会いに来て、自らを犠牲にして、あなたにいのちを与えるお方です。このお方こそ、あなたの主だと聖書は言っています。あなたは主イエスを信じ受け入れますか。
 ところで、コミュニケーションって奥が深いですね。お互いの考えや気持ち、情報を伝えあうことをコミュニケーションといいます。1対1、AさんとBさんのコミュニケーションの仕組みを調べるだけでも非常に奥が深いものです。そしてここにCさんが入ってきますと3人のコミュニケーションとなり、更に複雑なことが起こります。中でも興味深いコミュニケーション方法がありまして、AさんとBさんが会話をしている時に、実はAさんはCさんにもメッセージを伝えているということがあるのです。AさんはBさんとの会話を使って、Cさんに何かを伝えることができるのです。コミュニケーションって奥が深いですね。実は聖書にもそんなコミュニケーションがあるのです。これはAさんとBさんのやり取りですね。もう少なくとも2000年以上前の文章です。私たちは脇にいるCさんです。聖書を読んでクリスチャンになるなんて不思議なことだと思いませんか。でもコミュニケーションって奥が深いのです。クリスチャンたちはある時に気が付いたのです。主は聖書を通してわたしに語っておられると。神である主は、聖書を通して、いまあなたに語りかけておられます。「わたしはあなたの神、主である。あなたはわたしを信じ受け入れるか」と。
 お祈りします《すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」》
 
 天の父なる神様。《あなたの栄光の御名はほむべきかな。すべての祝福と賛美の上に高く上げられて。ただ、あなただけが【主】です。(ネヘ9:5-6)》《あなたはシナイ山の上に下り、天から彼らと語り、正しい定めと、まことのみおしえ、良き掟と命令を彼らにお与えになりました。あなたの聖なる安息を彼らに教え、あなたのしもべモーセを通して、命令と掟とみおしえを彼らに命じられました。(9:13)》
 御子イエス様。あなたは栄光のみ座を離れ、私たちの罪を贖うために地に来てくださいました。あなたには相応しくないはずの場所へ、なんとあの呪われた者の木にまでかかり、私たちの罪の報酬を身代わりとして受けてくださいました。イエス様、あなたは私たちの神、私たちの主です。
 聖霊なる主よ。あなたはペンテコステの日以来、クリスチャンの群れである教会に住まいを設け、内に住んでいてくださいます。かつてイエス様は、人の汚れは内側から出てくるとおっしゃいました。私たちの内側はまさに汚れが出てくるところではありませんか。いのちを与える聖なるお方が、内に来てくださるとは、なんと恐れ多いことでしょう。しかし、あなたの恵みによって、私たちはきよくしていただいています。人の努力ではできないことです。
 三位一体の主よ。私たちのところに来てくださる主よ。ただ、あなただけが私たちの神です。私たちの讃美を受け取ってください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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