2023.5.21聖宣神学院(BTC)創立記念日礼拝「帰ってこられる日まで」マタイの福音書25:1-13


この日はマイクの調子が悪くて前半30分間、後半も少しの時間、音が途絶えました。礼拝を完全な形で聞いてもらうことができなく大変申し訳なく思っています。しかしメッセージは完全な形で残っていますので、読んでいただくことができます。そのことは感謝なことです。爽やかな風が窓から入ってくる一年でも短い美しい季節の中にいます。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。今朝は、聖宣神学院(BTC)創立記念日礼拝が全国の教会で祝われています。横浜の緑区にありますイムマヌエル聖宣神学院は、1949年創立のイムマヌエル綜合伝道団の神学校です。教団立の神学校ですが、他の教派・教団の方にも広く門戸をひろげています。1949年の5月17日に、丸の内交通協会ビル会議室を教室として、通学形態で開校し、15名の学生と5~6名の聴講者によってクラスが開始されました。毎年、5月17日に近い聖日にBTC創立記念礼拝をもっています。
 「牧師は自分で名乗ったその日から牧師になれる」とネットで見かけることがあり、いつもなんでやねんと思っています。旧約聖書で士師の時代に出てきたサムエルは預言者の学校を開き、モーセ五書(トーラー)を教えていました。後の預言者エリヤも学校を開いていたようです。士師記の最後の言葉を思い出してください。《そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。(士21:25)》彼らは聖書を忘れていたのです。神のことばを伝える人は聖書をよく知り、神のみこころに従って群れを牧する人でなければなりません。そうでなければ、神の業が現れているのに、神に用いられた人がめちゃくちゃがことをしていた士師記の時代を再現することになります。聖書を学び、神のみこころを学ぶには独学ではいけません。独学は興味のあることばかりかじることになるからです。先人たちの知恵と経験によって作られてきたカリキュラム(教育課程)で学ぶことが必要です。また現場で長年奉仕をしてこられた先生方と時間を過ごし、本にまとめられることがない、ある意味で答えの出ていない臨床の課題を知っていくことも大切なことです。こうして神学校で学び、神と教会から受け入れられて、牧師として奉仕を始めます。あのパウロも教会の仲間に加えられて、聖霊と長老と教会に派遣され働きを始めました。
 神学校があるということは大切なことです。祝福を祈りましょう。今年、入学された水口兄姉の学びが祝されるように、主の呼びかけを聞いていながら躊躇している人たちが後に続いて、主に押し出され、足を踏み出していくことができるように、主の助けと導きを祈りましょう。
 また今日は、復活されたイエス様が天に昇っていかれたことを記念する昇天日礼拝です。イエス様は、また帰ってくると言い残して、復活から40日後に天に昇っていかれました。私たちはイエス様が帰ってこられる日を待っています。私たちはどんなことに心を留めているように言われているのでしょうか。聖書を開いて確認してみましょう。聖書をお開きください。マタイの福音書25:1-13(52ページ)【聖書朗読】
 
 今日はイエス様の例え話を開きましたが、最初はIIペテロの手紙を開こうと思っていました。IIペテロの手紙はイエス様の昇天から数十年経った教会に起こった問題を取り上げています。イエス様が復活して天に昇って行かれた様子を自分の目で見ていない世代のある人たちが、ペテロたちの証言を信じなかったのです。この問題は今の私たちにも起こり得る事柄で、いつも心に留めておかなければなりません。そういうわけで、ペテロの手紙を一緒に読ませていただこうかと思っていたわけですが、色々と思い返すうちに、そういえばイエス様が例え話を使って分かりやすく教えてくださっていたことを思い出しました。今日の説教でお伝えしたいことはIIペテロの手紙で、ペテロが書いたことです。イエス様の例え話を見ると、イメージがしやすいので、こちらを朗読させていただきました。
 イエス様の例え話は神の国の説明です。今日の箇所の前後でも、 24:45-25:46に例え話が4つありますが、これらは全て神の国についての話です。例え話をそれぞれバラバラに見て、教訓を取り出そうとするのではなく、いろんな例え話を総合して(色んな角度から)神の国を理解することが大切です。
 いま神の国では何が起こっているでしょう。イエス様は2000年前の過ぎ越しの祭の時に十字架にかかって死に、葬られました。3日後に墓からよみがえり、40日間弟子たちに現れて、天に上げられ、人の目には見えなくなりました。天使が弟子たちに現れて《あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1:11)》と告げました。この時は天使の言葉でしたが、実は遡ると、しばらく前にイエス様はご自分の口で、「父のみもとに行った後で帰ってくる」と教えてくださっていました。それから2000年ほど経ちますが、イエス様の弟子である私たち(教会)は、神の国の王であるイエス様が帰ってこられる日を待っています。イエス様が帰ってこられることを再臨と呼んでいます。
 さて、例え話の説明をしましょう。この例え話の「花婿」は主イエス様のこと、「十人の娘」は父と子と聖霊の名によって洗礼を受け神の国に入れられたクリスチャンのことを指しています。そしてイエス様が帰ってこられる日の出来事を例えにして話しているのです。
 神の国(=天の御国)はイエス様が地上に来られたことによって、私たちのところに来ました。この例え話では、話が始まった時点ですでに主人(花婿)と仕える人(娘たち)の関係があります。彼らは他人同士ではありません。ひとつの家の中に彼らがいる状態から話が始まっています。私たちは再臨が来る時に神の国に入るのではありません。私たちが死んだ時に永遠のいのちを持ち始めるのではありません。主イエスを信じて、洗礼を受  けた時から神の国に入り、永遠のいのちを与えられています。すでに私たちは主イエス様との関係が回復しています。主人と仕える人の関係が結ばれています。
 その神の国にすでに入れられているクリスチャンたちが、再臨の日に2つに分けられるという話です。ひとつのグループはイエス様の帰りが予想よりも遅くなるかもしれないことを心得ていました。もうひとつのグループはイエス様の帰りが遅くなるかもしれないとは考えていなかったのです。この例え話には花婿を迎えるためのともしびが必要となっていますが、実際の再臨の日に私たちが必要なのはイエス様を王として迎える心です。洗礼の証明書とか、そんなものは必要ありませんのでご安心ください。ともしびと油は私たちの信仰を指しています。ですから人に分けられるようなものではないのです。この例え話を読んで、「本当に油を分けられなかったのか」とか「他にいい方法があったのではないか」とか言い出すのは、雑談の種になるかもしれませんけれども、本題からそれた話になりますのでご注意ください。(なぜ本題ではないかは、他の例え話やイエス様の教え、旧約聖書も照らし合わせると分かります。)
 この例え話でイエス様が伝えたいことは、「イエス様の帰りが予想よりも遅くなるかもしれないことを心得て、どんなに長引いても、またその日が急に来ても、イエス様を王として迎え入れる心をもっていなさい」ということです。
 ところがペテロが手紙を書かざるを得なくなった時代に、愚かな娘たちに例えられた人たちが出てきてしまったのです。彼らはイエス様を直接見たことがない世代のクリスチャンたちでした。彼らは使徒ペテロたちが話していること、また証言をもとに書かれた福音書を「巧みな作り話だ」と言い出したのです。自分で心のなかで思っているだけなら、まだマシだったかもしれませんが、なんと教師を名乗って他のクリスチャンたちに自分の空想を教えていました。ペテロはその時、ローマ皇帝ネロによって処刑される直前であったと言われています。「主イエス・キリストを自分の目で見た」と話せる人が次々と殉教してしまうなかで、何としても主イエス様の証を残していかなければならないと思ったのでした。
 偽教師たちは、福音書が作り話だと教えました。「それが実際に起ったかどうかは関係ない。ありがたい作り話として、私たちの心の安らぎとなればいい。」(とんでもない。)「ほら、パウロがキリスト者は自由だと手紙に書いてるぞ。自由に生きようじゃないか。心の赴くまま快楽や放蕩を求めよう」(パウロはそんなこと言ってません。)「愛の神にさばきなんてないよ。」(ノアの時代の洪水やソドムとゴモラの破滅を忘れています。)ついには「イエスの再臨は起こる気配もないじゃないか。先祖たちが死んでからも世界は変わらないままだ」と主張しました。イエス様が帰ってこられる前に、ともしびの油が切れてしまったのです。IIペテロの手紙をぜひ読んでみてください。
 ペテロが教会に手紙を書いたのは1世紀でしたが、これらのことは今日でも十分に起こりえることです。イエス様が天に昇っていったり、将来帰ってきたりすることは現実にはないと、教えるまではいかなくても、心のなかで思っていたりすることは起こりえることです。イエス様の例えに出てきた愚かな娘たちは、花婿が帰ってくる直前まで家にいました。しかし花婿を歓迎するともしびがなく、油を工面して急いで戻ってきましたが、戸は閉じられ、入ることができませんでした。イエス様が来ると分かってから迎え入れる準備をしても、もう遅いのです。ペテロはどんな思いで手紙を書いていたでしょうか。「私はこの目で見たんだよ。変貌山でエリヤとモーセと語り合うイエス様を見て、天からの主の声を聞いたんだよ。どうか惑わされないで」と切なる思いで書いたに違いありません。
 ところで、イエス様のことばを読むと、「うわぁ厳しいな」と思って体が縮こまってしまう時はないでしょうか。でも、みなさん。どうか怖がらないでください。イエス様に怒られて、もう嫌われてしまっていると思わないでください。イエス様が地上におられた時、最も強い言葉で非難されたのはパリサイ人たちでした。イエス様はパリサイ人が憎くて嫌いなんだろうと思っていたりしませんか。ところがそうではないのです。ある時、パリサイ派の中のパリサイ派、Theパリサイ人と自他ともに認める人物が、主イエス様に愛されていると気付きました。彼の名はサウロ、後の使徒パウロです。彼の経験は「目から鱗が落ちる」という諺になっています。パウロは手紙にこう書いています。《私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。(Iコリント15:9-10)》
 先週は母の役割を担われる神という話をしました。母は子どもに物凄い勢いで怒ることがありますね。何でそんなに怒ったのと聞いてみると、心配だからと言うんですね。心配なら、優しい言葉で心配だよと言ってあげたら良いじゃないと傍から見て思うわけですが、私たちの主もそういうところがあるんですよね。旧約聖書を見ても、またイエス様を見ても、感情豊かなお方です。不完全な人間と違うのは、わがままで怒ったり、イライラをぶつけたりすることはないところです。主は呪いの中に飛び込むほどの愛があるお方です。愛から感情があふれてくるのです。ですから、「お母さんはボクのこと好きじゃないんだ」と言ってしまう子どもような反応はしないでください。主はあなたを心配していてくださるのですから。
 もしイエス様を歓迎する心を失ってしまっていると示されたのなら、まだ間に合うのですから、今から油を用意し直したら良いのです。主はそうしてほしいと願っておられます。なぜなら、花婿が帰ってくると祝宴が開かれ、私たちは主イエス様とまた兄弟姉妹と共にお祝いの席で楽しむことになっているからです。その席に、あなたがいてほしい。これが主の御心です。
 教会は日曜日ごとに集まって主を礼拝しています。これもイエス様を歓迎する心を備えているのです。いつ帰ってこられても、歓迎の心を持っていられるように、互いに励まし合いながら毎週を過ごしています。共に集まり礼拝することは(やむを得ずオンラインであっても)、「イエス様の帰りが予想よりも遅くなるかもしれないことを心得て、どんなに長引いても、またその日が急に来ても、イエス様を王として迎え入れる心をもちつづける」ために必要なことです。
 お祈りします《ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。》
 
 天の父なる神様。あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、恵みとまことのゆえに、御名に感謝します。あなたがご自分のすべての御名のゆえに、あなたの御子を高く上げられたからです。
 私たちの主、イエス様。かつて出エジプトした民にカナンを備えておられたように、天に私たちの住むところを備え、やがて帰ってきて私たちを迎えてくださいます。その日を心待ちにしています。
 今はまだ地上に残されている私たちですが、バプテスマにあずかり、神の国に入れていただきました。永遠のいのちをいただきました。苦難の多い世にあっても、良い羊飼いであるあなたと共に歩むことができる恵みをいただいています。あなたは目に見えなくなられましたが、私たちの信仰を強め、目を覚ましていられるように助けてくださいますから、ありがとうございます。やがてあなたは帰ってきてくださり、私たちは完全な神の国と永遠のいのちを受けることができます。その日に、すべての兄弟姉妹と共に、王なる主を歓迎することができますように。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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