2023.4.30主日礼拝 エペソ人への手紙5:21-6:9(391ページ) 説教題「主キリストによる諸問題の解決」

今日のお説教が始まった時は、夫婦や親子のお話しかなと思いましたが、期待は裏切られましたが、代わりに、新約聖書に入っているパウロが各教会に送った手紙を俯瞰的に見る新しい視点が与えられました。そこでイエスさまが教えてくださる愛は儒教思想に染まっている日本人の私たちの感覚とはちょっと違うものだと分かりました。主イエス様のめぐみによって、私たちにも本当の愛と尊厳を教えて頂いて、人間関係の問題のなかを進みたいと思いました。(Re)

 礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。イースターから21日が過ぎました。イエス様は復活されてから40日間にわたって、弟子たちに現れ、聖書を解き明かし、ご自身のことと、神の国のことを教えて下さいました。40日間の聖書の集中講義があったのです。弟子たちは、復活されたイエス様の話を聞きながら、これからすぐに神の国の再興が始まると思っていました。しかし、まだその時ではありませんでした。その前に、すべての人の悔い改めが必要だったからです。主のご計画では、人々の悔い改めを待ってから神の国が来ることになっていました。イエス様は弟子たちに聖書を解き明かして、聖書に書いてあることがイエス様の十字架と復活によって成就したことを教えられた後、《あなたがたは、これらのことの証人となります。(ルカ24:48)》とおっしゃいました。そのために聖霊が送られると約束してくださいました。
 私たちもまた、毎週聖書から学んでいます。それは私たちがイエス様の死と復活の証人となるためです。十字架と復活が行き当たりばったりで起こった出来事ではなく、はるか古代から計画されてきたことであったこと、計画通りに確かにイエス様は死んで復活されたこと、今も生きて働いておられることを証しするために、私たちは残りの生涯を歩んでいます。
 イエス様の40日間の集中セミナーに思いを馳せてみましょう。弟子たちは全世界に出ていく前に、イエス様の聖書講義を受けたのです。目の前に、聖書の言う通りに復活されたイエス様がいて、話しておられるのですから、何とも言えない特別な時間であったことでしょう。その後、イエス様が天に昇っていかれ、弟子たちは主の証人として、神の国の福音を伝え始めました。今日も私たちは御言葉を学びましょう。明日から6日間出ていって主の証人となるために。
 聖書をお開きください。エペソ人への手紙5:21-6:9(391ページ)【聖書朗読】
  
 聖書を朗読いたしました。今日はこの箇所から何を聞かされるのかと、恐れている方もおられるかもしれません。でも、ご安心ください(?)。夫婦や親子の話をしている箇所ですが、今日の注目点はそこではありません。
 私が2年前に着任しまして、教会とは何か、聖書は何か、イエス様の伝えた福音は何かといった概論から始まり、次に聖書全体のメッセージを学びましょうということで、旧約聖書から、歴史を軸にザーッと俯瞰的なテーマをお話してきました。昨年の10月から新約聖書に入り、使徒の働きまで来たところです。今は俯瞰的に聖書のメッセージを語っています。
 使徒の働きはルカの福音書の後編でした。イエス様が十字架と復活に向かっていかれた様子と、天に昇っていかれた後も、弟子たちを通して、神の働きをしておられることが書いてありました。マタイの福音書から使徒の働きまでは、記録を読むような形で話を追っておくことができますので、比較的読みやすい部分です。使徒の働きの後には、パウロが各地の教会に送った手紙が並んでいます。ですから、ここで読み方を変えなければなりません。福音書はイエス様とその働きを後の人たちに伝えようとして書いてありますが、パウロの手紙はその当時の教会に宛てて書き送った手紙そのものです。続けて読んでこられた方は、使徒の働きからローマ人への手紙に入ったところで、戸惑ってしまうでしょう。いったい誰に向かって話をしているのかと。これらの手紙はパウロから当時の教会宛に書かれたものなのです。それを読んでいる私たちは当事者ではなく、第3者になります。なぜそのような手紙が聖書に加えられているのかと思われるかもしれません。ここには、パウロと教会のやり取りを見せることを通して、主から私たちに語られているメッセージがあるということなのです。
 使徒パウロとは誰でしょう。パウロは、ステパノを石打で処刑して、さらに教会を迫害していた時に、ダマスコの途上で復活のイエス様と出会い、イエス様の弟子となりました。彼は遅ればせながら、イエス様によって直接選ばれた弟子、すなわち使徒です。イスカリオテのユダに替わって加えられた使徒でありました。彼はイエス様を主と信じた後、洗礼を受け、教会の仲間に加えられ、異邦人へ福音を宣べ伝えるためにアンテオケ教会から派遣されました。ローマ帝国の東の端エルサレムから西の端スペインまで行き巡る計画を立てていたようです。ローマ帝国の各地には、バビロン捕囚の後に散り散りになったユダヤ人たちが、帝国中に建てていた会堂がありました。パウロは新しい町に入ると、まずユダヤ人の会堂に入り、待ち望んでいたメシアが来られたと語りました。ユダヤ人の中からイエス様を信じる人たちが起こされ、洗礼を受けて教会に加えられました。その後、その町のユダヤ人以外の人たちにも福音を伝え、信じた人たちがクリスチャンとして教会に加えられていきました。こうしてそれぞれの町に、教会が広がり、町ごとにローマの教会、コリントの教会、エペソの教会などと呼ばれるようになりました。
 さて、パウロは各地の教会に手紙を書きました。「どう、元気してる?」と気軽に手紙を送ったのではありません。2000年前のローマ帝国です。私たちの感覚と全然違う世界です。字を書くインクも、紙として使われる動物の皮も超高級品。字を書ける人も読める人も少なく、また暗号のような書き方をしていました。郵便はないので、信頼できる誰かが持っていかなければいけません。当時の手紙は、直接行けない場合で、どうしても伝えなければならないことがある時に、多大な費用と労力をかけて送るものでした。つまり、教会に大きな問題が起こっていて、パウロはすぐにでも出かけていって話をしたいけれども、行くことができず、やむを得ず手紙を書き送ったということです。
 今日の話のポイントはここです。それほどまでに大きな問題が起こっていた時に、パウロが問題を解決するために書いた手紙は、いつもキリスト・イエスを指し示していました。パウロが教会にあてて書いて手紙は、主イエス様が中心です。読んでみたら明らかです。「あなたたちの問題は〇〇です。イエス・キリストは〇〇」と至るところに書いてあります。教会宛の手紙をひとつずつ思い出してみましょう。
 ローマ教会の問題は、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの分裂でした。パウロは言います。「神の義は、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられています」と。神の救いに民族の違いはありません。さらに彼らの分裂の言い争いは食べ物のことにまで及んでいました。《キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください(ローマ14:15)》とパウロは訴えています。
 コリント教会は…問題のデパートです。分派、性的な罪、偶像に捧げた肉の扱い、集会の混乱、復活の否定と連なっています。パウロは一つ一つ順番に指摘しました。分派には《キリストが分割されたのですか。》性的な罪には《あなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。》偶像については《唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけ》です。集会の混乱には《あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。》復活の否定には《キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました》と書いています。
 ガラテヤ教会には割礼派がやってきて、律法の割礼を受けなければ異邦人は救われないと教えました。パウロは教会の目を覚まさせるために言いました。《キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ5:1)》
 エペソ教会は神に倣う生活を送っていませんでした。神の奥義を十分に理解しておらず、御霊の働きを十分に経験していませんでした。そこでパウロは《人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように(エペソ3:19)》と言っています。
 ピリピ教会は、ローマ皇帝への忠誠心が厚い軍人の町にありました。クリスチャンはキリストを王として従おうとしていたので迫害を受けていました。彼らには《あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。(ピリピ1:29)》と書いています。
 コロサイ教会には、もろもろの霊への怖れと禁欲主義の圧力がありました。この手紙には《 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。(コロ3:15)》とあります。
 テサロニケ教会は、「平和だ、安全だ」と言う人たちがクリスチャンのきよい生活をやめさせようとする誘惑がありました。この問題にパウロは《主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。(Iテサ5:10)》と答えました。
 短くまとめただけでも、何回「主キリスト」が出てきたでしょうか。そして、今日開いた箇所は、家族や仕事の人間関係の話でした。21節「互いに従い合いなさい。」夫婦も親子も、経営者も労働者も、自己中心にならないで、従い、敬い、愛しなさいと教えています。そしてここにも、「キリストが救い主であるように〇〇。キリストが愛するように〇〇。キリストがご自分を献げられたように〇〇。主にあって〇〇。主の教育によって〇〇。キリストのしもべとして〇〇。主が人を差別なさらないように〇〇。」と書いてあるのです。日常的で身近なことに至るまで、イエス・キリストが中心となって問題が解決されるのです。
 私たちはどうでしょうか。教会で問題が発生する時、どうやって解決しようとするでしょうか。典型的な失敗が2つあります。ひとつは王様(裁判官)を立てること。もうひとつは法律を作って縛り上げようとすることです。いずれも人々が世の中で用いている方法です。
 王様を立てるとは、一人の人に白黒を決めてもらおうという考えです。上の人が白といえば白、黒といえば黒ということにしようと。かつて儒教では、兄弟に至るまで全ての人間に上下の順位をつけ、秩序を保つように教えました。日本にもある程度浸透している考えで、教会にも影響を与えていると思います。パウロは《私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。(Iコリント4:4-5)》と教えています。教会は主の再臨の日まで耐え忍ぶのです。
 法律を作って縛り上げようとすることも教会のすることではありません。私たちは《自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(ガラテヤ5:13-14)》自己中心を捨て、御霊に満たされて互いに愛をもって仕え合うなら、結果的に世の決まりごとに反することはなくなります。これは、聖霊が働かれる教会でしか実現することができない、教会の特色です。
 教会の建て上げ、教会の成長、宣教の働き…。これらのことは人の計画や懸命な活動によって起こることではありません。パウロの計画は何度も聖霊に止められました。ある時には小アジアに行くことを止められました。パウロの計画であったスペインまで到達することも止められ、真ん中のローマで彼の宣教活動は終わりました。彼の考えとは別に、教会には様々な問題が起こり始めていました。新約聖書の大半は、人の計画の成功話ではなく、教会が問題に悩まされている話です。しかし、それこそが教会の建て上げに繋がっていきました。問題が起こってきた時に、主イエス・キリストを見上げて、聖霊の満たしを求め、キリストに倣って、悪に打ち勝ち、再臨の日まで耐え忍びました。こうして教会に次々と仲間が加えられ、全世界に広がったのです。
 お祈りします《キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。》
  
 天の父なる神様。自由を得させるために私たちを解放してくださった主よ。あなたの贖いの業を思い返し、イエス様の十字架を見上げながら、あなたの御名を高く掲げます。
 主イエス様の岩の上に立つ教会は、なんと不思議な群れでしょう。神である主がこれを心を留め、顧みられるとは。あなたは金属を純粋な物にする時のように、教会に熱を加えなさいます。あなたの火に当てられ、中から次々と不純物が出てきます。実に教会とは問題の多い場所です。しかし主よ。私たちの目を開いて、あなたが何をしておられるのか悟ることができるようにしてください。こんな問題、あんな問題がなければ、教会はどんどん成長していけるのにと思い違いしてしまう私たちを、どうかあわれんでください。私たちの傲慢さを打ち砕き、あなたへの謙遜を与えてください。イエス様が謙遜であられたように、あなたに身を委ね、火の中で不純物が取り除かれることを喜ぶ心を与えてください。
 どうか私たちを御霊に満たしてください。あらゆる問題をイエス様に倣って、耐え忍び、また自己犠牲の愛によって覆うことができますように。私たちが互いに仕え合い、主イエス様がこの教会のかしらであることを証しし続けることができるように助けてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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