2023.5.14 母の日礼拝「母の役割を担う神」詩篇92:1-4

 


 














今日は母の日を記念した礼拝です。個人的に私も長い間母として無我夢中で苦闘して来たのですが、ふと思い返すと、ここ数年、家庭には子が居ずに、介護の生活も終わり、普段「母」を意識することは無くなりました。役割もなくなった?
今日は聖書の中から神様が作られた母たる存在を学びます。ふつう天の父なる神さま、と呼びかける神様が母なる神様に思えてきました。(Re)


[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。ようこそお集まりくださいました。共に主を喜び、恵みをかぞえて感謝する安息日です。今日は母の日を記念して礼拝の時をもっています。主を敬い、いつも祈って支えてくださっている、主にある母のみなさまに感謝いたします。
 母の日ということで、今日は「母」をテーマにお話したいと思います。「母」には、家族の中の役割がありますね。家族は文化的なものですので、私たちが生きている時代・地域の文化によって、実は役割が変わります。実際、過去数十年を思い返してみると、母の役割は随分と変わってきたのではないでしょうか。母親が主に担っていたことを、父親もするようになったり、逆のこともあります。とはいえ、男女の給与格差とか、色々な社会的要因があって、父と母が全く同じ役割となっているわけでもなさそうです。
 「母」はこうという定義から始まっているのではなく、社会の環境(要請)によって役割が定まっていくものです。我が家は国際結婚していますが、やはり国ごとに家族観が違いますので、ぶつかると大変です。他にも、ふたり親の家族とひとり親の家族では違いがあるでしょう。核家族と二世帯同居でも違うでしょう。産む母と育てる母でも違いがあると思います。
 聖書は創世記から黙示録まで1500年の隔たりがあります。その中を生きてきた人たちは、それぞれの全く異なる文化で生活をしていました。いろんなタイプの「母」が出てきます。聖書から分かることは、素晴らしい母になるためにこのようなことをしましょうということよりも、あらゆるタイプの「母」に語るメッセージが聖書にあるということです。
 聖書をお開きください。詩篇92:1-4(1033ページ)【聖書朗読】
 
 子どもの母を考えるとき、まず知っておかなければならないことがあります。エデンの園の出来事です。人は神のかたちに創造され、神の祝福を受けました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と言われました。人が子を生んで、世界を満たしていくことは、祝福なのです。ところが、人は蛇に誘惑され、自分たちを創造し、衣食住を豊かに与えてくださっている神の愛を疑いました。信頼することを止めて、神を離れ、自分たちが善と悪を知る神のようになろうとしました。その結果、神と人との関係は破壊され、呪いを受けることになってしまったのです。主はエバに言われました。「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。」子を生むことは祝福であったのに、呪いになってしまいました。
 苦しんで子を産むと言われましたが、それは出産の痛みだけの話ではありません。エバはその後カインとアベルを生みますが、ある時、カインが怒ってアベルを殺してしまいました。そのように、産むときから始まって、一生の間、子どもは苦しみとうめきを大いに増す原因になるのです。とはいえ、神の祝福が消えてしまったわけではありませんでした。人はその後、生んで、増えて、地を満たしていきました。子どもがいることは癒やしと喜びです。そういうわけですから、子を生むこと、子を育てることは祝福であり呪いだと聖書は明らかにしています。相容れない2つが混ざっているので、非常に複雑な感情と向き合わざるをえないのです。
 現代社会は、様々な技術の発展や娯楽の多様化、女性の社会進出(キャリア形成)といったことに伴って、「子を生む選択」という議論がでてきました。子どもがいると自分の人生を自由に生きられないのではないか。自分の好きなことに使う時間もお金も失ってしまうかもしれない。積み上げてきたキャリアが終わってしまうかもしれない。今はネットで色んな人の体験談を見聞きすることができる時代ですから、子どもがいると大変だと思ってしまうのかもしれません。一方で子どもがいる幸せや喜びを見聞きすることもあるので、自分の選択が良かったのか悩むこともあるそうです。また、そのような「選択」の話をしていますと、今度は子どもがほしいと願っている人たちが傷つくことになります。祝福があって呪いもあること。呪いがなくて祝福もないこと。その組み合わせが物事を複雑にしています。祝福に呪いが混ざり込んでいることで、私たちの気持ちはごちゃごちゃになってしまうわけです。
 そんな世界で主は何をしておられるのでしょうか。人は神さまがおっしゃったことに従わなかったのです。神さまとの関係を壊し(罪といいます)、呪いを受けることになりました。主はどうされましたか?「それ見たことか。苦しみうめいているのは自業自得だ」といって見捨ててしまったでしょうか。そうではありません。何と神である主が私たちを救うために苦しみとうめきの中に来られたのです。
 ある時、青年大会があって、ある有名な牧師が青年たちに話していました。これはメモに書いちゃだめだよと冗談を言いながら、「私は、神は馬鹿だと思う」と言うのです。それは神をけなしているわけではなくて、泥沼にハマってもがいている子どもを見て、見捨てることができないで、泥に入っていく姿のことを言っているのです。反抗され、裏切られても許し、また同じことを繰り返して、それでもあわれみ、また…(詩篇106)。それはまるで子どもに無償の愛を注ぐ母の姿を見るようです。
 イエス様が天の神を指して、父と呼ばれましたので、私たちは神は父であるというイメージを強く持っています。しかし旧約聖書に書いてある、主とイスラエル民族の様子を見てみると、神である主は母の役割も随分と担っておられると思うのです。詩篇にはこのような一節があります。《主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日あなたを生んだ。(詩篇2:7)》主は母の役割を担う神です。
 主ヤハウェは三位一体のお方ですので、支え合って子どもを育てるふたり親のようでもあり、ひとりですべての責任を担って子どもを育てるひとり親のようでもあります。また、母の枠から離れるかもしれませんが、神などいないと言っている人たちを見ると、子どもたちがそこに沢山いるのに自分の子がいない状態であるとも言えるでしょう。人を見捨ててしまえば、そんな苦労をすることはなかったのに、主は苦しみとうめきを厭わず、ご自分で生んだ、ご自分の子たちを愛しつづけてくださっています。主は母である人が経験するあらゆることを実体験として知っておられるということ。また母と子の関係から、神と人との関係が見えてくるということです。
 しかしながら、母と子の関係は苦しみとうめきだけなのではなく、癒やしと喜びもあります。呪いばかりではありません。それはそもそも祝福だったのですから、根底には祝福があります。主は母親たちにどのような癒やしと喜びを与えてくださっているのでしょうか。主は私たちとの関係において、どのように癒やしと喜びを感じておられるのでしょうか。
 ひとつは自分の子という存在がいると目の当たりにすることです。赤ちゃんが出てきて、初めて抱っこした時とか、何気なく話をしている時、ケラケラ笑っている姿を見る時、すやすや寝ている顔を見ている時、一緒にでかけた時など、そこにいるということに幸せを感じるそうです。99%の人が神はいないと言っている日本で、あなたが主の子どもであるなら、主にとってあなたの存在はどれほどの喜びでしょうか。イザヤ書に主のことばがあります。《女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。(イザヤ49:15)》
 ふたつめは子どもの成長を見ることです。親とは何でしょうか。とにかくお世話をするだけで日々が過ぎていくところがあります。でも、どういうわけか、子どもは成長します。ミルクからご飯を食べるようになり、立ち上がって歩き出し、ママと言っていたのがいつの間にかお母さんと言うようになり、友達ができて、ひとりで学校に行くようになり…。そんな成長を見るとき、愛おしいなと思うのです。人が成長する存在であることは神さまからのプレゼントだと思います。
 主が私たちをそのままで愛してくださることと、信仰の成長には矛盾があると感じる方がおられるようですが、全く矛盾しません。主は私たちが何かできるから愛すようになるわけではありません。何もできない最初からずっと愛していてくださいます。また私たちが何かできなかったことをできるようになった時、愛おしいなと感じ、喜ばれます。できるようにならなかったら愛さないとか、そんな話ではありません。母と子の健康な関係を見れば分かると思います。お母さんの中には「障がいを持って生まれた子が、できなかったことを少しでもできるようになっただけで嬉しいと感じる」とおっしゃる方もおられました。たとえ障害があっても、存在が愛おしいということ、成長が嬉しいということに違いはないのです。
 みっつめは子どもが愛情や感謝を表現してくれることです。子どもたちは、本当に何でもない時に「大好き」と言ってくることがありますね(幼い頃は)。特に魂胆があるわけでなく、自然に「大好き」と書いた手紙をくれたりします(幼い頃は)。大きくなると照れ臭くなってしまうのだと思いますが、心の底の気持ちは変わっていないでしょう。神と人との関係も、これは当てはまります。今日の箇所をもう一度読みたいと思います。《【主】に感謝することは 良いことです。いと高き方よ あなたの御名をほめ歌うことは。朝に あなたの恵みを 夜ごとに あなたの真実を告げることは。十弦の琴に合わせ 竪琴の妙なる調べにのせて。【主】よ あなたは あなたのなさったことで 私を喜ばせてくださいました。あなたの御手のわざを 私は喜び歌います。》
 感謝をすること、み名をほめたたえることは理屈ではありません。幼い頃のことは忘れていますので、どういう理由で大好きと言ったり、ありがとうと言ったりしたのか、ほとんどの人は覚えていないと思います。でも、それは母との関係の中で出てきたことばであって、理屈ではなかったのは確かでしょう。それが、大きくなってくると「何で大好きって言わなきゃならんの」とか理屈っぽくなっちゃうわけです。でも、私たちは神である主との関係において、幼子のようでありたいですね。楽器をならして、歌を歌ってくれる。嬉しいではないですか。誕生日にハッピーバースデーを歌ってくれたりして。音程が狂っていようが、歌詞がおかしかろうが良いんですよね。それは癒やしと喜びです。
 主は私たちひとりひとりを見捨てることなく、この世界が罪によって壊れ、呪いによって苦しみとうめきが起こるようになってからも、なんと呪いを身に受けて、母の役割を担ってくださいました。民との関係で起こる激しい感情に、苦しみとうめきが表現されています。しかし、そこにあったのは呪いばかりではありません。母と子の関係には根本的に祝福があるのです。私たちがここに存在すること、成長していくこと、感謝と称賛を表現することに癒やしと喜びがあります。私たちは主の子どもです。
 
 お祈りします《【主】に感謝することは 良いことです。いと高き方よ あなたの御名をほめ歌うことは。朝に あなたの恵みを 夜ごとに あなたの真実を告げることは。十弦の琴に合わせ 竪琴の妙なる調べにのせて。》
 
 天の父なる神様。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、私たちは「生ける神の子ら」と言われています(ホセア1:10)。あなたが私たちを見捨てることなく、呪いの中に飛び込んで、贖い出してくださったからです。主よ、あなたに感謝します。あなたのみ名をほめ歌います。
 あなたは私たちをご自分の宝としてくださいました。あなたは呪いを祝福に変えてくださるお方です。主よ、私たちはあなたの子です。こうして祈るときにも、ふと私たちの存在を見て、喜んでくださっているのでしょう。私たちはあなたのみことばによって成長しています。できなかったことができるようになった。そんな小さなことでも、嬉しく思ってくださいます。あなたへの感謝とほめ歌は、どこから湧いてくるのでしょうか。理屈があるわけではありません。あなたが私たちの母を担ってくださることが、私たちに歌を歌わせます。
 主にある母たちのゆえに、感謝いたします。母の姿を見ることで、私たちは主との関係を知りました。あなたの支えと祝福がいつもありますように。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。




0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages