2023.5.7主日礼拝「愛の助け主」ヨハネの福音書14章15-24節


気候は例年になく不順ではありますが、緑の輝く美しい季節がまた巡ってきました。今月からコロナとの付き合いも新しくなり、開放感がみなぎってきます。今日は、聖霊のお話です。目には見えませんが、今も生きておられるイエス様のことです。メッセージを聞けるのが嬉しくて、楽しみです。(Re)

[礼拝説教] 
中尾敬一牧師

 おはようございます。先週はGWでした。4-5日にRe:西日本青年大会が開催され、実行委員として奉仕をしてきました。お祈りに覚え、主の働きに送り出してくださったみなさまに感謝いたします。数年ぶりに1泊2日で対面開催することがゆるされ、幸いな時でした。WHOの緊急事態宣言も終了し、人類の危機を乗り越えたことが巷でもニュースになっています。
 主はこの3年余り、私たちを守ってくださいました。様々な対処が求められ、それぞれに工夫をこらしながら奉仕をしてくださったことに感謝します。私たちの手のわざを思い返す時、そこには主の祝福があったことを忘れないでいたいと思います。これから徐々に日常を取り戻していくことになりますが、危機だったからこそ目に見えるようになっていた神様の祝福をいつまでも覚えておきましょう。目に見えなくなっても、祝福がなくなるわけではありません。主はいつも私たちの手のわざを祝福してくださっています。私たちが受け取っているものは、努力の結晶なのではなく、神の恵みです。
 イスラエル人がカナンに入る前に主から言われたことを思い出しましょう。カナンに入ったなら、《そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、【主】の前で食事をし、あなたの神、【主】が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざ(収穫物)を喜び楽しみなさい。(申12:7)》私たちが毎週集まって、しているのは、このことです。
 聖書をお開きください。ヨハネの福音書14:15-24(214ページ)【聖書朗読】
 
 聖書全体は神である主がこの世界で何をしておられるのかを伝えています。主がどれほど私たちを愛して、見捨てないでいてくださることか聖書を読むと分かります。聖書は神の情熱です。「わたしはここにいる。わたしがあなたを救う」という主の叫び声です。主は私たちをもう一度神の国に迎え入れるために、計画を立てて、それをご自身で実行してくださっています。この世界は神の働きの只中にあるのです。2023年に日本にいる私たちも、神の壮大な働きの中で日々を歩んでいます。
 主の壮大な働きの内のどの時代を私たちが生きていて、私たちが今ここで主と共に何をしているのかを知ることが大切です。そうでなければ、私たちの活動は単なる宗教になってしまいます。礼拝?他のあらゆる宗教で礼拝しています。お祈り?どこの宗教でもお祈りしています。聖会?やってますよ。修養会もやってますね。もし私たちが天地創造、アダム、アブラハム、イスラエル民族、キリスト、教会、そして神の国の再建につながる全体像を理解し、イエス様の弟子として歩んでいるのでなければ、「キリスト教」と呼ばれている宗教をしているだけの人になってしまいます。イエス様が非難されたユダヤ人の道を進んでいってしまいます。「神とともに歩む」ことを宗教に変えてしまったと嘆かれることがないようにしたいと思います。
 私たちが生きているのは、教会の時代です。イエス様の再臨を待っている教会の時代です。イエス様は教会を残して、天に昇り、神の右の座に着座されました。しかし、それはイエス様が後継者に教会を渡して、いなくなってしまったという意味ではありませんでした。教会にイエス様の後継者はいません。ペテロもパウロもイエス様の後継者ではありません。彼らは「私たちは主イエスに仕える同労者です」と言って、教会のリーダーは、復活され生きておられる主イエス様であることをハッキリと語っていました。使徒の働きはペテロやパウロが偉大な働きをしましたという話ではありません。彼らを通して主イエス様が、地上におられた時と変わらず働いておられることを伝えています。後に各地の教会に様々な問題が起こってきますが、パウロは教会に新しい王様を立てたり、法律を作ったりすることによって問題を収めようとしませんでした。目に見えない主イエス様を思い出させ、教会がイエス様に従うことで問題が収まりました。こうして教会は建て上げられ、仲間が加えられ、激しい迫害の中でも倒されることはなかったのです。
 しかし、天に昇っていかれたイエス様がどうやって働きを継続されたのでしょうか。それが今日の話です。
 今日の箇所を見ましょう。イエス様は十字架と復活の後、天に昇られることを知っておられました。弟子たちは何も知らなかったので、イエス様が何を言っているのかさっぱり分かりませんでしたけれども、奇妙な言葉を覚えていました。14章の初めから読むと、一連の流れが分かります。イエス様の言葉に戸惑い、トマスとピリポが頓珍漢なことを言っています。イエス様は父のみもとに行って、また戻ってくるとおっしゃいました。イエス様の昇天と再臨の話です。その間は、世がイエス様を見なくなる期間です。パウロが教会に手紙を書いたのはその期間でしたし、私たちの時代もその期間です。イエス様は何が起こるかを予め教えて下さいました。イエス様は父のみもとに行かれますが、御父は助け主がいつまでも、イエス様の弟子とともにいるようにしてくださると(16節)。この助け主とは聖霊のことです(26節)。そしてイエス様の昇天の後、約束の通りにペンテコステの日に聖霊がすべての弟子たちにくだりました。それ以降、イエス様を信じて神の国に迎え入れられた人たちには聖霊が住んでくださるようになりました。
 この聖霊なる主は、父・子・聖霊の三位一体の第3のお方です。私たちの主です。助けるお方だということですが、何を助けてくださるのでしょうか。15節を見ましょう。《もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。》イエス様の戒めは「主を愛し、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。この戒めが守れない時、教会に分裂や争い、不安、恐れ、異端などの問題が起こってきます。でも、ちょっと待ってください。この戒めは律法と同じですよね。律法を守れなくて罪を犯し、イエス様の十字架によって救われたのですから、また律法を守るように言われたら無理じゃないですか?_ 無理じゃないんです。私たちには助け主が共にいて、主を愛し、隣人を自分自身のように愛せるように助けてくださるからです。
 イエス様が足の不自由な人たちを癒やされた時を思い出してください。主はその人たちを立てるようにしてくださったうえで、「立ち上がり、歩きなさい」と言われました。彼らが自分で足に力を入れ、立とうとすると立つことができました。そのまま歩こうとすると歩くことができました。踊ることさえできました。主が立てるように癒やしてくださったのですが、彼らは力を入れて立ち上がろうとしてみることを求められました。イエス様が私たちを癒やし、「主を愛し、隣人を自分自身のように愛」せるようにしてくださり、聖霊が助けてくださるのですから、あとは私たちがやってみようとすることです。
 パウロの時代、各地の教会は様々な問題に見舞われました。そんなことでは宣教の計画が前に進まなくなってしまうと思うのが人の考えでしょう。ところが、神様の計画は人の考えを超えているのです。問題が起こったのは困ったことでしたが、それによって教会は自分自身の姿に気が付きました。そして聖霊の助けによって、悔い改めて、問題を解決することができました。例えばコリント教会はどこの群れよりも問題だらけでした。パウロから第1コリント人への手紙が届き、また後日パウロ自身の訪問によって問題が指摘されました。それは教会を悲しませる訪問だったと書いてあります。それから次の手紙(現在は消失)が送られて、コリント教会は悔い改めたのです。すなわち、聖霊の助けをいただいて、互いに愛し合うことをやってみたということです。その次になる第2コリント人への手紙では、パウロは喜んでいます。コリント教会の成長をみたからです。
 教会は共に主を愛し、互いに愛し合う群れです。いや、教会の外でも人々は平和を求めて一生懸命に働いていますよと言われるかもしれません。その通りだと思います。でも、隣人を自分自身のように愛することは、「さあやりましょう」と言われてできることではありません。理想は掲げられても、ある程度頑張れたとしても、どこかで行き詰まってしまいます。しかし、主イエス様に贖われたクリスチャンたちは、聖霊の助けをいただいて、共に主を愛し、互いに愛し合うことができるのです。聖霊の助けを信じて、一歩踏み出す時に、私たちが結ぶ実は《愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22-23)》
 教会の中であっても、私たちがイエス様の戒めを忘れていれば問題が起こります。また私たちが聖霊の助けをいただく必要がないと考えるなら、問題が起こります。主を愛すること、互いに愛し合うことに失敗するのです。教会の中にも失敗があります。それでも私たちのうちには聖霊が住んでいてくださるのです。私のうちにも、相手のうちにも聖霊がおられます。失敗することはありますが、それでも教会の外に比べれば圧倒的に安全なところです。失敗のたびに主イエス様を見上げて、戒めを思い出すことができます。失敗のたびに砕かれて、聖霊の助けが必要であることを認めることができます。私たちはお互いに聖霊の助けをいただいて、寛容になり、親切になれます。ねたむことをやめられます。自慢せず、高慢にならず、礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、相手の悪に心を留めないでいることができます。不正を喜ばず、真理を喜び、すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます(Iコリント13:4-7)。これがお互いにできるところが教会の群れです。
 大変なのは私たちが世に散らばっていく時です。イエス様に属する私たちには聖霊の助けがありますが、人々は聖霊の助けなしに頑張っています。ある意味では主により頼んでいる私たちよりも努力して頑張っておられます。しかし、どんなに頑張っても、限界があるのです。そのような世界の中で、神の愛に生きようとするなら、私たちは拒絶されたり、不親切を受けたり、ねたまれたり、見下されたり、失礼に振る舞われたり、一方的に不利益をこうむったり、苛立ちをぶつけられたり、一度の失敗を何度も持ち上げられたりすることがあるのです。それはとても辛いことです。でも、大丈夫です。ローマ人への手紙にはこのような一節があります。《被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。…同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。(ローマ8:22-26)》主が私たちと共にいてくださり、あの十字架上でイエス様がうめかれた時のように、今も聖霊が共にうめいてくださっているのです。私たちには聖霊の助けがあります。教会で私たちは互いに失敗しながらも、聖霊の助けをいただいて互いに愛し合うことを学んでいきます。すると、外に出ても聖霊の助けにより頼むことができるようになってきます。私たちが愛し、向こうから愛が返ってこなくても、聖霊が共にうめいていてくださるから大丈夫だと思えるようになるのです。
 愛が返ってこなくても、聖霊の助けによって愛することができる。これは宣教のわざです。私たちは時々失敗していますが、一度も失敗しないで、聖霊に満たされて、全てを背負ってくださった方がイエス様でした。憎しみの連鎖はイエス様で終わりました。恨みの連鎖は十字架で終わりました。ねたみの連鎖は、見下すことの、拒絶の、苛立ちの、すべての悪の連鎖は十字架のイエス様が終わらせてくださいました。イエス様は、愛に反する、あらゆることを受け取って、すべての人に愛を返されました。私たちはイエス様の弟子として、聖霊の助けをいただきながら、まずは教会の中で練習し、出ていってイエス様の業を行います。すべての負の連鎖は私たちで終わり。あらゆるところで呪いが祝福に変えられます。これが教会が頭に向かって成長し、愛で結び合わされるということ、そして宣教が進むということです。聖霊の助けを信じて、主を愛し、隣人を自分自身のように愛することをやってみましょう。
 お祈りします《そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。》
 
 天の父なる神様。預言者たちの口を通して約束してくださった通り、助け主である聖霊を与えてくださった主よ。あなたの臨在が私たちのうちに、恵みによって与えられています。あなたは教会を聖霊の至聖所となさいました(Iコリント6:19)。この群れは聖霊の住んでおられるところであり、キリストのからだです。
 ところがイエス様の戒めを忘れ、愛に反することを平気で放置していることがあります。どうかあなたの命令を思い出させてください。また、イエス様を船に乗せず、一晩中漁をして何も捕れなかったペテロたちのように、聖霊なる主の助けを忘れてしまっている私たちをあわれんでください。あなたが助けてくださらなければ、私たちには何もすることができません。どうかイエス様の御名によってくるぶしに力を入れて立つことができるように助けてください。
 これから6日間散らばっていく時、私たちを悪から救いいだしてください。しかし、それでも、あなたに従っていくことは、うめきに突入していくことであると理解しています。あなたは裁きをすぐにもたらすことよりも、忍耐して、私たちと共にうめくことを選ばれました。あなたが共にいてくださるのですから、あなたが共にうめいていてくださるのですから、私たちは主イエス様に従い続けることができます。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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