2023.6.4主日礼拝「罪」ヨハネの福音書5:34-47



梅雨に入りました。講壇の紫陽花がひときわ鮮やかに思えます。本日は罪とは何かをかみ砕いて教えてくださいました。罪とは神様の命令を守らないこと、その命令となに?壁にはモーセが十戒の石板をいただく絵が飾られています。十戒は神から与えられた最初の律法であり命令です。現代でも通じる教え?(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師
おはようございます。ペンテコステを越え、教会暦は4つのシーズンを終えました。イエス様の生涯と働きを覚える教会カレンダーは待降節、降誕節、受難節、復活節から成っています。出エジプトを覚えるユダヤ人の暦は3大祭りのうち、過ぎ越しの祭、五旬節が終わり、秋に仮庵の祭りがあります。どちらも神さまの救いの出来事ですから、2つのカレンダーには重なりがあります。
 ペンテコステ(五旬節)は終わったのですが、シナイ山の話をもう少しします。主はご自分の民に現れてくださった後、神の心を教えてくださいました。どんなことを望んでおられ、何を望んでいないかを教えてくださいました。すなわちモーセを通して律法を与えてくださったのです。神のみ心は《目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの(Iコリ2:9、イザヤ64:4)》でした。主が教えてくださらなければ、人には想像もできないものでした。人は生まれながらにして、神の存在を感じることができると聖書は言っています。しかし神である主がどのようなお方であるかは、聞くことによってしか知ることができません。主が自己紹介してくださらなければ知ることはできませんでした。人の心に思い浮かんだことがないことをなさるお方だからです。
 神の民イスラエルは律法によって主を知ったのです。ところが問題がありました。主のみ心を教えていただいたのに、うなじを固くし、従わなかったのです。
 それにもかかわらず、主は怒るのに遅く、憐れみ深いお方でした。ご自分の御心を律法によって示すだけではなく、今度はご自分の霊を与え、固い石の心を柔らかい肉の心に変えると約束してくださいました(エゼ36:26)。その約束の成就がペンテコステです。
 聖霊はまずイエス様の教え(聖書)を思い出させてくださいます(ヨハネ14:26)。そして、私たちが神のみ心に従うことができるように助けてくださるのです(ヨハネ14:15-16)。こんな素晴らしい恵みがあることをご存知でしょうか。心から主に感謝しましょう。
 聖書をお開きください。ヨハネの福音書5:34-47(186ページ)【聖書朗読】
  
 先週のメッセージで、コミュニケーションは奥が深いという小話をしましたが、私たちがコミュニケーションで用いる「言葉」も大変奥が深いものです。辞書で単語を調べると、1,2,3と意味が書いてあります。例えば「首」を調べますと、身体の首が出てきますし、仕事を辞めさせるという意味も出てきます。ひとつの同じ言葉なのに、全然違う意味があって、私たちは普段文章の前後を聞きながら意味を判断しているのです。
 今日のテーマは「罪」です。この罪という聖書の言葉も、いくつか異なる意味をもっています。ですから、ごちゃごちゃにしないで、文章の前後をよく読んで、何の話をしているか注意するようにしてください。
 まず分かりやすいものからいきましょう。罪は神の命令を守らないことです。Iヨハネ3:4《罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。》ヤコブの手紙2:8《もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。》
 律法はシナイ山で主から教えていただいた神の御心です。律法を学ぶことは現代のクリスチャンにとっても重要なことです。(ただし、イエス様が解き明かしてくださったように正しく律法を理解することが必要です。)律法は「主を愛し、隣人を自分自身のように愛することと要約できます。モーセがシナイ山でいただいた石板には十のことばが刻まれました。前半は私たちと神との関係、後半は私たちと隣人との関係に平和を保つための掟です。十のことばの後にも、約束の地に入ったらこのようにしなさいと言われた掟がありました。主が他の被造物と全く異なるお方であることを覚えるために、平日とは違う安息日を守ること、主がきよいとされた食べ物をきよいとすること。民の全てが神の恵みによって生きていることを覚えるように、初穂をささげること。ひとりひとりに所有地があたえられ、一部の人が独り占めしないこと。逃れの町を備えて、勝手な裁きをしないこと。商売で不正をしないこと。過ちの補償をすること。尊敬すること。殺さないこと。姦淫をしないこと。盗んではいけないこと。貧しい人々を虐げてはいけないこと、等などを守り行うように命じられていました。イエス様が示されたように、時代や文化、民族によって具体的な決まりは変わりますが、原則は変わらずあります。新約聖書でも「争い、ねたみ、憤り、党派心、悪口、陰口、高ぶり、姦淫、殺人、盗み、復讐、貪欲、欺き」等が罪だと教えられています。律法を守らないと、神との関係や人との関係が壊れるよと教えていただいていました。
 「だけど、律法を教えてもらったのは古代イスラエル人だから、私は知らないよ」と言っても、罪からは免れません。神の律法を守らなければ罪は罪です(ローマ2:12-13)。例えば、道路でスピード違反をして捕まって、お巡りさんに「法律を知らなかった」と言っても、罪は罪です。私たちはクリスチャンになったとしても、聖書を学び、主の掟を知る必要があります。良心があるから良いんだよと言っていないでしょうか。聖霊はイエスの教え(聖書)を思い出させてくださるのです。そもそも知らなかったらどのように思い出すのでしょうか。世の中には「不倫をしたら人間関係が壊れるよ」「盗んだら人間関係が損なわれるよ」と教えられたことがない人がいるのです。彼らの“良心”は反応しません。知らないからです。しかし知らないから、罪にならないことはありません。知らないまま罪を犯し、神との関係や隣人との関係を壊してしまうのです。
 罪の2つ目の意味です。罪は、神である主を礼拝しないこと、賛美しないこと、感謝しないことです。これは1つ目の意味の根本にあるとも言えるでしょう。今日の箇所を見てください。39-40節《あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。》ユダヤ人たちは律法を調べていました。罪を犯さないようにするためです。知らないで罪を犯していたら大変なことだと思って、一生懸命に調べ、違反がなければ永遠のいのちが得られると考えていました。
 運転免許には違反点数がありますね。駐車違反で何点、スピード違反で何点と加算されて、6点以上で免停、15点で免許取消になります。「おい、今何点?」「いやぁ、こないだやっちゃって。2点もらったよ。」「俺は5点だぜ。やべぇよ。次で免停だ。」こんな会話が現実にあるのか知りませんが。このような会話をしているうちは、法律を作った人たちの心を分かっていません。「交通事故を起こさないで、誰も怪我をすることがないように」と願っている気持ちを分かっていません。どんなに聖書を調べていて、知らないで罪を犯すことがないようにと考えていても、点数だけを気にしているのなら、律法を与えてくださった主を思う心がないのです。神の知恵を賛美する心がなく、聖書を守ることで平和が与えられていることを感謝する心がないのです。イエス様は鋭く指摘されました。《あなたがたのうちに神への愛がない(42節)》クリスチャンであっても、この罪を犯すことがあります。聖書を勉強して、この箇所の解釈はあーだこーだ話し合って、満足して帰っていく。聖書を読むたびに罪を発見し、へりくだって、あわれみを求めることがない。神への愛がないのです。関心がない。_ 神への愛がないこと、すなわち主を礼拝しないこと、賛美しないこと、感謝しないことは罪です。
 ユダヤ人たちは神である主ヤハウェを知っていました。主が彼らに現れてくださったからです。ところが、世界の中で唯一、主を知っていたはずのユダヤ人たちは、イエス様を退けて、呪いの十字架にかけて殺してしまいました。主を礼拝しない者が行き着く先は、神を殺すことです。これが罪でなくて何でしょうか。「だからユダヤ人は駄目だ」と私たちは指を指して言うべきでしょうか。いいえ。主を知っていた者たちが、主を拒んだのなら、主を知らなかった人々はなおさらなのです。「いや、知ってたら礼拝していたよ」と言える人はひとりもいません(ルカ16:19-31)。なぜなら、主が目の前に現れてくださって、直接見て聞いた人たちも、全員がイエス様を拒んだからです。イエス様の弟子たちは例外でしたか?いいえ。彼らは皆、イエス様が捕らえられた時、散り散りに逃げてしまいました。そしてペテロは人々の前で、イエス様が目と鼻の先にいるにも関わらず、嘘なら呪われても良いと誓い、「わたしはイエスを知らない」と言ったのです。主を礼拝しないこと、主を拒むことは罪です。
 3つめの罪の意味をみましょう。罪は、神である主に対して反抗的で頑固であることです。聖書の言い方で「うなじを固くする」といいます。うなじとは首のうしろの部分、ここの首すじです。うなじを固くするとどうなるでしょうか。首が動かない(回らない)ですね。「さぁ、こっちに行こう」と言われたときに、うなじを固くすると、「私はそっちには行かない。私が向いている方向に行きたい!」となるのです。
 主が荒野で食べ物がなかった民にマナ(パン)を与えてくださって、しばらく経ったある日。民は言いました。「ああ、肉が食べたい。(民11:4)」マナでもお腹いっぱいになるのですが、「同じくお腹いっぱいになるなら、マナは嫌だ、肉でお腹いっぱいになりたい!」というわけです。うなじが固いとはこのことです。
 先日、パウロの手紙について「主キリストによる諸問題の解決」と題してお話しました。あらゆる問題に対して、「キリストはこのようにしてくださいました」「神の計画はこうでした」と語るパウロの姿がありました。裏を返せば、初代教会の問題は、「同じ結果に着くなら私の思う方向に行きたい」とうなじを固くしていたということです。しかし、主の道を進まないでわが道を行き、同じ結果に着くでしょうか。荒野のイスラエルは確かに肉でお腹がいっぱいになりましたが、肉が食べたいと言った人たちは、その後に滅ぼされてしまいました。
 今日は「罪」と言葉の意味をお話しました。私たち人は、一人残さず、みな神に対して罪を犯しました。しかし、神であり、人となられた主イエス様は、あなたの罪を身代わりに負って、あなたの代わりに十字架にかけられました。「私は神に対して罪を犯しました。イエス様の十字架がただひとつの救いです。イエス様を信じます」と告白し、主に従うなら、あなたは恵みによって赦され、神の子どもとされます。
 「いや、そんな方法は嫌だ」と考えていないでしょうか。「私は罪人です」「あなたのあわれみが唯一の救いです」と告白するなんて、そんなのは嫌だと、うなじを固くしていないでしょうか。まるでナアマン将軍(II列王5)のようです。病を癒すために、小さなヨルダン川に身を浸せと言われたナアマンは、もっと偉大な川に身を浸せと言ってくれたら良いじゃないかと怒りました。しかし彼のしもべたちが言ったのです。《「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。(II列王5:13-14)》
 うなじを柔らかくして、イエス様のおっしゃったとおりにしましょう。どんなに罪を犯した者であっても、主はあなたを愛しておられるのです。ご自分の命を犠牲にするほどに。
 お祈りします《しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。》
  
 天の父なる神様。神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。あなたは正義と公正のお方です。すべてのことを正しく裁かれます。あなたの裁きに義と認められる人はいるでしょうか。義人はひとりもいません。
 主よ。私たちはあなたの律法を守らず、罪を犯しました。あなたを礼拝せず、あなたへの愛に欠け、あなたを死に追いやりました。うなじを固くし、私たちを愛して最善をしてくださる主の道を拒んで、御前に罪を犯しました。御言葉の光に照らされ、ますますあらわになってくる私たちの姿は、まさに罪人のかしらです。主よ。どうか罪人の私たちをあわれんでください。石の心を打ち砕き、肉の心を与えてください。
 御子イエス様の十字架の贖いがただひとつの救いであると信じます。イエス様。この朝、あなたは十字架で流された血と御身体をもって、礼拝の席を用意してくださり、私たちひとりひとりを招待してくださいました。ここにいるに相応しくないはずの私たちを招いてくださいました。心からありがとうございます。
 聖霊なる主よ。どうか私たちをあなたの祝宴に相応しく変え、新しい人を着せてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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