2023.4.23 主日礼拝「ヨハネの福音書1章43~51節「来て、見なさい。」

 


今日は入門編のお話。新約聖書にあるイエス様と弟子たちの出会いの物語です。弟子のなかにもさまざまなタイプの人がいました。そこから、メッセージは旧約聖書の創世記のヤコブの話にまでリンクします。ヤコブは「イスラエル」と最初に呼ばれた人です。(神(エル)と闘うという意味)さらに昔の1000年前の話とどう繋がっていくのか…。イエス様と弟子たちの出会いのシーンに深い深い意味があると聞きました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。それぞれの場所に散らばっていた6日間を終えて、また新しい週がやってきました。今日は私たちが共に集まる日、感謝を携え、共に心と声をあわせて主を礼拝する日です。

 今日は第4の聖日ですので、入門編のお話をしたいと思います。本の出版社の人によりますと、巷に出版されている本で、特に教育やビジネスのジャンルに行きますと、一番売れる本は「入門編」の本だそうです。中級とか専門書と名付けている本は売れないそうでして、どの分野でも入門編ばかり売れると。入門編を読んで満足して、中級に進む人はほとんどいない。もしかすると入門編の本を買っただけで満足して、読まずに積んでいる人もいるかもしれないということでした。そんな話を耳にしながら、「入門」と名付ければ多くの方に興味をもらえるかもしれないと思っています。
 また「入門」という言葉は、イエス様が教えてくださった良い知らせを伝えるのに相応しいとも思うのです。イエス様は私たちを救ってくださいます。それは具体的に何を意味しているかというと、神の国から追い出されてしまった人間が、再び神の国に迎え入れられるということです。イエス様は神の国の中で何が起こるのか、病の癒やし、悪霊の追い出し、食べ物の増殖、自然災害の鎮圧などの奇跡によって示してくださいました。神の国にもう一度帰るなら、私たちが心配して解決したいと思っていることはすべて完全に解決するのです。その神の国に入るには、ただ一つの入口(門)があるとイエス様は教えて下さいました。その門はイエス・キリストです。入門編のお話と言って、何を皆さんに伝えようとしているのは、このイエス様のことです。これをお聞きの皆さんに、イエス様の門から神の国に入っていただきたいと願っています。その神の国こそ、実は私たち人間が本来いるべき故郷なのです。
 聖書をお開きください。ヨハネの福音書1:43-51(177ページ)【聖書朗読】
 
 イエス様には、十字架にかかられる前の数年間に、どこにいくにも一緒に行動し、寝食をともにした12人の弟子たちがいました。これはイエス様が始めてくださった「教会」という共同体(コミュニティ)の最初の群れです。イエス様を信じて、イエス様の弟子となった人たちは何百人もいたようですが、この12弟子たちはイエス様がご自分で直接選ばれた人たちでした。今日登場しているのは、ピリポとナタナエル(バルトロマイ)です。
 今日の箇所を朗読しましたが、ここだけを読んでもおそらく意味が分からないと思います。新約聖書は旧約聖書の出来事をよく知っていて読んでいるという前提があるからです。特に旧約聖書に出てくるヤコブという人の話を知らなかったら、全く意味が分からないはずです。
 まずヤコブの話をしましょう。ヤコブはイスラエル民族の祖先で、「イスラエル」という名前の元になった人物です。彼には双子の兄がいました。兄弟がいるということは祝福ですけれども、時にはトラブルの種になることもあります。例えばどんな時でしょう。_ 財産相続の時です。ヤコブは弟でしたので、当時の制度によると長子の権利と呼ばれる祝福を受け取ることができませんでした。それで、本来もらえないはずの長子の権利をもらえるようにしようと画策しました。父親は年をとって目が見えにくくなっていました。双子の兄弟でしたから、ヤコブと兄は似ています。ヤコブは父の目がほとんど見えなくなっていることを利用して、父をだまし、兄のふりをして長子の権利をもらう儀式を受けてしまったのです。父は長子の権利を兄の方に与えたいと思っていました。ヤコブがそれを受けたことに気が付き、長男に言いました。《「おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった。」(創27:35)》
 長男は激怒しました。ヤコブを殺してやると大激怒です。ヤコブは父の家から、親戚の住む土地まで、一人で逃げ出しました。今まで一人になったことはありませんでした。どんなに心細かったかしれません。途中で日が暮れ、石を枕にして野宿しました。すると彼は夢を見ました。ひとつのはしごが地に立てられていて、その上の端は天に届き、神の使いたちがそのはしごを上り下りしていました。そして、見よ、主ヤハウェがその上に立って言われました。《わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。》ヤコブは父や祖父から、神である主の話を聞いていましたが、自分で見たのは初めてでした。ヤコブは言いました。《「まことに【主】はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」…「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」》
 それから何年も何年も経ち、ヤコブが兄と父がいる故郷に帰ることになりました。ヤコブはまだ兄を恐れていました。明日、兄と会うという夜になって、ヤコブは彼に現れた神の人と格闘します。夜明けにもう行こうとした神の人をしっかりつかんで離さず、《「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」》と言いました。それで神の人は《あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。(創32:28)》と言いました。ここからイスラエル民族という名前が始まったのです。イスラは「戦う」、エルは「神」という意味です。イスラエルは、神と格闘する(戦う)という意味になります。戦うと言っても、敵対して滅ぼそうとする戦いではなくて、組み付いて絶対に離さないぞという格闘のことです。神を掴んで絶対に離さない姿がイスラエルなのです。
 さて、ヤコブの話はここまでにして、イエス様とナタナエルの出会いをもう一度、見てみましょう。まずピリポがイエス様と出会いました。ピリポはどちらかというと考えよりも行動が先に出る、お調子者タイプの弟子です。ペテロとかトマスとか、そっちのタイプです。今日の箇所の少し前も読んでいただくと、アンデレやペテロが弟子になる場面があります。ピリポはアンデレやペテロと同じ町の出身だったので、彼らからイエス様のことを聞いたのでしょう。そのイエス様がピリポのところにきて「わたしに従って来なさい」とおっしゃったので、すぐさま弟子になりました。
 一方でナタナエルは慎重なタイプです。ピリポとはまた違うドラマがありました。ピリポはナタナエルを見つけて、《「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」》と言いました。ナタナエルの人となりが少し分かります。「モーセの律法と預言者」とは旧約聖書のことです。
ナタナエルは旧約聖書を熱心に読んで調べている人だったのでしょう。そしてその日は、いちじくの木の下で、ヤコブの話を思い巡らしていたのではないかと思います。ピリポは「あなたがいつも熱心に読んで調べている聖書に書いてあるメシアがいたよ。それはナザレのイエスだよ」と言ったのです。ナタナエルはそれを聞いて、はてなと思いました。「ナザレ?旧約聖書のどこにナザレが出てきただろうか。」エルサレムとか、ベテル、シロ、エリコなど旧約聖書に出てくる地名は沢山有るのにナザレは出てきません。しかも重要とは思えない田舎町です。そうやって考え込んでいるナタナエルにピリポは言いました。《「来て、見なさい。」》ナタナエルのようなタイプの人にはピリポみたいな人が必要ですね。そんなに考え込んでないで、とにかく来て、自分の目で見なさいと言ってくれる人が必要です。
 ナタナエルはピリポに連れられて、イエス様のところにやってきました。イエス様はナタナエルが来るのを見て、おっしゃいました。《「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」》この言葉は、実はヤコブの話に引っ掛けています。「偽り」と訳されている言葉は、ヤコブの父が「おまえの弟が来て、だましたのだ」と言った「だました」と同じ単語です。当のヤコブは、神の人によってイスラエルという名に改名されたのですが、その後もヤコブと呼ばれ続けています。神を掴んで絶対に離さない姿勢をあの後も続けられていたのか疑問がありました。しかしイエス様は、ナタナエルはヤコブ以上に神を掴んで絶対に離さない人だ、「イスラエル」の人だと言われたのでした。ナタナエルは驚きました。自分が思い巡らせていたヤコブの話に引っ掛けてイエス様が話されたからです。「どうして私をご存知なのですか」と尋ねると、イエス様は《「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」》とおっしゃいました。木の下にいるのを見られただけで驚く人はいないでしょう。ナタナエルはいちじくの木の下で聖書を思い巡らせていたのです。その心の中をイエス様は知っていると分かったので、ピリポが言った「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました」という言葉と、目の前におられるヨセフの子イエス(ナザレのイエス)がつながったのです。ナタナエルは告白しました。《「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」》
 聖書に預言され、イスラエルの王として来られる神の子が、ナザレと関係があるだろうかと考え込んでしまったナタナエルでしたが、ピリポが促すままに、とにかく「来て、見た」時にそれが本当だと分かりました。イエス様と出会うとはこういうことです。
 イエス様はナタナエルの信仰告白を受けられた後、答えられました。《「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」…「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」》はるか大昔に書かれた創世記にある出来事が、目の前で起こると言われました。ヤコブが見たのは夢でした。神である主がおられる天と、神を離れてしまった人がいる地がはしごによって繋がれ、行き来できるようになっている夢を見ました。この夢はイエス・キリストによって現実のものとなったのです。ヤコブはかつてこう言いました。《「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」》イエス様はヤコブが言った「天の門(入り口)」であるお方です。
 ナタナエルのように聖書を読み、人と世界の救いについて、なんとか知りたいと、神にしがみついて格闘している人はおられるでしょうか。それは素晴らしいことです。あなたにひとつ必要なことがあります。「来て、見なさい。」ということです。しかし、イエス・キリストは2000年前に十字架にかかって死んでしまった。復活したとしても、天に昇って目に見えなくなったという。どこに行って、どうやってイエス・キリストを見ることができるのでしょう。_ みなさん。確かに今キリストを見ることはできませんが、私たちはキリストの体を見ることができます。キリストの体は本の中だけに書いてあるものではなく、現実に今、私たちの目で見ることができるものです。キリストの体とは教会のことです。イエス様が始められた12人の弟子たちの教会は、その後、多くの人たちがイエス様を信じて仲間に加わり、大きくなりました。なんと2000年たった今でも、その共同体は存続し、世界に広がり存在しています。王寺教会も世界中に広がる教会の群れの一部です。この教会はキリストの体なのです。
 私たちはいつもおすすめしています。「来て、見なさい」と。「教会から何か良いものが出るだろうか」と考え込んでいる方も、とにかく来て、自分の目で見ていただきたい。教会にはイエス様の業が現れています。イエス様に招かれて従った人たちがいます。目に見えない主イエス様が生きておられることを知るでしょう。そして私たちは主イエス様が天の門であることを紹介します。イエス様を信じるなら、十字架の贖いにより、門をくぐって神の国に入ることができます。まず「来て、見てください。」
 お祈りします《ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」》
 
 天の父なる神様。神の家を治めさせるために御子を遣わされた主。また神の家を治めることに忠実でいてくださる主イエス様。私たちは神の家です(ヘブル3:6)。
 アダムのからだを造り、そこに息を吹き込まれたように、あなたはキリストの体である教会を造り、あなたの霊を吹き込まれました(ヨハネ20:22)。どうか今日も、この群れを目に留めてくださって、あなたの吹き込んでくださった息によって生きるようにしてください。あなたのあわれみと恵みによって神の国に入れられた私たちを、天の門であるイエス様を指し示し、「来て、見なさい」と人々に呼びかける者として用いてください。
 いちじくの木の下で考えを巡らせている人たちを覚えてくださって、あなたの約束にしたがって、聖書の言葉が実現していることを見せてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。


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