2023.3.26 主日礼拝「覆い包むように」ルカの福音書14章1~6 節


         写真はsさんより
今日の礼拝メッセージは、安息日にパリサイ人の前で病人を癒やされたイエス様のお話でした。当時ユダヤでは安息日は大勢の人を招いてご飯を食べる習慣があったようです。牧師先生からの背景の細かい説明がなされました。イエス様そしてパリサイ人と病を癒やされた人の、それぞれの気持ちが舞台劇でも見るように想像されます。独りで読んでいるとスルーしてしまいそうな箇所に深い意味を感じました。私たちの痛みを担ってくださる主が、今も生きて私たちに寄り添ってくださるように感じました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬牧師

 おはようございます。今日もようこそ礼拝にお集まりくださいました。先聖日は創立記念の特別な礼拝でした。感謝の溢れる時を、主が与えてくださったことを思い出します。その感謝は、特別な集まる日以外の、山あり谷ありの人生の中で主が救いの御業を見せてくださったことが積み重なって溢れてきたものです。6日間の積み重なりが7日目の安息となるように、10年の積み重なりが10年ごとの記念礼拝となります。今日も、その積み重なりの一つの層になることを覚えましょう。

 私たちの人生は、時に記念日お構いなしで試練に襲われます。みんなが喜んでいて、もちろん私も喜んでいる、でも実は私は今それどころではないという方もおられたでしょう。ある程度の人数が集まっていれば、どうしてもそうなります。しかし、どうしてそれでも主イエス様を礼拝し続けることができるのでしょうか。_ イエス様は祭の日に弱っている人たちに目を留めて、声をかけ、慰め、励まし、癒やすために触れてくださるからです。イエス様が十字架にかかられた日も祭の日でした。世界中のユダヤ人がエルサレムに集まって、祭りを祝っている時に、イエス様は最も低いところに下られました。祭の日に、あなたは大勢の中に囲まれているにも関わらず、みんな忙しくしていて、誰も私に気が付いていないと思える時に、主はあなたと近くいてくださいます。あなたのすべての病を負い、傷みを担ってくださいます。
 そして、あの祭の日の十字架は、祭の喜びのためでした。過ぎ越しの祭は出エジプトを思い出す日なのです。神様の救いを喜ぶ日です。イエス様の十字架の贖いによって、それを信じた人々は、神の民がエジプトから脱出したように、闇から解放されます。イエス様の死が復活につながるように、主に連なる私たちも、死が復活につながります。主はあなたの抱えている問題を見て、気持ちを支えてあげようと思っておられるのではなく、誰にもどうすることができない問題を解決しようとしておられます。
 70周年記念に向けた新しい歩みが始まりました。主はこう言われます。《わたしはあなたの神【主】である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きく開けよ。わたしがそれを満たそう。(詩篇81:10)》
 聖書をお開きください。ルカの福音書14:1-6(146ページ)【聖書朗読】
 
 「ある安息日のこと」短い一言ですが、この話の出だしの大切なことばです。安息日(シャバットשַׁבָּת )とは、週に1度ある祭の日でした(レビ23:2-3)。1週間の最後に設定された大切な日でした。作業を一切止めて、神の恵みを受ける日です。この安息日は、古代の暦ですから、夜から始まります。安息日にふさわしい白い服に着替え、祈りとともにロウソクに日を灯して安息日が始まります。次に夜ご飯です。この最初の食事をユダヤ人たちは家族や友人と一緒に食べるのです。絶対に一人では食べません。大人数で一緒に食べます。神様の祝福を覚えることと食事は切り離すことができないのです。安息日の中でも大切な時間です。
 さて、安息日の最初の食事を大人数で食べることが当たり前な世界です。毎週安息日はやってきます。すると、誰を安息日の食事会に誘うか、あるいは誰に誘われて、どこの家の食事会の席に座るかが重要なことになってきます。もし安息日のディナーに一人で食事をしている人がいれば、誰も誘うことができなかった、そして誰にも誘われなかったという意味です。日本人がエルサレムを観光しに行って、安息日に一人で食事をしていたら、見かけた人がビックリして食事に誘ってくれたという話を聞いたことがあります。日本とは文化が違いますね。そういう背景があるのです。
 さて、《ある安息日のこと、イエスは食事をするために、パリサイ派のある指導者の家に入られた。》ですから、パリサイ派のある指導者は、当時の超有名人であったイエス様を食事会に招待しました。「私はナザレのイエスを家に招いたぞ。あのイエスが他でもなく私の食事会を選んでここに来たぞ」と。そのような様子が浮かんでくるでしょうか。そして会場には律法の専門家たちやパリサイ人たちが何人も呼ばれていました。おそらく家自体も大きく、食事会の規模も大きかったのでしょう。そして、その他の野次馬的な人々も一般席にいたと想像できます。誰が誰の食事会に行くかは、ある意味で、三面記事に載りそうな話題だったわけです。特に、イエス様はパリサイ派を公に非難しておられて、パリサイ派はイエス様を嫌っていましたから、人々は内心でワクワクして直接対決を見に来たのです。
 ここで2節《見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。》水腫というのは、いわゆる「水が溜まっている」というやつです。「水が溜まったので、病院で水を抜いてもらった」とか言いますね。これは2千年前の話ですから、水を抜くことができたのかは分かりません。おそらくできなかったでしょう。見た目にもそれが分かったのでしょうね。イエス様が食事会に招待されて、その会場に入りました。人々が周りでじっとイエスを見つめています。見よ、イエスの前には、水腫をわずらっている人がいた。たまたまでしょうか?たまたまではないでしょうね。パリサイ派の指導者とナザレのイエスの直接対決のネタとして用意されて、そこに連れてこられていたのです。 問題は何か。この安息日は作業を一切してはいけない日です。ところがイエス様は各地で安息日に病人を癒やしておられました。パリサイ派はそれを咎めたいわけです。律法の専門家がいる目の前で、イエスに律法違反の切符をきって、裁判所(最高法院)に訴えたい。「ついに俺が星を挙げたぞ」と、大捕物を人々の前でやりたいということです。
 この水腫を患っている人は、この食事会に呼ばれて嬉しかったでしょうか。どんな気持ちになっていると思いますか。これと同じような経験をしたことがありますか。一体誰が、私の病気、傷み、恥、困難、孤独、絶望を知っているのでしょうか。誰か一人でも、それに気をかけている人がいるのでしょうか。
 その時、イエス様が言われました。イエス様です。「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」これは本当はパリサイ人たちがイエス様に突きつけようとしていた質問でした。イエスがふわ~っと癒やして、その直後に「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と問い、かなっていると言えば律法の専門家たちに反論させ、かなっていないと言えば律法違反を認めたと言い、黙っていれば「律法違反を知っていて違反したので何も言えないのだろう」と追い込むつもりだった。ところが先にイエス様に、考えていた質問をぶつけられて、面食らってしまいました。イエス様は彼らの企みをお見通しだったのです。でも、お見通しなら、なぜそもそも、この食事会に来たのでしょうか。パリサイ派の指導者が罠にかけようとして計画を立てているところに、わざわざ来たのでしょうか。_ この名もなき水腫を患っている人のために、この人を癒やして救い出すために来られたのです。
 水腫を患っている人にとって、イエス様の印象はどうだったでしょうか。「イエスだって他の人と一緒じゃないか。私はただ彼らの対決のネタにされているだけ。だれも私を人間として見ていない。」そう思っていたかもしれません。パリサイ人からは「イエスが来たら、病気が治ったふりをしろよ。痛くても我慢して、治った治ったと言え」と命令されて、あの場所に置かれていたと思います。ところが、その人の前に現れたイエス様はふわ~っと何かをして奇跡を起こそうとするのではなく、律法の専門家たちやパリサイ人たちに向いて話し、彼らを黙らせたのです。イエス様は茶番劇に興味はありませんでした。この水腫を患っている人を救うために来られました。誰がその人を押さえつけているのか見抜いて、彼らを黙らせました。
 そして、イエス様はどうされましたか。4節をよく見てください。《彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。》イエス様は遠く離れていても、言葉で病気を癒すこともできます。そのような力あるお方ですが、今回はその人を抱いて癒やされました。その人に必要だったのは、水腫という病気の癒やしだけではなく、それに伴う心とたましいの傷みの癒やしでもありました。この時、その人はどのような気持ちだったでしょうか。あなただったら、どう感じるでしょうか。「私を見ている人がここにいた。私に気をかけている人がここにいた。私を押さえつける人たちを黙らせ、私の心を深みから引き上げてくださるお方がいた。」気がつくと病気の傷みがありませんでした。問題が根本から解決したのです。拭いても拭いても滲み出してくるものを拭い続ける日々は終わりました。
 それからイエス様はその人を帰されました。その人は食事を楽しむためにそこにいたのではありません。行きたくて来たのではありません。その日のショーの道具として連れてこられて、ステージに置かれていたのです。しかし、その人はこの地獄のような場所から解放され、帰ることができました。イエス様が帰してくださいました。イエス様がショーに興味があったのではないと分かります。「私が奇跡を起こしたんだぞ」と自慢したければ、帰したりはしないでしょう。でも、イエス様はその人を帰してくださいました。敵を黙らせるイエス様がおられるなら、一体何を恐れることがあるでしょうか。自由になり、私たちはどこにでも恐れることなく行くことができるようになります。
 主イエス様は、病気、傷み、恥、困難、孤独、絶望に苦しむ人のところに来てくださるお方です。覆い包むように抱いて癒やしてくださるお方です。逃げ出すことができない地獄のような場所から自由にしてくださるお方です。あなたもイエス様の愛を受け取りたいと思いませんか。救い主イエス様を信じ、そのふところに飛び込んで新しい人生を始めましょう。
 救われるために何をしなければならないと思いますか。主イエス様を信じることです。この水腫を患っていた人は、イエス様によって救われました。イエス様がやってきて、イエス様が敵を黙らせ、イエス様が癒やし、イエス様が自由にしてくださいました。このお方は2千年前に十字架にかかって、人の罪の身代わりとして死なれましたが、3日後に死からよみがえられ、今も生きておられます。そのお方があなたを救おうとして待っておられます。神である主は、私たちの人格を尊重されるお方ですので、私たちは神の愛を拒否することができます。あなたは今日、聖書の福音を聞きました。イエス様があなたの人生に来られたということです。あなたはたまたま今日、会堂に来たのかもしれません。たまたまYouTubeを回して、聞いていたのかもしれません。しかし、イエス様はあなたを捜して救うために来られました。その御手はあなたに向かって差し伸べられています。このイエス様を信じますか。
 お祈りします《彼らは黙っていた。それで、イエスはその人を抱いて癒やし、帰された。》
 
 天の父なる神様。荒涼とした荒れ地で人を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守ってくださる主よ。
 人ははるか昔にあなたを見失い、暗闇にさまよって、途方に暮れています。あなたによって造られ、あなたが用意してくださった大自然の中で養われていますのに、あなたが生きておられることすら分からなくなってしまいました。それにも関わらず、あなたは私たち一人ひとりを忘れてはおられません。罠にはまって逃げられなくなり、他人に利用され、病に苦しみ、すべてを諦めている時、あなたは私たちを捜して救うために来てくださいました。いまここに、主がおられます。
 主よ。どうかあわれんで助けてください。あの時、水腫を患った人にしてくださったように、私たちも助けてください。本当の救いはただあなたにあります。主イエス様、今も生きておられるあなただけが本当の救い主です。
 私たちを死から救い、あなたと共に復活させてください。私たちはすべての問題から根本的に解放されて、ついにあなたの救いを祝う祭りを喜ぶ人となるでしょう。《【主】は生きておられる。ほむべきかな わが岩。あがむべきかな わが救いの神。》
 感謝して、主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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