2023.2.26主日礼拝「あなたに必要なもの」ルカの福音書12章13~21節

(写真はSさん提供)

今回は、月1回の歓迎礼拝で、入門編のわかりやすいメッセージです。午後には、月一回牧師を囲む「午後の会」があり、忌憚なくいろんなことを質問します。天国に行ったらすることがなくて退屈しないですか(笑)などなど。リラックスした楽しいひとときです。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師
おはようございます。2月の歓迎礼拝をもっております。教会の礼拝式は招かれた人が参加することができます。教会のリーダーである主イエス様が招いた人が席につくことができるのです。ご存知でしたか。実はみなさま、お一人ひとり、お気づきかどうかに関わらず、今日主イエス様に招かれてここにいらっしゃいました。目に見えない招待券をみんな持っているのです。聖書にはイエス様の言葉が記録されていて、誰が招かれるのかをイエス様が教えておられる場面も書いてあります(ルカ14:12-)。イエス様はある大きな食事会の様子を例えに用いて、このことを話されました。食事会には、当然準備される食べ物があるのですから、招待が必要です。何人来るのか知っておかなければなりません。

 その話の結論はこうです。イエス様は自分の損得勘定で人を選ぶことはしないとおっしゃいました。兄弟や親族、有名人、有力者、お金持ちなどを呼ばないで、お返しを見込めない人々を沢山招くとおっしゃいました。また知らない人にも声をかけに行って、本当に神の国に入ってみたいなと心で思っている人たちを、遠慮する言葉も押し切ってまで招かれるということです。
 今日ここで席についているということは、YouTubeを開いて参加しているということは、主イエス様があなたを招いてくださったからなのです。あなたは気が付かないうちに招待券を使ったのです。ようこそ主イエス様の食事会へ、いらっしゃいました。
 今日は入門編のお話をしたいと思います。聖書をお開きください。ルカの福音書12:13-21(141ページ)【聖書朗読】
 
 イエス様が人々の間で有名になり、十字架にかけられるまで数年間がありました。その間に色んな人がイエス様と出会っています。イエス様と出会った人はみな、自分たちが思い描いていた以上のことを経験したのです。聖書を読むとき、私たちもまた主と出会います。クリスチャンは人々に聖書を読んでみてくださいとおすすめするのですが、これを読んで頑張って悟りを開いてくださいと言っているのではありません。主との出会いがあるので、読んでみてくださいということです。
 主イエス様は目で見なければ信じることができない私たちのために、天から来てくださいました。人々は神はいないと言っています。目で見えないし、物事をいくら観察しても、神の力が働いていることをデータで観測できないと言っています。しかし、神である主は、信じることができない私たちのために、わざわざ人となって降り、来てくださいました。イエス様は目で見えましたし、触った物体は動きました。歩けば足跡が付いたし、ふっと吹けば風が起こりました。神の力が働くことを観測できたのです。ところがイエス様がよみがえられた後、天に昇られると、また目に見えないからと言い始めました。人は言い訳に言い訳を重ねてきました。数百年前まではその言い訳もあるいは通用していたのかもしれません。しかし主は本当に私たちをあわれんでくださって、もう一度、目に見えるようにしてくださっています。すなわちここ数十年で一気に発展してきた考古学の成果です。過去のデータを見ることができる時代になりました。数十年前までは今のように説明できなかったのです。素直な心で信じなさいと語られていました。「救いを望む人は、ただ信ぜよ」と語られていたのです。これは今日においてもその通りです。ただ信じる人は幸いです。しかしそれが難しいと思う人のために、神の救いの御手は更に伸ばされています。もはや私たちにどんな言い訳が残っているでしょうか。ですから、どうか心を開いてイエス様の言葉を受け入れていただきたいと願います。
 さて、今日朗読した箇所を見てください。「貪欲」という言葉が出てきましたので、道徳の話かなと思われたかもしれません。でも道徳の話ではありません。道徳には神は必ずしも要らないのです。時には、「お天道様が見ているから、人が見ていないところでも清く正しく生きましょう」という風に、神のような存在が出てくることがありますが、それは何にでも取り替えることができます。お日様でもいいし、ご先祖様でもいいし、守護霊でもいいし、何ならイワシの頭でもいいわけです。今日の箇所で、イエス様に声をかけたひとりの人に、イエス様が言っておられることは道徳の話ではありません。欲を捨てて謙虚に質素に生活しましょうという話ではありません。そのように考えていたら、聖書の他のページを開いた時に、噛み合わなくなって混乱することになります。
 イエス様が何をおっしゃっているのか理解するには、聖書全体の大きなテーマを知っておく必要があります。それは結局のところ、「私たち、人が拠り頼むべきは主である」ということです。主はすべてのものを創造され、愛し、お世話しておられるお方、ノアを方舟で救い、アブラハムを選び、モーセをファラオと対峙させ、ダビデをサウルから守り、エリヤの祈りに答え、ダニエルの前にいた飢えた獅子の口を塞いだお方、また2千年前に人となって地に来てくださったイエス様、十字架にかかり死んでよみがえられ、天に昇られたナザレのイエス様であり、ペンテコステの日に弟子たちにくだった聖霊です。他の何とも入れ替えることができません。主はあのお方です。聖書はこんなに2千ページもあって、詳細に様々なことが書いてありますが、結局のところ「私たち、人が拠り頼むべきは、この主である」と教えています。
 そうすると、「主に拠り頼みなさい」と表裏一体なのは「主以外のものに拠り頼んではいけない」ということです。人の手で作られた、木や石や銀や金の神々に仕えてはならないと主は何度もおっしゃいました。さらに主イエス様が来られたとき、こう言われました。《だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(マタイ6:24)》このイエス様の言葉はクリスチャンである方にも注意深く聞いていただきたいことです。他の宗教の神を拝んでいないから、偶像礼拝は私には関係ないと思っていたら、思わぬ落とし穴にはまってしまうこともあるかもしれません。神々を拝んでいなくても、お金に仕えているということがあるからです。あるいは、それはお金でなくても、色んなことがそこに当てはまります。健康食品かもしれないし、良い習慣かもしれないし、お守りかもしれないし、秘密の情報かもしれないし、占いかもしれないし、カリスマ的な有名人かもしれません。
 さて、群衆の中の一人がイエス様に言いました。《「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」(13節)》彼は遺産相続で兄弟と揉めていたようです。この言い方ですと、法的に受け取れるはずの相続分を兄弟に取られてしまったのではないかと考えられます。彼が遊んで暮らせるほどのお金持ちだったかどうかは知りません。その後の例え話に出てくる人は、直接この群衆の中の人を指しているわけではありませんので、その人がお金持ちだったかどうかは私たちには分かりません。不当に取られてしまったものを受け取れるようにしてほしいと願って、「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい」と言われてしまったら、なんだか酷な気がします。しかし、イエス様は人の心を知っておられるお方でした。この人が、もらえるはずの遺産がなくなってしまったら、もう私は終わりだと信じて、必死にイエス様に訴えてきたことを見ていたのです。群衆が見ている真ん中で、家のことを話しているわけですから、なりふりかまっていられない様子が表れています。彼には、この遺産が命に関わるほど、どうしても無くてはならないものに思えたのです。
 イエス様は、その遺産が彼の命に関わるものではないことを教えられた上で、例え話を話されました。もし彼が望んでいるとおりに、いえ、これ以上ないほどに財産が手に入ったとしたら、どうなるかという話です。もし保管しておく場所がないほど財産が手に入ったとしたら、もし何年も働かずに、食べて、飲んで、楽しめるほど資産が手に入ったとしたら、もう心配はなく、楽しいことだけの人生になるのでしょうか。そうはなりません。みなさんにも、お金であっても他のものであっても、何か、これが無くては私は終わりだと思えるようなものがあれば、それが有り余るほど手に入ったとしたらどうなるかよく考えてみると良いと思います。深く深く思い巡らして見てください。
 実は聖書の中でも、それを実践してみた人がいます。その人は伝道者の書を書きました。旧約聖書の中程にある書物です。彼は単に想像してみたのではなく、あれば良いのにと人々が願っているものをすべて、有り余るほど手に入れ、それを味わったと書いてあります。ところが、伝道者が見出したことは、「すべては空しい」ということでした。
 結局のところ、すべての必要を知っていて、いつも必要を満たしてくださる主が共にいてくださること以上に、人にとって大切なことはないのです。群衆の中の一人の人は、主イエス様を目の前にして、裁判官や調停人になってほしいと思っていました。私に必要なのはあの遺産で、それを分けるように言ってほしい、イエス様の権威を借りたいと思っていました。彼は、あまりにもイエス様を小さく見積もりすぎていました。《どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。》イエス様を見て、永遠の昔から、永遠の未来まで、生きておられる主が共にいてくださることを願わず、資産や他のものに自分の全体重を乗せることは愚かなことです。
 人々は言います。「人は信用できない、お金なら信用できる。」本当ですか?この日本でも、先の戦争の後、紙幣価値が急激に下がりました。せっかく貯金したものが意味のないものになりました。昔の100円札は見たことがありますか。お札になるほどの価値があったものが、今はどれほどの価値でしょうか。他の資産も、人が価値を認めている以上、価値が不変であることはあり得ません。人が信用できないのに、資産が信用できるのですか?
 聖書には、神である主が変わることのない誠実なお方であると書いてあります。それは歴史の中で実際に試されてきたことなので、絵に描いた餅ではありません。ある箇所にはこのように書いてあります。《わたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ3:10)》前回トマスの話でも同じことがありました。主は試してみよとおっしゃるお方です。本当に生きていて、そして私に誠実にいてくださるお方なのか、もし信じられないのなら、試してみるべきです。どうやって試したら良いでしょう。祈ってみたら良いのです。「こう聞いたけれど、それは本当ですか」と本人に聞いてみたら良いのです。心のなかで祈る分には、誰に見られるわけでもありませんから、恥ずかしいこともないでしょう。主は心のなかで祈ったことも聞いておられます。
 この箇所の後、イエス様の話は「心配するのをやめて、御国を求めなさい」と続きます。御国とは、主イエス様がおられる場所です。主が養い、主が住むところを与え、主が守り、そして主が本当の自由を与えてくださるところです。御国を求めるとは、生きておられる主を求めるということです。主イエス様こそ、あなたが本当に必要としているお方です。
 お祈りします《小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。》
 
 天の父なる神様。永遠の真実の愛をもって、私たちをあわれんでくださる主よ。
 私たちはあなたのみ前に立ち、何を求めるでしょうか。かつてダビデ王はこう言いました。《あなたは喜びを私の心に下さいます。それは 彼らに穀物と新しいぶどう酒が 豊かにある時にもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ すぐ眠りにつきます。【主】よ ただあなただけが 安らかに 私を住まわせてくださいます。(詩篇4:7-8)》
 私たちに必要なのは、主よ、あなたです。「それが本当であるか試してみよ」とあなたはおっしゃいました。見ないで信じることができない私たちをあわれんで、御言葉の約束にすがることを許してください。私たちがあなたを試してみるとき、あなたの心には痛みがあるでしょう。しかし、どうか助けてください。私たちはあなたを本当に知りたいのです。
 あなたがご自身の誠実さを教えてくださったなら、今度は私たちが誠実に応えましょう。一生の間、あなたから目を離さず、御国を求めて行きます。どうかペテロの信仰がなくならないように祈ってくださったように、私たちのためにも祈ってください。

 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。 

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