2023.4.2主日礼拝 「突き刺された主を仰ぐ」ヨハネの福音書19章16b-22,31-37節 


今朝は今年度の新しい教会標語がイラスト付きで掲げられました。毎日曜日に礼拝の時これを仰いで心新たにするものです。受難週に入りました。春は嵐が来たり、気候も不安定です。体調も不安定な時、主のお苦しみを知る一端になると心を切り替えます。
メッセージでは最善をしてくださる主に祈りきることを教えていただきました。イースターが待ち遠しいです。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬牧師

おはようございます。今週は受難節の最後の週で、受難週となります。イエス様が十字架にかかられた一週間を思い出す時です。
 日曜日、イエス様はロバに乗ってエルサレムに入られました。人々はなつめやしの枝を持って迎えに出ていき「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」と叫びました。人々の考えはダビデ王国の再建であり、イエス様の計画と違っていましたが、イエス様はこの称賛を聖書に書かれているとおりにお受けになりました。
 月曜日、イエス様は神殿に行かれ、そこで貧しい人や異邦人たちの礼拝を妨げていた商人たちを追い払われました。ユダヤ人の指導者たちはどのようにしてイエスを殺そうかと相談をしました。
 火曜日、ユダがイエス様を銀貨30枚で売り、祭司長たちに引き渡すことを約束しました。一方、マリヤという女性がイエス様に香油を注ぎ、それとは知らずに埋葬の準備をしました。
 木曜日、過ぎ越しの祭りの食事会がイエス様と12弟子たちで開かれました。最後の晩餐と呼ばれるものです。食事の後、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、祈るためにゲッセマネへ行かれました。
 金曜日、日が明ける前にイエス様は祭司長たちに逮捕され、裁判にかけられます。この裁判は不当なもので、ピラトがはっきりと無罪を宣言する中、イエス様は十字架にかけられることに決まってしまいました。午前9時頃に十字架にかけられ、午後3時に息を引き取り、午後6時ころには埋葬されました。
 そして次の日曜日にイエス様は墓からよみがえられました。(どの曜日に何が起きたかは聖書にはっきりと書いてない部分があるので、議論がありますが、伝統的には以上のように考えられています。)
 それはあっという間の出来事でした。一週間前にはまさかイエス様が殺されるとは思ってもいなかったことでしょう。イエス様の死と復活は、あらかじめ言われていた通りでしたが、あっという間に起こった出来事でした。
 今年の受難週、私は特にゲッセマネの祈りを心に留めています。イエス様は十字架にかかられる直前にゲッセマネで祈られました。《アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。》神の御手に委ねること、それは言うは易く行うは難しだと思います。主は最善をしてくださると知っていても、恐れを感じてしまうことがあります。イエス様は祈られました。ご自分であらゆることをする力をお持ちでありながら、それを使おうとせず、神の御手に委ねるために祈りを必要とされたのです。ここでイエス様は祈りきっておられます。ついに神の御手に委ねきるまで祈られた後、後戻りはなさいませんでした。
 このところ何人もの方が次々と困難に直面しておられ、心を痛めています。主はいつも良いことをしてくださいます。私たちには神の御手に委ねるための祈りが必要ではないでしょうか。ついに平安がきて、もう祈り続ける必要がないと納得が来るまで祈り切ることが大切でしょう。
 聖書をお開きください。ヨハネの福音書19:16b-22,31-37(225ページ)【聖書朗読】
 
 先日の続きです。ローマの総督ピラトは、ユダヤ人の祭司長たちが妬みからイエス様を殺そうとして訴えてきたことに勘づいていました。イエス様は金曜日の深夜から明け方にかけて、3つの裁判にかけられましたが、いずれもイエス様の違反をはっきりと見つけることがありませんでした。だいたい裁判はこんな数時間で終わらせるものではなく、何日もかけて行うものです。しかも夜中の2時とか3時とか、そんな時間に裁判をしているのです。どれだけ異常だったかお分かりいただけるでしょうか。祭司長カヤバたちが一気に畳み掛けて、イエス様を十字架にかけるように仕向けました。群衆たちも実はよく分からない間に事が進み、状況に飲まれてしまっていたのだと思います。
 まず行われたユダヤ人の裁判では訴えの証言が一致しませんでした。最後はイエス様を殺そうと決めていたカヤパが一人で有罪を決めてしまいました。続いて行われたヘロデ王の取り調べでも、罪は見つけられず、最後にピラトの裁判では、はっきりと無罪が宣言されました。ところが祭司長たちに扇動された群衆たちは「イエスを十字架につけろ」と叫び続け、暴動が起こりそうになったので、ピラトは「血の責任は私にはない」と言いつつ、イエス様をユダヤ人たちに引き渡しました。ピラトはローマの総督として権力を持っていましたが、暴動が起これば統治能力がないということで、上からの評価を失ってしまうわけです。それまでも何度かユダヤ人の熱心党員がゲリラを起こしていましたので、何度も繰り返すとピラトとしても不味かったわけです。祭司長たちはその弱みに付け込んだのです。群衆を煽り立てたのは計画されたことだったのでしょう。
 そうしてイエス様の身柄がユダヤ人たちに引き渡されるところから、今日の箇所が始まります。《イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。》ここだけを読むと、イエス様がとても元気で、意気揚々として出て行かれたように読めてしまうかもしれませんが、他の福音書も参照しながら読むとそうではないと分かります。十字架は死刑囚が自分で背負って運ばなければならないものでした。人々にそれを見せて恥をかかせるためです。しかしイエス様を恥をお受けになりました。自分で出て行かれたとは、それを良しとされたという意味です。刑場である「どくろ(白骨化した頭蓋骨)の場所」に連れて行かれました。ドクロをヘブル語で言うとゴルゴダ、ラテン語で言うとカルバリア、そこから英語になるとカルバリーです。「カルバリーの十字架、我が為なり」と歌う古い讃美歌があります。
 イエス様がかけられた十字架の上には罪状書きが掲げられました。しかしイエス様は罪がないと認められたはずです。一体何を罪状として書くのでしょうか。ピラトはそこに、「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書きました。ユダヤ人はもちろん他のすべての見物人が分かるように、ヘブル語とラテン語、ギリシャ語で書かせました。ピラトからすると、祭司長たちへの反撃でした。ユダヤ人の王が死ぬ、それはユダヤ民族の終わりを暗示させます。祭司長たちはピラトに《「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」》と言いました。「イエスはユダヤ人の王を自称し、ローマ皇帝に逆らったので、死刑になった。ユダヤ民族の王ではないし、私たちはこの男と関係がなく、反逆の責任は私たちにはない」と示したかったのです。それが彼らの考えた筋書きでした。しかし、事実としてイエス様はダビデの子孫であり、王国を建て直すために来ると聖書で書かれていた王でした。イエス様の系図をたどればダビデ王につながっていることが分かります。十字架の前で衣服が取り合いになるという細かい事まで、聖書に書いてある通りでした。ピラトは皮肉で「ユダヤ人の王」と書きました。ユダヤ人たちはそれを認めたくありませんでした。しかし、事実、イエス様は神の民の王でした。人々は神の民に次々に連なるとも書いてありますので、すなわちイエス様は全世界の民の王です。ローマ人の王でもあり、ギリシャ人の王でもあり、あなたの王なのです。
 ヨハネは35節でこう書いています。《これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。》結局のところ事実がどうであるかが問題です。ある時、ある青年がある会社の就職面接に行ったそうです。会社の玄関先で掃除をしているおじさんがいて、「ちょっとおじさんどいてよ」と言って入っていきました。ところが面接会場でびっくり、掃除をしていたおじさんはその会社の社長だったのです。その人を誰だと思うかより、その人は実際に誰かが重要なことです。当時の人々は、鞭打たれて、裸にされ、十字架にかけられたイエス様を見て、王だとは思わず、嘲り笑っていました。しかし、事実としてイエス様は創造の主であり、私たちの王です。
 36節と37節で旧約聖書の引用があります。37節の方はゼカリヤ書からの引用です。ゼカリヤはエルサレム神殿再建の時に、主のことばによって民を励ました預言者です。そちらを開いてみましょう。ゼカリヤ書12:2-3《見よ。わたしはエルサレムを、その周りのあらゆる民をよろめかせる杯とする。エルサレムが包囲されるとき、ユダについてもそうなる。その日、わたしはエルサレムを、どの民にとっても重い石とする。すべてそれを担ぐ者は、身にひどい傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来る。》「その日」の預言です。今は神殿もなく、城壁も壊れたままの都ですが、再建され、「その日」が来ると、あらゆる民をよろめかせる杯となり、地のすべての国々が集まってくると言われています。10節《わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。》「わたし」とは主ご自身のことです。主が突き刺されるとここに書いてあります。万軍の主が突き刺されるとは、誰がそのようなことを想像できるでしょうか。しかし、主が突き刺されることによって、こうなります。13:1《その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。》8-9節《全地はこうなる──【主】のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う。》多くの人が滅びるが、そこには残された人たちがいると言います。主を仰いで、主のみ名を呼ぶ者は残され、「その日」の栄光を見ることができます。
 神殿は跡形もなく、城壁も70年前に崩れたまま風化している。その様子を見て、どんな国よりも力強く、他国の人々が魅力を感じて集まってくる都になると想像できた人がいるでしょうか。鞭打たれ血だらけになって、裸で、十字架に釘付けられ、息も絶え絶えになっている様子を見て、このイエス様が万軍の主であり、すべての人の王であることを想像できたでしょうか。しかし、自分の感覚に流されず、聖書を読んで事実を知る人は幸いです。祭司長たちに扇動された群衆たちは、自分たちを救ってくださる主が目の前におられると気が付かないで、お祭り騒ぎで「除け、除け、十字架につけろ」と叫んだのです。十字架の主イエス様を見て、「このイエス様こそ私の神」と告白する人には、「あなたはわたしの民」と主がおっしゃってくださいます。その日、主のみ名を呼び求める人は残され、神の国の栄光を見るのです。
 お祈りします《ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。》
 
 天の父なる神様。この世界のすべてを創造し、愛をもってお世話をし、絶えず恵みを注いでいてくださる王なる主よ。あなたは私たちに現れてくださいました。あなたの全き聖さにより、その姿を見た者は滅んでしまうと言われていましたのに(イザヤ6:5)、ご自分を空しくして、苦難のしもべとなり、人としての姿をもって現れてくださいました(ピリピ2:7)。一体誰が、十字架につけられ、息も絶え絶えになっている人を見て、主だと知ることができたでしょうか。しかし、あなたは預言者たちを通して、あらかじめ教えてくださっていました。主は突き刺され、その傷によって私たちは癒やされるのだと(イザヤ53:5)。
 十字架のイエス様。自分で何をしているか分からず、あなたを嘲った者をあわれんでください。「あなたはわたしの民」「主こそ私の神」と互いに言う、あなたとの正しい関係に人々を戻してください。
 あなたは私たちの王です。愛とあわれみに富む王に養われ、仕えることができることは本当に幸せなことです。この受難週を祝福し、私たちの心をあなたに向けさせ、次の聖日には復活の朝を兄弟姉妹と共に喜ぶようにしてください。

 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。 

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