2023.3.5主日礼拝「苦難のしもべキリスト」マタイの福音書16章13〜16節、20〜23 節


暖かくなってきましたね。冷たい土の中から芽が出ることそして花が咲くことに、命の源である創造主のわざを見せていただくようで、春はことさら神様を身近に感じられます。2000年前、神様なのにそれを捨てて人として生まれてくださったイエス様は「キリスト」という称号 を持っていらっしゃいました。その意味を今日メッセージで解き明かしてくださいました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師
 おはようございます。今日も、こうして主に集められ、主の恵みを数えています。神である主を信じ、天の下で生きることは、何と幸いなことでしょうか。
 先聖日の午後には、久しぶりに午後の会が開かれ、よい学びと交わりの時となりました。感謝です。先日、「新しい天と地に行っても、私たちは主を礼拝します」と説教の中でお話ししました。そのことについても質問がありました。天国に行っても教会堂があって、日曜日の朝になったら集まって、讃美歌を歌って、使徒信条を告白して、お祈りして、説教を聞くのでしょうか。それはないでしょうね。新しい天地の神の都には神殿はないと黙示録に書いてあります(黙21:22)。必要がなくなるからです。
 では、私たちが礼拝するとはどういうことでしょうか。聖書の中で、「仕える」という言葉はほとんどの箇所で「礼拝」と同じ意味で使われています。これがヒントになるかもしれません。私たちの神である主を認め、主の恵みをいつもおぼえて、み名を賛美しながら、主に拠り頼んで生きていくこと。これが礼拝の本質です。礼拝する時、主が備え、守り、助け、救い、自由にし、愛し続けていてくださることを私たちは思い出すのです。
 そういうわけですから、私たちの礼拝の大部分は、礼拝式よりも普段の生活の中にあるといえるでしょう。神の助け、恵みの糧、敵からの守り、癒やし、そして愛は、大部分がそれぞれの人生の歩みの中において経験するからです。そして、それを互いに持ち寄って、「私は先週、このように主を見た」と言って証し合い、共に声と心を合わせて賛美の歌声をあげ、祈りの香りを天に届けるのです。それが礼拝式です。これは私たちの証の場、互いに励ましを受け、人々に主の素晴らしさを伝える場です。
 教会の2000年の歴史を振り返ると、礼拝式も随分形態が変わってきました。時代や文化によって、形は変わります。礼拝式の歴史を学んでみるのも面白いと思います。ここ数十年で文化が激しく変わり、新しくなりました。礼拝式も、その本質を残しながら、形においては脱皮していく時代に入っているのだろうと思っています。
 聖書をお開きください。マタイの福音書16:13-16,20-23(33ページ)【聖書朗読】
 
 今日はイエス様の称号に目を向けてみましょう。聖書を読むと、イエス様を指す言葉がいくつもでてきます。メシア、キリスト、人の子、神の子、ことば、「わたしはある」、主…などです。イエス・キリストと呼ぶくらいですから、その中で一番重要なのは「キリスト」でしょう。みなさんご存知と思いますが、キリストは名前ではありません。名前は出身地や親の名前を使って、ナザレのイエスとか、ヨセフの子イエス(ヨハネ1:45)とか呼ばれていました。キリストとは、ヘブル語でメシア(משיח)といいますが、油を頭から注がれた者という意味です。古代イスラエルでは、神に選ばれて、神の代理人として神の働きをする人が、油を注がれました。例えば、王様、祭司、預言者が油を注がれています。ダビデやエリヤ、エズラなどを思い出しますね。またアブラハムやモーセなども、神に選ばれた人として思い出されます。イエス様はキリスト、すなわち神の特別な業(救い)を行うために地に来られたお方なのです。
 イエス様の時代のイスラエルでは、人々はメシアの到来を待ち望んでいました。ダビデ王の後を継ぐキリストが来られる。ユダヤ人を救ってくださるお方が来られると期待していました。福音書を読むと、群衆が「イエスはキリストか」と話し合っていた場面や、サマリヤの女性、エマオの途上など、人々がメシアを待っていたことが分かる描写が沢山あります。彼らは外国の帝国に長い間支配され、つらい目にあってきたので、彼らを救ってくれる神の人が現れるのを待っていたのです。
 人によっては、旧約聖書を順番に読んできて、新約聖書に来たとき、ユダヤ人たちがキリストを待ち望んでいる姿を見て、意外に思うかもしれません。旧約聖書でキリストの到来について書いてあったかなと感じるかもしれません。それほど大きく取り上げてはいないからです。福音書まで読んで、ユダヤ人がキリストを待っている姿を見て、そうだったかなと戻って調べてみると、確かに書いてあるなと分かるでしょう。
 ユダヤ人たちが、メシアが来られると気が付いたのは、彼らが試練に遭っていたゆえでした。苦しみにあうと、人は救いを探し求めます。私たちもそうではないでしょうか。苦しみは避けたいものですが、試練を通してこそ大切なことが見えてくることもまた真理です。ラビたちは聖書を開き、神がメシアを遣わして、ご自分の民を救おうとしておられることを発見したのです。イザヤ書42:1-4にはこのように書いてありました。《「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」》苦しみの中にいたユダヤ人たちは、キリストが来て自分たちを救ってくれる日を、一日でも早く見たいと切望していたのでした。
 そのようなキリスト待望の機運の中、イエス様は地に来られました。本当に素晴らしいではないですか。人々が待っているのですから、私はキリストだと言って、奇跡を起こして回れば、瞬く間に人々がついてくるでしょう。桃太郎のように、旗に「キリスト」と書いて背負って歩けばインスタ映えもしたでしょう。ところが_。イエス様は、ご自分のことをキリストと称することをなるべく避けておられました。どうしたことでしょう。実は人々が待ち望んでいた救い主“キリスト”は、人々に広まるうちに、言葉だけが独り歩きして、聖書の言っているキリストと全然別物になってしまっていたのです。キリストは私たちを救ってくれる。でも、それは具体的にどういうことでしょうか。人々はてんでバラバラに、自分が思い描く救世主を期待していたのでした。現代の私たちも同じではないでしょうか。「イエス様は救い主」とどこかで聞いたことがあるでしょう。では、救い主キリストって何をしてくれるのだろうと思って、聖書を開いたでしょうか。むしろ救い主という言葉を聞いただけで、良かった良かったと言って、全然別のイメージの救い主を期待していることがあるのです。イエス様は預言者が伝えたキリストであり、人々が勝手に想像している“キリスト”ではありませんでした。
 イエス様はキリスト(メシア)という代わりに、「人の子」という言葉をよく使われました。これはダニエル書(7:13)から来ている言葉ですが、当時は「キリスト」ほど知名度がありませんでしたので、人々は人の子とは何だろうと思って、イエス様の言葉に耳を傾けました。
 イエス様が「人の子は~です」と言われたことは、聖書が約束していたキリストのことです。人々が考えていた救い主の姿とは違っていました。人々はイエス様がキリストではないかと思い始め、いつかローマ帝国を打倒し、ローマにある王座を奪う日が来るのではないかと期待し始めていました。そうすれば私たちの苦しみの日はついに終わると考えていました。ところが、イエス様は《ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた》のです。ペテロはイエス様をわきにお連れして、いさめ始めました。この光景はずいぶん滑稽です。日本語訳の表現もありますが、下手(したて)に出て丁寧にしながら、実はペテロとイエス様の上下が反対になっていますね。この後、イエス様は振り向いていますから、ペテロが引っ張って、イエス様は後ろ向きに脇へと進んだのかもしれません。長老たちはユダヤ人の年配たち、民族のリーダーです。祭司長たちはサドカイ派のリーダーたち、律法学者たちはパリサイ派でしょう。彼らに殺されるということは、ローマの王座はおろか、ユダヤ民族さえまとめきれず、惨めに負けてしまうことになります。《「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」》「イエス様、そんな弱気ではいけませんよ。しっかりしてください」と言わんばかりです。ペテロにはイエス様が弱気になっておられるように見えたのでしょう。
 別の箇所で、イエス様はこのようにも言っておられます。《だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。モーセが荒野で蛇を上げたように(民21:9)、人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:13-15)》人の子が荒野の蛇のように上げられるとは、十字架のことを指しています。十字架はローマ帝国の死刑ですから、そこにかけられるということは、もちろん死ぬことですし、ただ死ぬだけではなく、聖書によれば神に呪われた罪人であると見られること、社会的にみれば犯罪者として捕まり、有罪となったと見られることなのです。ところがイエス様は「人の子は必ず十字架にかけられなければならない」と言われました。十字架にかかることは、計画が失敗し、敵に負けたことではなく、初めから計画されていたことなのです。
 この十字架の計画はイザヤ書に書いてありました。顕著なのは53章です。《まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。… それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。》人々は「キリスト」という言葉を独り歩きさせ、聖書とは全然違うキリストのイメージをもっていました。しかし、イエス様は「人の子」という言葉を選んで用いながら、もう一度聖書に戻らせて、本当のキリストが何をするために来られたのか教えてくださいました。イエス・キリストの十字架は計画の失敗ではありません。永遠のいのちをもつための唯一の道です。
 イエス様が私たちの罪を代わりに負って、呪いの十字架にかかり死なれました。私たちが信じて、イエス様を受け入れるなら、私たちの罪はあの時の十字架で清算され、神との関係が回復するのです。主イエスを信じる人には永遠のいのちが与えられています。これはすべて、2千年前の十字架の死と墓からの復活があったからです。
 イエス様は人々の様子を見て、「せっかく預言者に伝えさせたのに、誰も分かってないじゃないか。もう知らん」とはおっしゃらずに、弟子たちさえ全然わかっていない中、ご自分のいのちを与えるために、十字架に向かわれたのです。私たちなら、約束したことを誰もおぼえていないのに、約束を果たそうと思うでしょうか。しかし、主は誠実なお方なのです。
 イエス様のことばに耳を傾けましょう。ちょっと聞いて、「分かった、分かった」ではなく、注意深く耳を傾けましょう。主はどんなに私たちを愛してくださっていることでしょうか。私たちはまだまだその愛の深みを知りません。イエス様の弟子たちは、福音書を書きながら、当時自分たちが分からずにいたことを思い出していたことでしょう。しかし、誰も気が付いていない中で、イエス様が一心に使命を果たされたことを思い、感謝したに違いありません。私たちもみことばを読むとき、そのような経験をします。
 お祈りします《イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」》
 
 天の父なる神様。ファラオからご自分の民を救い、栄光を表された大いなる主よ。あなたは御子を遣わし、あの出エジプトと同じように、いえ、あの出来事より勝って完全な永遠のいのちに至る救いをもたらしてくださいました。御子イエス様は、イザヤによって伝えられた苦難のしもべ、約束されたメシアです。私たちの背きの罪はイエス・キリストに負わされ、その十字架の血によって完全に解決されたことを信じます。
 御言葉を聞きながら、あなたの救いを誤解している私たちをあわれんでください。住むところや着るもの、食べ物、健康やいのちのことを心配して、救いを求める私たちです。しかし、私たちの救いはあなたにあります。神の国とその義とをまず第一に求めなさいと教えてくださりありがとうございます。私たちが心配していることは、主よ、その心配が起こってくる前からあなたはご存知です。あなたが必要を知っていてくださり、時にかなった助けを備えていてくださるので、心配はいらないのです。
 主よ。私たちはあなたを信じます。あなたに耳を傾け、御言葉に従います。私たちが必要なのはあなたです。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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