2023.3.12主日礼拝「神の怒りをなだめる」ヨハネの福音書19:1-16


次回は王寺教会創立60周年記念の礼拝と祝会があります。歴代の先生の中から懐かしい牧師夫妻が来会されメッセージをしてくださるので楽しみです。マスクも少しずつ外れて早咲きの桜も満開。今は、受難節、イエスさまのお苦しみを思う時ですが、新しい春がやってくる喜びも皆さんと共有しています。(会堂内ではまだほとんど皆マスクをつけています)(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。教会のカレンダーは3つ目のシーズンに入っています。待降節、降誕節を過ぎ、受難節(レント、四旬節)に入り、今はその真ん中くらいです。この後に、復活節があり、教会暦の大きな4つのシーズンが終わります。
 受難節はイエス様が人として、世のあらゆる苦しみを経験されたことと、この世に来られた目的である十字架の受難に向かっていかれたこと、ついに十字架にかかり使命を完了されたことを覚える期間です。またイスラエルの歴史と重ねるなら、民がエジプトで奴隷となり、生まれてくる子どもたちが殺され、その苦しみの叫びが天に届いたこと、またカナンに入る前に荒野を通り、先の見えないその日暮らしを強いられたこと、敵に襲われたこと、そのような期間を思い出すシーズンです。伝統的は断食と祈りによって過ごす時期でもあります。
 イエス様が人として、世に苦しみを経験されたことは、聖霊によって荒野に導かれ、悪魔の試みを受けられた場面に凝縮されています。「パンがあれば問題は解決するだろう」と言う悪魔に、「パンは解決ではない。パンを備えてくださるお方によって、生きているのだ(説教者意訳)」と返されました。「国々の権力と栄光をあげよう」と言う悪魔に、「偽りの権力や儚い栄光を期待して苦難に耐えているのではない。私は神である主を礼拝し、主にのみ仕える」と返されました。「苦しみから神が救ってくれるか、身を投げて試してみよ」と言う悪魔に、「試す必要はない。すでに主はいまも守っていてくださる」と返されました。聖書の中の偉大な人と呼ばれる人たちを見ても、誰一人として、イエス様のように語り、行った完全な人はいませんでした。
 イエス様の信仰と行動は、私たちには難しいように思えますが、実は私たちにとって一番良い苦難への対処法です。苦難の只中を通っておられる方はおられるでしょうか。イエス様はすべてを経験し、あなたの苦しみを知っていてくださいます。あなたを救うために来られたイエス様を信じ、その後をついていきましょう。
 聖書をお開きください。ヨハネの福音書19:1-16(224ページ)【聖書朗読】
  
 聖書は私たちが住む世界で何が起こっているのかを示している啓示の書です。この世界にはあらゆる人の営みがありますが、その中心に神である主がおられることを明らかにしています。神を認める人も認めない人も、それぞれ思い思いに行動していますが、物事は神の働きによって動いています。《すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。》
 旧約聖書の中心におられるお方は主ヤハウェでした。主の姿が全面に現れている場面もあれば、後ろの方に隠れて姿は見えない場面もありましたが、いつも主の業が現れていることが明らかにされました。新約聖書に入りますと、中心におられるお方は主イエス様です。福音書では明らかにイエス様が現れて業をなしておられますし、天に昇って行かれた後も、クリスチャンはイエス様のみ名によって働いています。イエス様に代わる後継者はいません。主イエス様の働き、またイエス様が送られた助け主聖霊の働きが、物事を動かしていきました。
 新約聖書には4つの福音書があります。いずれもイエス様のことばと働きを後世に伝える書物です。4人の著者によって、4つの方向からイエス様を見て、それぞれにイエス様の姿を伝えています。それぞれ独特の角度がありますが、共通していることもあります。どの角度から見ても見えるイエス様の姿です。それはイエス様が十字架と復活のために来られ、定められた時にそれを成し遂げてくださり、天の父のもとへ帰っていかれたということです。
 クリスチャンでない方々は、イエス様の十字架をどのように考えておられるのでしょうか。「ナザレのイエスはローマ帝国の十字架刑にかけられ、死刑にされた。この事実は受け入れるとしても、十字架の霊的な意味とか、それによって人の魂が救われるとか、そういうことは新興宗教を作り出した弟子たちが、自分で考え出して付け足していったのだろう。そのために新約聖書を作り、新しい宗教の教理を上手く整えていったのだ」ということでしょうか。新約聖書を読んでみてください。読んでみた上でも、そのような本に見えるでしょうか。むしろイエスの十字架は何だったのかと怪しむ人に、ひとつひとつ説明しているのです。聖書はあなたと対話しています。ここにはあなたの想像への反論があります。イエス様はたまたま十字架につく結果に終わったのではありません。十字架につくために来られたのです。そうなるように誰かが仕組んだのでもありません。人々はそれぞれ思いのままに動いていました。それでも神の働きは物事を動かし、イエス様は定められた時に十字架にあげられました。
 十字架は死刑です。ですから、意図的に犯罪を犯して、死刑に値する判決を受けたら十字架にかかることができます。なるほどイエス様は十字架にかかるように何か凶悪事件を起こしたのでしょうか。今日の箇所は、そうではないと書いています。
 ここにはピラトとヘロデが登場しています。ピラトはローマ帝国の総督、ヘロデはユダヤ人自治区の王様です。ローマ帝国には法律がありましたから、現代と同じように、犯罪の被疑者は裁判にかけられて、判決を受けてから処罰をうけます。しかし、帝国内では少し複雑が裁判方式がありました。ユダヤ人コミュニティでの判決、自治区の王ヘロデの判決、ローマの地方総督ピラトの判決が順にありました。イエス様は十字架にかけられる前に、3つの裁判にかけられたのです。まず最高法院(サンヘドリン)と呼ばれるユダヤ人の裁判です。いくつもの訴えがありましたが、証言が一致しませんでした。訴えが証言によって裏付けられ判決が下るという通常の方法が通らないので、最後は大祭司カヤパが「イエスは神を冒涜している。証人は必要ない」と言って有罪にしてしまいました。実はこれには裏がありました。ヨハネ11:47-50《祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」》イエス様が逮捕される前から、結論は決まっていました。彼らは神を恐れる気持ちから裁判を行ったのではなく、イエスを放っておいたらローマ政府に楯突いたと言われて神殿も自治区も取り壊されてしまうだろうと恐れていたのです。だから国民を救うための犠牲として、イエス一人をローマ当局に突き出そうと考えたのでした。大祭司の鶴の一声によって有罪が決まってしまった裁判に続いて、ヘロデの判決がありました。ピラトがヘロデにイエス様を調べさせたからです。しかしヘロデは死に値する罪を認めず、イエス様をピラトに送り返しました。その頃、ピラトの妻が「イエスのことで夢で苦しい目にあったので、あの正しい人と関わらないでください」と言ってきました。ピラトも、大祭司たちが妬みからイエスを引き渡したことを知っていたので、イエスを釈放しようとしました。「彼には、死に値する罪が何も見つからなかった」と宣言しました。しかし群衆は「十字架につけろ」と叫び、今にも暴動を起こしそうになったので、ピラトは水を取り、群衆の目の前で手を洗って「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するが良い」と言ったのです。
 こうしてイエス様は罪がないと公に認められながら十字架で殺されました。これ以前にも、イエス様は石打で殺されそうになったことがありました。しかしその時は殺されることがありませんでした。神の時ではなかったからです。イエス様は過ぎ越しの祭のときに、罪の無いものとして十字架にかけられて死ななければなりませんでした。人々の思惑とコントロールできない事の流れの中で、神の計画は定められた通りに進められました。
 イエス様は、この十字架の死が神の怒りの杯であることを知っておられました。それで十字架が迫ってきた時、ゲッセマネの園で御父に祈られたのです。私たちは災難を避けたいと思う時どうするでしょうか。大祭司の妬みを解消しようとするとか、逮捕されないように逃げるとか、裁判で無罪を必死に訴えるとか、そういうことではないでしょうか。しかしイエス様は御父に祈られました。《「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」》私たち人類は滅亡を防ごうと、隕石が近づいたらどうしようか、温暖化したらどうしようか、食料がなくなったらどうしようか、核戦争が起こったらどうしようかと考え、色々と手を尽くしています。しかし、この世界は神の手によって始められたように、神の御手によって閉じられます。その時、生きている人も死んでいる人も神の裁きを受けるのです。神の怒りがついに下る時、私たちはどうしたら良いのでしょうか。これこそ一番重要なことです。イエス様は、神の怒りを身代わりに背負うために、十字架にかけられて死なれたのです。イザヤ書に書いてあります。
 イエス様の十字架と復活は過ぎ越しの祭のときに成就しなければなりませんでした。過ぎ越しの祭は、出エジプトのとき、イスラエル人たちが家の鴨居に傷のない羊の血を塗って、神の裁きを過ぎ越されたこと(出12:23)を記念する時だったからです。神の怒りが、罪のないイエス様に負わされたので、イエス様を信じる者は裁きを過ぎ越されるのです。これが私たちにとって神の怒りを免れる唯一の方法です。
 古代イスラエル王国は、王たちが正義と公正を行わなかったために、主の手によって滅ぼされてしまいました。王は国民から搾取し、世話をしませんでした。自分たちの利益のために力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配しました(エゼ34:4)。彼らは王に相応しくありませんでした。真に王に相応しく方は誰でしょうか。失われた人を捜し、追いやられた人を連れ戻し、傷付いた人を介抱し、病気の人を力づけるお方ではないでしょうか。そのために自分の命を捨てて、ご自分の民を救われる方こそ、王に相応しいではありませんか。しかし群衆は本当の王であるイエス様を「除け、除け、十字架につけろ」と叫び、「カエサル(ローマ皇帝)のほかには、私たちに王はありません」と言ったのです。
 あなたの王は誰ですか。本当の王は、あなたを形造られたお方です。誰よりもあなたを愛し、わたしはここだと語りかけておられるお方です。しかし、あなたが神である主を王として認めないなら、この群衆と同じです。周りの人が叫んでいる状況に飲まれてしまって、お祭り気分で、本当の王であるイエス様を「除け、除け、十字架につけろ」と叫んでしまっているのです。これが罪ではありませんか。神の怒りを受けるべき罪ではありませんか。しかし、主イエス様はあなたの罪と咎をすべて背負い、身代わりとして十字架につけられました。イエス様の救いを受け取り、もう一度、神である主を王として受け入れるチャンスが与えられています。周りの人がどうしているかではなく、あなたがどうするかです。イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人の一人は、正真正銘の犯罪人でしたが、最後の時、イエス様にあわれみを求め、受け入れられました。どんな人でも、悔い改めて、イエス様を信じるなら、十字架の贖いゆえに赦され、もう一度、主の王国の民としていただけます。
 お祈りします《イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」》
  
 天の父なる神様。ひとり子をお与えになるほどに世を愛された主よ。私たちがあなたを愛したのではなく、あなたが私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。あなたの愛がここにあります。十字架の贖いゆえに、あなたの怒りはなだめられ、私たちに永遠のいのちが与えられました。
 あなたを信じた者たちには、永遠のいのちが与えられています。あなたとの関係が回復し、日々の歩みを天の下で生きることができるようになりました。すべてに優っておられるあなたが、私たちを導き、守り、養い、癒やし、救い出して、自由を与えてくださることは、なんと幸いなことでしょう。どんな苦難の中であっても、私たちはあなたを見上げ続けます。私たちの助けはあなたから来るからです。また平穏な日々にあっても、あなたの御国に入れられていることを感謝して歩みます。目にはっきり見えなくとも、あなたの養いによって生きていることを知っているからです。
 私たちの救いはイエス様の十字架と復活によって可能になりました。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。今週も私たちを遣わし、神の愛をのべ伝える者としてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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