2023.2.19主日礼拝「主イエス様を礼拝する」マタイの福音書7章28節〜8章2節


 

今週から早春の壁の飾りがしつらえられました。来月に向けて飾りが増えていきます。

来月3月19日には、王寺教会の設立60周年の記念礼拝、祝会が持たれます。ここの至るまで長い長い間、王寺教会で奉仕して下さった歴代の牧師先生達を思い出しています。
先生方を私たちに遣わし、主に仕え主を礼拝することを教えて下さった神様へ感謝の心を新たにするときです。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。新しい週が与えられ、その始めの日に主を礼拝し、約束された神の恵みを待ち望む時を共にもたせていただいています。先週、天からのマナを与えてくださった主は、今週も必ずマナを降らせてくださいます。感謝と希望持って歩みましょう。

 聖書をお開きください。マタイの福音書7:28-8:2(13ページ)【聖書朗読】
 
 私たちは今、礼拝式の最中です。主を礼拝しています。主を礼拝すること、一生の間また永遠に主だけに仕えることが人の辿り着く先です。では、どなたを礼拝しているのでしょうか。礼拝している行為以上に、誰を礼拝しているかは重要な問題です。なぜなら、神である主は何度も繰り返して、ただ主だけに仕えなさい(礼拝しなさい)と命じられたからです。主は父なる神であり、子である私たちが、人の手で作られた空しいものに拠りすがることを良しとされません。私たちの意志を無視して強制的に縛り付けることはありませんが、私たちを本当に心配して、その道を進んではいけないと教え続けてくださっています。さらに言えば、そのまま進んで崖から落ちてしまっても、主を呼び求める者にはその谷底まで降りてきて救い出してくださいます。こんなにも私たちを愛していてくださる主は、ねたむ神なのです。私たちは誰を礼拝しているのでしょうか。
 今日のメッセージの結論は、「だから私たちは主イエス様を礼拝する」です。今年の標語聖句そのものでもあります。今日集められている私たちにとっては、「え、そんなことわざわざ説明するの?当たり前じゃない?」と思えることでしょう。なぜなら現代では、ほとんどの人が新約聖書から読み始めているからです。「イエス様を信じますか」が最初の質問であり、信仰のスタート地点でした。そしてその後に旧約聖書を読んで理解を深めてきたということです。例えれば、映画の2作目を見てから、1作目を見るようなものです。ですから、聖書が解き明かしている方向と、私たちの信仰の理解の方向が反対方向になっています。この点を頭の片隅に覚えておいていただくと助けになると思います。
 今日は御言葉が語っている方向で見てみましょう。お開きした箇所に律法学者たちと出てきました。彼らはユダヤ教のラビと呼ばれる人たちで、紀元前2世紀頃から現れてきました。旧約聖書の時代が終わってから新約聖書の時代が始まるまで400年間が空白になっています(中間時代)。その頃に現れてユダヤ教を形成していった人々です。
 その中間時代には、預言者が現れず、主のことばがなかったのです。しかし、沈黙を破ってイエス様が来られました。ナザレ出身だったので、人々はイエス様をナザレのイエスと呼びました。イエス様は数々の奇跡を行い、世間を騒がせました。人々はナザレのイエスが何者なのか不思議がり、その正体について議論が巻き起こったのです。ヘロデ王は、自分が処刑したバプテスマのヨハネが黄泉から帰ってきたのだと信じて恐れていました(マタイ14:2)。エリヤやエレミヤが復活したと考えた人もいますし、新たな預言者が現れたのだと言う人もいました(マタイ16:14)。それらはまだ良い方の受け止め方でしたが、律法学者たち(ユダヤ教の宗教指導者たち)はナザレのイエスが悪霊のかしらベルゼブルだと考えていたのでした(マタイ12:24)。
 律法学者たちの頭の中を覗いてみましょう。申命記13:1-3《あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。あなたがたの神、【主】は、あなたがたが心を尽くし、いのちを尽くして、本当にあなたがたの神、【主】を愛しているかどうかを知ろうとして、あなたがたを試みておられるからである。》イエス様が奇跡を行っていることは誰の目にも明らかなことでした。目の前でそれが起こるわけですから否定しようがありません。では、この奇跡を行い、神の国を宣べ伝えている人は一体誰なのか。ラビたちはこう思いました。「ああ、こいつは悪霊のかしらベルゼブルだ。主ヤハウェは私たちの信仰を試しておられる。ナザレのイエスに惑わされてはいけない(マタイ27:64)」
 今日開いた箇所は、山上の説教が終わったところです。群衆は山上の説教を聞いて驚きました。イエス様が権威ある者として教えられたからです。それまで神の人である預言者などは、必ず主のみ名によって語っていました。預言書は主のことばを預かって、民に伝達する人です。預言書自身の言い回しで伝えることはできましたが、それは主から発信された言葉であり、預言書の言葉ではありません。ところがイエス様は「わたしはあなたがたに言います」と繰り返し語られました。ついに7:23では、イエス様が裁きの日に裁きをくだされる権威あるお方であることをはっきりと語られています。
 イエス様が預言者のように、しかし預言者以上のお方として語られたことは、今日の箇所の前に書いてあります。イエス様が権威ある者として行われたことは、後に書いてあります。イエス様はツァラアトの人に手を伸ばしてさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」とおっしゃって、きよめられました。「神のみ心だ」と言ったのではなく、「わたしの心だ」とおっしゃったのです。また触るとうつるはずのツァラアトを、触ってきよくされました。続けて、百人隊長のしもべを言葉だけで癒やしたこと、嵐の湖を叱りつけて鎮めたこと、悪霊を豚の群に送られたこと、中風の人の罪を赦したこと、長血をわずらっていた女性を救われたこと、会堂司の娘をよみがえらせたことと、権威あるイエス様のわざが記されています。またイエス様が人の心を正確に読んでおられることも、ここから分かります。
 別の場面では10人のツァラアトを癒やされ、一人が帰ってきて、神をほめたたえながら、イエス様の前にひれ伏して感謝している姿を見て、この人は神をあがめていると言っておられました(ルカ17:18)。イエス様にひれ伏して感謝することと、神をほめたたえることに矛盾はないようです。
 イエス様の時代に至るまで、人々はヤハウェと呼ばれる神である主が三位一体のお方であることを知らなかったのです。主は天におられたので、気付くことはありませんでした。天の父が御子を地に遣わされたので、主が天におられて、地にもおられるという状態になり、隠されていた主の姿がひとつ明らかになりました。主は三位一体のお方だったのです。
 イエス様は「わたしに従って来なさい」とおっしゃいました。申命記でモーセが警告したように《「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」》とイエス様は言ったのでしょうか。人々を惑わしたのでしょうか。もしナザレのイエスが、わたしたちが知らなかったほかの神々であるなら信じてはいけません。しかし、イエス様を知れば知るほど、主イエス様はわたしたちが知っているアブラハム、イサク、ヤコブの神だとはっきりするのです。当時のユダヤ人たちは、イエス様を十字架にかけてしまう前に十分な時間がありました。数々のしるしによって、主ヤハウェの約束が次々に成就していることを見ました。神の御霊が鳩のように降って来るのを見て、天からの声が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と告げたことを聞いていました。彼らは自らの罪に対して言い訳はできません。私たちはどうでしょうか。
 神をほめたたえている私たちは、そういうわけで主イエス様を礼拝するのです。神である主の栄光をほめたたえることと、主イエス様をあがめることに矛盾はありません。主イエス様は、いにしえより神の民が知っている主です。
 お祈りします《イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。》
 
 天の父なる神様。私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い、あらゆる慰めに満ちた神である主よ。あなたの栄光をほめたたえます。
 今日も私たちを礼拝の場に集めてくださりありがとうございます。あなたの恵みに心を留め、感謝し、あなただけに拠り頼む信仰を新たにしております。私たちは主イエス様のみ名を高く掲げ、心から賛美し、礼拝します。御子をほめたたえることは、御父をほめたたえることです。私たちは主イエス様の心によって、罪がゆるされ、救われ、きよくされました。イエス様、あなたは先祖たちが知っていた神である主、そして私たちの主です。
 あなたを更に深く知らせてください。あなたを知ることは私たちの喜びです。世の終わりまでいつもあなた方と共にいますと約束してくださったことを今週もおぼえています。今週もあなたの招きに応え、あなたに従い、ついていきます。あなたのみおしえをおぼえ、右にも左にもそれず、それを守ります。日々の歩みを祝福し、呪いの道から遠ざけてください。
 主イエス様のみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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