2022.12.25クリスマス礼拝「神の良い知らせ それがクリスマス」ヨハネの福音書1章29~34節



今年はクリスマスの日に日曜日が重なり、クリスマス礼拝を行うことができて感謝!会堂の蝋燭は5本目になりました。暖かな日差しは神様の祝福をいっぱいに感じます。
礼拝音楽では、ゴスペルチームによる”OH HAPPY DAY"が声を限りに歌われ、クリスマスの喜びの空気が一気に会堂内に溢れ出します。救い主イエス様が地上に来て下さった喜び。
お説教では、3人のタイプの違う人たちに起こったイエス様の救いについて語られました。それぞれ3つの讃美歌も紹介。
どこかに牧師の実体験も入っているのかなあと想像しながら聞きました。
罪や失敗を許してくださる神様のもとに全てを委ねて、新しい年の実りある日々にさあ踏み出します。主とともに。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師
クリスマスおめでとうございます。主イエス様の御降誕をお慶び申し上げます。ついに長く長く待ち望んだキリストが地の上に来てくださいました。何と嬉しい日でしょう。Oh Happy Day!今日は喜びの日です。パーティーがあるから嬉しいのではありません。プレゼントが貰えるから嬉しいのではありません。会堂がキラキラしているから嬉しいのではありません。音楽が嬉しくさせてくれるのではありません。イエス様が来てくださったから、私たちは嬉しいのです。私たちが歌うのは、飾るのは、贈り物をあげたいほどに満たされているのは、共に集まっているのは、イエス様が来てくださった喜びが溢れて、表れ出てきたものです。どうかクリスマスの美しさを目にした時、そこで考えを止めないでください。いったい何が、この人たちをこれほどまでに嬉しくさせているのだろうか。その源泉を知っていただきたいのです。
 またクリスマスは降誕節の始まりの日です。教会のカレンダーはイエス様の一生を記念しながら、半年ほど続きます。待降節という前奏が終わり、主要部(Aメロ)が始まりました。降誕節、受難節そして復活節があります。今年もイエス様の生涯を讃える歌が始まりました。朝焼けから日が昇りました。新しい年の幕開けです。We wish a merry Christmas and a happy new year♪
 聖書をお開きください。ヨハネの福音書1:29-34(176ページ)【聖書朗読】
 
 
 クリスチャンはクリスマスが嬉しくて仕方がありません。《世の罪を取り除く神の子羊》イエス様がついに来られたからです。それの何が嬉しいのか、不思議に思っていらっしゃる方のために、3つのことをお話いたします。
 1.世の罪を取り除く子羊が来られたのだから、運命は力を失い、希望が生まれました。あなたはもう諦めなくて良いのです。
 ある所に、ある一人の人がいました。その人は、まだ若く20代の学生で、学校の寮に他の学生たちと一緒に住んでいました。学校の寮に住んでいるわけですから、学期中は寮に滞在し、学校が休みに入ると、それぞれ実家に帰るという人がほとんどです。ところがその人は、学期中であっても頻繁に実家に帰るといって次の日に帰ってくる不思議のところがありました。ある時、友人の一人がひょんなことから、その人が何をしているのか気付いてしまいました。その人は実家に帰っていたのではなく、ある教授のところに行っているのだと知ったのです。その教授には家庭があると、みんな知っています。友人はとても心配になりました。こんな事、幸せな結果になるわけがないし、止めさせないと。そう思って、その話を切り出すことにしました。「ねぇ。最近あの人の所に行っているの?どうして。何があってこうなったの?」その人は、友人が心配してくれていることをよく分かっていたので、事情を話してくれました。それからいろいろと互いに話しました。友人は言いました。「でも、それは良くないことだと思う。」その人は、これが罪深いことだと知っていると答えました。「でも。。」そう言って、私の人生はこうなってしまった。これは神様が私に与えた運命と思っていると続けました。罪深いことをしていると知っているけれど、これ以外に私の人生はなかった。悲しいけれど、これが私に与えられた人生なんだ。。。
 同じように感じておられる方はいませんか。「なんとなく流されているうちに、罪を重ねる人生になってしまった。でも、これが神が私に与えた運命。これが私の汚れた居場所だ」と。誰がそんな嘘を教えたのですか。それは神が与えた運命ではありません。そして世の罪を取り除くイエス様が来られたのですから、その運命は、もはや力がありません。聖書には神である主のことばが書いてあります。主は言われます。《立ち返り、あなたがたのすべての背きから身を翻せ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。…なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。(エゼ18:30-32)》あなたの運命に力はありません。主イエス様が来られたので、希望があります。
 クリスチャンはイエス様を信じて、運命とサヨナラした人々です。私たちは喜んでいます。私の人生はあの汚れた場所にしか無いと信じ込んでいたのに、そうではなかったからです。神の家に迎えられ、子として、全ての良いものが与えられています。
 古くから歌われている讃美歌があります。このような讃美歌です。〚♪ また主は疲れし、世びとに告げぬ「罪をふりすてて、われにしたがえ」〛
 
 2.世の罪を取り除く子羊が来られたのだから、悪に振り回される人生は終わることが確定しました。
 先程とは別のお話です。ある高校生がいました。飛び抜けてというわけではないのですが、少しキレやすいところがあり、友達もどちらかといえばワルのグループという人です。言い争いになるとついつい手が出てしまう。その学校には度々、嫌がらせをしてくる、下の学年の生徒がいたのだそうです。ある日、廊下ですれ違った時、肩がぶつかり、何かを呟かれたような気がした。その瞬間、キレてしまって、殺してやると思いながら今までになかった程にボコボコに殴ってしまったのです。それが問題になり、先生や保護者を交えて話し合いとか、その後色々とありました。でも、ぼーっとして何が起こっているのか分からないような感じでした。こんな事でしたけれども、その学校には何でも話を聞いてくれる先生がひとりいたのです。「おう、どうした」先生が話かけてくれました。「うん、まぁちょっと」と話し始め、しばらく話を聞いてもらった後で、なぜか話すつもりでもなかったことが口から出てきたといいます。「実はこんな自分が嫌なんだ。親に殴られる時は、何したって殴ることはなだろと思って本当に嫌だ。でも自分も同じことをしてる。こんな人間を好きな人はどこにもいない。先生だって仕事でやってんだろ。」
 このような事例は多くの場合、親子関係に問題があるそうです。乳幼児期に親から十分に愛されていない、受け入れられていない子どもたちは自分をコントロールできず、生きづらさを抱えることがあります。聖書には何と書いてあると思いますか。神である主はこう言われます。《わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)》本来、親たちは神様からあなたの親になるために選ばれて、あなたが高価で尊いこと、あなたが愛されていることを、あなたに伝えるためにいるのです。すべての、権威を与えられている人たちも同様です。先生たちや、会社の上司たちもそうです。ところがその人たちが、神様から与えられた役割を担わず、あなたが高価で尊いことを伝えられないので、主はその役割を取り上げ、「わたしが直接あなたに、愛されていることを示す」とおっしゃいました。イエス様は《失われた者を捜して救うために来た》のです。
 クリスチャンはイエス様を信じて、心に空いた穴を神様の愛でいっぱいに満たしてもらいました。私たちは喜んでいます。もはや人から受け入れられることを求め続けなくても良くなりました。親たちだって、いろいろ大変なんだと余裕を持って理解できるようになりました。そこには負の連鎖はありません。
 比較的、最近の讃美歌にこのような歌があります。〚♪ きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている〛
 
3.世の罪を取り除く子羊が来られたので、死の恐れは去り、いのちが与えられました。
 もうひとつの話をしましょう。この3番めの人は、神様を尊敬している人でした。一生懸命に神様のために働く気持ちをもっていました。また自信もありました。若い人の特権とも言えるでしょう。私も世界を変えるために何かができると思っていました。聖書を読み、正しい生き方を学び、人を助けることを心がける人でした。ところがその人自身が気がついていない考えが、心の中にありました。「私は自分を救うために、また人を助け出すために、あるいは神を喜ばせるために、自分の力でそこそこのことが出来る」という考えです。そしてある時、その人の行動が裏目に出てしまいました。助けようと思ったのに傷つけてしまったのです。どうしてこうなってしまったのか。そうして落ち込み、聖書の話を思い巡らしていた時、神を尊敬していると言いながら、神に聞き従おうとしない生き方が罪だと分かりました。これはイエス様の弟子のペテロやパウロが経験した出来事です。神様の存在を認めようとしない人はもちろん、いくら神様の存在を認めている人であっても、神様との関係が壊れていて、主に聞き従おうとしないなら、それは罪だと聖書は言っています。
 《罪の報酬は死です。(ローマ6:23)》人を創造してくださった神様との関係が壊れてしまったら、体は朽ちていくしかありません。創造の時から、人の体には成長し、回復する力が備わっています。体の細胞は分裂しコピーして増えることができるのです。ところが分裂するたびにDNAが短くなり、やがて分裂できなくなってしまいます。老化と呼ばれる減少です。最近の保健や医療によって、老化はずいぶんと遅らせることができました。それは、もし新陳代謝が続けば、人の命は消えていかなくて済むことを暗に示しています。人の命には限界が設けられています。神様との関係を損なってしまったからです。罪の結果です。しかし世の罪を取り除く子羊イエス様が来られたので、永遠のいのちへの道が開かれました。
 クリスチャンはイエス様を信じて、永遠のいのちをいただきました。だから私たちは喜んでいます。イエス様の方から、仲直りしようと手を差し伸べてくださったのです。やがてこの体を脱ぎ捨てて、新しい栄光のからだ、復活のからだを与えられます。
 このような讃美歌があります。〚♪ 十字架 十字架 そこに我の罪も共に死ねり〛
 
 クリスマスは喜びの日です。イエス様の弟子であるクリスチャンたちは声を合わせて伝えています。《見よ、世の罪を取り除く神の子羊。》イエス様があなたのために来られた。これか神の良い知らせ、それがクリスマスです。イエス様はあなたを招いておられます。あなたはイエス様の招きに答えますか。
お祈りいたします。《ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。》
 
 天の父なる神様。愛とあわれみの主。約束をおぼえておられ、真実の愛で私たちを愛し続けてくださる主よ。世の罪を取り除くためにひとり子を遣わしてくださりありがとうございます。このクリスマスの朝に、私たちは声を合わせてあなたのみ名を賛美いたします。
 もはや私たちを縛る運命は力を失い、あなたにある希望が残りました。この希望は失望に終わることがありません。あなたは私たちに「立ち上がり歩きなさい」とおっしゃいました。「ではやってみよう」と思った時、足とくるぶしが強くなり、立ち上がり踊ることさえできるようになったのです。なんという喜びの日でしょう。
 また、世の罪は私たちを苦しめ、人生を難しくさせ、偽りの愛で支配します。しかし、あなたは悪を裁き、預けていたご自分の子どもたちをみ元に帰らせてくださいました。あなたのみ翼の影に私たちの隠れ家があります。「きみの存在が、わたしにはどれほど大きな喜びか教えてあげよう」と天の父は語りかけてくださっています。
 さらに、神の子羊イエス様は私たちの罪をその身に背負い、身代わりとなって、私たちから取り除いてくださいました。ハレルヤ。これ以上に何が必要でしょうか。あなたと私たちを隔てていた幕は上から下まで真っ二つに割かれ、イエス様のみ名によって、いつでもあなたと会話ができるようになりました。この永遠のいのちをありがとうございます。
 私たちは心から喜んでいます。あなたが本当の喜びを与えてくださったからです。
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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