2023.1.1元旦礼拝「目に見えないけれど」Iペテロの手紙1章3~9節


今年は元旦に主日礼拝を持ちます。これは滅多にないことで、気持ちが引き締まる思いです。
新しい年に向けて教会の聖句と標語が決められました。教会としても、個人の信仰生活においても、これを目標として日々過ごしてまいります。今年もよろしくお願いします。(Rebecca)
[礼拝説教]
 中尾敬一牧師

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。今年は聖日と元旦が重なりました。こうして礼拝の喜びをもって元旦を過ごすことができるのですから、素晴らしい一年になるのではないかと期待しています。

 今日は教会の暦によると、降誕節の真ん中になります。イエス様がバプテスマのヨハネの預言とともに、公に姿を現されたことを記念する日です。イエス様は赤ん坊としてマリヤから生まれ、人として、30年余り、あらゆることを経験されました。荒野での40日間の試練は、イスラエルの荒野での40年間を示しています。人が経験する人生の苦悩をイエス様も通られたということです。そして、ついに公に姿を現し、ご自分のことばと業によって、神の国を宣べ伝え始められました。私たちが今年、通っていくであろう道は、主の知らない道ではありません。主と共に今年も歩んでいきましょう。
 今年、主が与えてくださった御言葉(標語聖句)はIペテロの手紙3:15《キリストを主とし、聖なる方としなさい》です。この御言葉に入る前に、その背景を確認したいと思います。
 Iペテロの手紙は、イエス様の弟子のペテロがローマから、帝国内の色々な所に点々と住んでいるクリスチャンたちに向けて送った手紙です。イエス様の復活と昇天から30年ほど経っている時代だと思われます。30年前と言えば、日本では細川内閣が発足した年です。先日話題になったサッカーでは、ドーハの悲劇がありました。法隆寺が世界遺産になったのも30年前です。イエス様の十字架から、そのくらいの年月が経った頃の手紙です。キリスト教迫害の時代で、クリスチャンたちは試練の中を通っていました。今から読みます箇所に「あなたがた」と出てくるのは、その時代を生きていたクリスチャンたちのことです。それでは、聖書をお開きください。Iペテロの手紙1:3-9(465ページ)【聖書朗読】

 ペテロが語っている相手は、1節《ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニア》のクリスチャンたちです。今のトルコ領土に点在していた教会に送られ、回覧されました。イエス様の十字架から30年ほど経っていますので、ペテロは年齢を重ねていて、新しい時代のクリスチャンたちに語りかけているという状況です。
 当時のクリスチャンたちは、イエス様の弟子たちを目の前に見ることができましたが、イエス様を直接見たことがありませんでした(8節)。生きている時代が少しズレているのです。イエス様が何を教え、何をなさったのか、生き証人のことばを聞いていましたが、イエス様を目で見ていませんでした。この点で、私たちは当時のクリスチャンたちと非常に似ています。私たちもまた、イエス様の弟子たちのことばを読んでいます。すなわち新約聖書です。新約聖書に含まれている書物は、イエス様の弟子たちによって書かれた、あるいはその証言を元に編集されたものです。弟子たちはイエス様の教えを曲げることなく人々に伝えました。それで、これは主イエス様の教えとして、聖霊の一致をもって教会に受け入れられ新約聖書として今日まで残っています。現代の私たちも、イエス様の生き証人のことばを読んでいます。しかし自分の目でイエス様を見たことがないし、今も見ていません。
 実際、人類の歴史を振り返ると、主を間近に(物理的に)見た人たちは本当に限られた人々だけでした。新約聖書には500人が復活のイエス様とお会いしたと書いてありますが、天地創造の時から数えて、主を信じ、主に従ってきた人の数はどれだけでしょうか。500人は非常に限られた一握りの人たちです。旧約時代の人々も、主の臨在を火や雲の中に見ることはありましたが、主を見ることがありませんでした。彼らは目に見えないお方を信じ、目に見えないお方に従ったのです。
 旧約時代のイスラエル人たちは、どういう仕組みか分からないけれど、主があわれみのお方であることを知っていました。なぜか分からないけれど、主は民をあわれんで、背きの罪を赦し、救ってくださることを知っていました。その謎はイエス様の十字架と復活のことでした。御子の贖いのゆえに、主は背きの罪を赦し、あわれんで救ってくださるのです。旧約時代の人たちは謎の実態を知りませんでしたが、主を信じて、主に立ち返り、救われました。ですから、旧約時代の民も、ペテロの手紙を読んだクリスチャンたちも、現代の私たちも、みな同じく、目では見たことがないけれども主を愛し、見ていないけれども信じていたのです。みんな同じです。
 イエス様の弟子たちでさえも、目に見えないお方を信じる信仰を試されました。ガリラヤ湖を舟で渡ろうとした時、嵐に遭ったのです。その時イエス様は舟に乗っておられませんでした。一晩中、波と格闘し、明け方になった頃、イエス様が湖の上を歩いて弟子たちのところに来られました。弟子たちは「幽霊だ」と思ってびっくりしてしまいました。イエス様は弟子たちに言われました。《「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイ14:27)》このように、主は意図的に姿を隠し、見えなくなられる方でもあります。
 主は誰の目にも明らかに現れてくださったお方でした。それが主イエス様です。主は現れてくださった神ですので、宗教的な概念ではないし、第6感で感じられる気がする何かでもないし、幽霊のような寝ぼけた人が見間違えたものでもありません。確かに存在しておられ、アブラハムからイスラエル民族を生み出し、エジプトから救い、ダビデ王国を建て、バビロン捕囚から救い、ついに救い主としてマリヤから生まれてきてくださった、あのお方です。そのイエス様は復活の後、天に昇っていかれ、見えなくなられました。見えなくなられましたが、いなくなってしまったのではありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束してくださった通りに、目には見えませんが、私たちといつも共にいてくださいます。
 さて、このような背景の中でIペテロの手紙は書かれました。それでは今年の標語聖句を開いてみましょう。Iペテロの手紙3:14-15《たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。》このみことばには2つのことが言われています。①「キリストを主としなさい」②「キリストを聖なる方としなさい」この2つです。ひとつずつ説明いたします。
 ①「キリストを主としなさい」
 この手紙はペテロの手紙です。ペテロといえば、イエス様の12弟子の中で、最もイエス様に近い弟子でした。変貌山にイエス様と一緒に登った3人の弟子のひとりでした。ペンテコステの日に12人を代表して説教をしたのはペテロでした。ペテロはイエス様の一番弟子と言っても過言ではないでしょう(イエス様は弟子たちに番号や優劣をつけたりしませんでしたが)。ところがイエス様の弟子はとても不思議なのです。普通ではありません。「先生の弟子」は普通、どうなるでしょうか。当時も今も、「先生の弟子」は次の先生になるのが普通です。後継者になるということです。ところがペテロはイエス様の後継者にはなりませんでした。当のイエス様は天に昇っていかれ、人の目には見えないのです。しかも、当時のクリスチャンたちは一度もイエス様を見たことがありませんでした。彼らは日々襲いかかってくる迫害に苦しんでいたのです。そんな状況の中で、ペテロは「私がイエス様と最も近くにいて、その業とことばを直接見聞きした者だ。だから私がイエス様の正当な後継者なのだ。私がいるからあなた達は大丈夫だ」と言わずに、こう言いました。「キリストを主としなさい。」
 これは今日の私たちにダイレクトに語りかけることばです。私たちも主イエス様を自分の目で見たことがありません。今も見えていません。 みなさん、どうでしょうか。イエス様が目に見えないので、まるでイエス様がここにおられないかのように振る舞っていることはないでしょうか。イエス様が目に見えないので、別の目に見える何か(誰か)を、イエス様の代わりにいてくれたら助かる存在としていないでしょうか。この年、主は私たちに語っておられます。「キリストを主としなさい」
 ②「キリストを聖なる方としなさい」
 「聖なる方」これは聖書の専門用語です。他に言い換えられる言葉はありません。私たちの日常にはない言葉です。「聖」これは神である主のご性質そのものを指す言葉です。神様のご性質を丸で表すなら、丸全体が「聖」です。その中に、「愛」「正義」「誠実」「恵み豊か」「憐れみ深い」等といった様々なご性質が含まれています。そして、「聖」は他のどのような存在とも全く違う、他と切り離されたものという意味があります。同列に分類できるものがない。他と混ぜることができない。他と重ねることができない。全く唯一の存在であるということです。「キリストを聖なる方としなさい」とは、すなわちイエス・キリストだけに依り頼みなさいという意味です。「イエス様にお祈りしといたけど、もし足りんかったら困るし、あっちの神様にもおねがいしとこ。あと、ペテロ先生にも贈り物しとこう。お金も貯めて保険にしておかないと」… それは駄目だということです。だけど、当時のクリスチャンたちは迫害に遭っていたのですよ。目の前に現実の問題があるのに目に見えないイエス様だけに拠り頼むのですか。_ そうです。「キリストを聖なる方としなさい」
 今日の私たちを取り巻く状況は、命を狙われる迫害こそありませんが、なかなか厳しいものです。何度も申し上げている通り、牧師の人数が減少しつづけています。何十年か後に大変になりますという話ではありません。この年にはもう大変なことになると言われていた年は過ぎてしまい、予想を超えて持ちこたえている状態です。重大な病や高齢を押してまで耐えてくださっている先生がおられるからです。ここ数年は年度途中での休養や引退が多発しています。限界を超えて頑張っていた先生方が本当に限界になったということです。毎年の任命は、どういうビジョンで任命するか以上に、この現状にどう対処して任命するかということがより重くなっていることでしょう。
 全く新しい時代を目前にしながら、私たちの群れとこの小アジアの教会の状況が重なってみえます。そして祈りのうちに、この御言葉が響いてきたのです。《キリストを主とし、聖なる方としなさい。》目に見えないイエス様が私たちの群れのかしらです。私たちの群れのリーダーは目に見えないけれども、確かにここにおられる主イエス・キリストの他にいません。私たちも新しい時代に入る前に、しっかりと基礎を抑え、備えていきましょう。
 主イエス様は天に昇っていかれ、目に見えなくなられましたが、それは意図的なものです。残された弟子たちは、イエス様の後継者を立てませんでした。イエス様はいなくなられたのではないからです。教会のかしらは最初からずっと変わらずイエス様だからです。弟子たちはいつも「主イエスのみ名によって」働きました。そしてイエス様が目に見えておられた時と同じことばが宣べ伝えられ、同じ業がなされました。使徒の働きにその記録があります。私たちは今年、このことをやってみましょう。今年の標語を発表します。
 今年の標語は「 目に見えない主イエスの御名によって働こう 」です。
 古くから私たちが歌ってきた讃美歌を思い出しましょう。ご存じの方は共に口ずさんでください。[♪ 目には見えねども わがそばにまして 常に助けたもう 主ぞなつかしき 所を備えて 我を待ちたもう 君にまみゆる 日ぞなつかしき]
お祈りいたします。《キリストを主とし、聖なる方としなさい》

 天の父なる神様。私たち一人ひとりの心を形造り、わざのすべてを読み取る方。まことに私たちの心はあなたを喜び、私たちは聖なる御名に拠り頼みます。
 2023年の最初の日を主の日に合わせ、天の喜びを私たちに与えてくださったことをありがとうございます。この年も私たちはあなたと共に歩みます。御言葉を与えてくださりありがとうございます。御子は天に昇っていかれましたが、聖霊が私たちのうちにくだり、共にいてくださっています。三位一体の主であるあなたは、目には見えませんが、いつも私たちと共にいてくださいます。どうか目に見える波を恐れて、あなたから目を離してしまわないように助けてください。目に見える何かや目に見える誰かを、あなたの代わりにしてしまう誘惑から守ってください。無意識でそうしてしまうこともあるかもしれません。私たちに気付きを与えてください。波を見てペテロのように水に沈んでしまいそうになる時、すぐに手を伸ばし、私たちをつかんで救ってください。
 この年もすべてを御手に委ね、あなたのみ名によって共に働きます。この群れを顧みて、みこころのままに導き、用いてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages