2022.11.27アドベント第一礼拝説教題「生きよ」エゼキエル書18章30~32節

 

              (写真は教会堂の玄関前)
いよいよアドベントの時期がやってきました。今からクリスマスまでの時期、尊い神の御子イエス様が私たち人間を救うため、地上に人として生まれて下さったクリスマスの出来事を思い巡らし、心から感謝する最も大切な時期に入ってきました。寒さも少しずつ増し加わってきています。
2022年前の馬小屋での誕生はなんと過酷なものだったでしょう。
ウクライナのことを思う時、想像に難くありません。(Re)

[礼拝説教]中尾敬一牧師
おはようございます。今年も待降節がやってきました。およそ半年に渡る教会カレンダーの始まりです。中世の教会で作られた教会暦はイエス様の誕生を待つ待降節(アドベント)と、誕生を記念する降誕節、十字架を覚える四旬節(レント)、そして復活を祝う復活節の4つのシーズンがあります。11月末に始まって、6月初めに終わる暦です。とはいえ、日本のプロテスタント教会ではそれほど厳密に教会暦を導入しているわけではありません。例えば待降節と降誕節はほとんど混ざってしまっています。また語られるメッセージは時に十字架や復活まで全部込みです。元々の待降節では、イエス様の誕生を待ち望んでいるわけですから、華やかな行事は行わず静かに過ごします。そして24日の日没後に降誕節に入り、クリスマスのお祝いを始めます。降誕節は1月の前半まで続きます。「We wish you a merry Christmas and a happy new year」と歌うのは新年も降誕節の途中でやってくるからです。今の日本のプロテスタント教会ではアドベントもクリスマスも混ざっているような1ヶ月を過ごし、25日にクリスマスをお祝いして終了ですので、本場の人からすると今からじゃないかという時に終わってしまいます。でも、仕方がないのです。ヨーロッパの都合で大昔に日程が決まったのですから、日本には日本の暦があるわけで、年末の大掃除とか、家族親戚が集まる元旦、新年の行事とかの前に終わっておく必要があります。大切なことは日程ではなく、行事の形式ではなく、「待降、降誕、十字架、復活」を忘れないようにということです。共にイエス様の生涯を思い出しながら、その出来事が私たちの人生にもたらした意味を確認し、信仰を更新して行きたいと思います。

 さて、今日から始まるのはアドベント(待降節)です。イエス様の一生を思い出すと言いながら、イエス様の誕生から始まらないで、それを待つシーズンから始まります。不思議なことですね。その理由は、この世界の歴史がイエス様の誕生から始まったのではなく、救い主を待ち望むことから始まったからです。聖書も主イエス様の誕生から始まったのではなく、その3分の2は救い主を待ち望んでいるのです。
 イエス様が地上に生まれてくださった出来事は新約聖書のマタイの福音書とルカ福音書に書いてあります。クリスマスに神様が何をしてくださったかを見るには、福音書を開いたら良いのです。しかし、その日を迎えるにあたって、主が何を思っておられたかを知りたいと思ったら旧約聖書を開いてみることです。
 今日の聖書箇所をお開きください。エゼキエル書18:30-32(1443ページ)【聖書朗読】
 
 今年も王寺教会ではクリスマス運営委員会を何度か重ね、クリスマスの準備をしてきました。今年のテーマは何が良いだろうかと話し合いました。そして決まったのが「神の良い知らせ、それがクリスマス」というテーマです。委員からは、特に人生について色々と考えている若い人たちに神の愛のメッセージを届けたいという意見が出ていました。
 神様はいったいどのようなお方なんだろう。そう考えたことはありますか。いくら自分で考えてみても、神様は目に見えないお方ですから、想像するしかありません。私が想像したことは、その通りなのでしょうか、実際とは違うのでしょうか。それはどれだけ考えていても分からない問いです。しかし、その答えを見出だせない世界に、神である主は現れてくださいました。イエス様の弟子のヨハネという人は、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。(Iヨハネ1:1-2)」と証言しています。神様が現れてくださって、ご自分がどのようなお方で、何をしておられるのかを示してくださいました。天から介入があったことは歴史上に刻まれ、その結晶が聖書です。この聖書は哲学書ではありません。この世界に起こっていることを伝えているのです。聖書を読めば、神様がどのようなお方で、何をしておられるのか知ることができるのです。
 その聖書から分かることは、「神は愛である」ということです。創世記にはこの世界が始まった頃の話が書いてあります。神である主は、この世界の全てをお造りになり、最後に人間を創造して、この世界に置いてくださいました。そして、あとは野となれ山となれとしたのではなく、この世界を人とともに開発していかれたのです。ここに神の愛を見ることができます。聖書は神と人の関係は親子の関係のようだと言います。イエス様がそう教えてくださいました。神様は作品を作ってガラスケースに入れて鑑賞したいのではなく、料理を作って写真を撮りインスタに載せたいのではなく、子供と共に材料を集め、共に造り、共に出来たものを味わい、そうして親子の関係を喜ばれるお方なのです。神は愛です。それゆえに、子供にはいつも自由があります。何を選ぶのかな。これもまた親の楽しみです。
 旧約聖書は古代イスラエル人という神に選ばれた民族の話です。彼らは世界のステージに立つように選ばれ、私たちがすっかり忘れてしまった、人と神様との関係を世界に示す役割を担いました。彼らはこの世界に実在した民族です。それで聖書がここに今も存在しています。彼らはある国で奴隷として苦しんでいました。主は彼らを奴隷から救い出し、贖ってくださいました。その時に彼らが受け取ったものがあります。その一つはひとりひとりの所有地でした。ひとりひとりの名義の土地です。自分の名義であるということは、自分のしたいことをすることができる自由な土地だということです。ここでもまた、神様は子である人々との関係を喜ぼうとされていました。神は愛であり、ひとりひとりの存在に心を留めておられるのです。理想郷を造り、笑顔の集合写真を撮って、飾っておきたいのではありません。それはロボットの世界ではありません。そこで神の民が主と共に自由に集め、作り、味わうことを望んでおられました。
 ところが古代イスラエル人は主を忘れてしまいました。自由を主と喜ぶために使わず、自分の満足のために使ってしまいました。古代イスラエル人だけではありません。実に私たち人類はみな同じ過ちをおかしたのです。人が何を作り上げたからといって、それに何の意味があるでしょうか。作品に意味があるのではなく、神の愛に意味があったのです。みなさん、役に立たない物が家にあったとしたらどうしますか。役に立たない物は捨ててしまうでしょう。こうして古代イスラエル人は神に捨てられて、他の国に滅ぼされることとなりました。
 しかし、役に立たない物でも、捨てない時がありますね。どんな時でしょうか。_ もしかしたら、また役に立つかもしれないと思うときです。今日開いた箇所で、古代イスラエル人たちはそのような状況にありました。その頃、彼らはもうほとんど諦めていました。彼らの王や首長たちがすでに敵国に捕らえられていなくなってしまったからです。残った人々は「もうダメだ、もう死を待つばかりだ」と思っていたのです。もはや彼らが死ぬことは運命であり、もう変えることはできないと考えていました。そのような民に主は言われたのです。「あなたがたの死は運命ではない。今、あなたは生きるか死ぬか選ぶことができる」と。30節《立ち返り、あなたがたのすべての背きから身を翻せ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。》この言葉は、古代イスラエル人に語られたことばですが、同時に、今日あなたに語られていることばです。あなたの死は、運命ではないのです。
 今日の若者たちは、今まで以上に人生を見通しているのではないかと思うことがあります。現代ではあらゆる世代の人がインターネットで発信していて、それをいつでも受信することができます。先日は欽ちゃん(萩本欽一さん)がYouTubeで発信をしていることがニュースになっていました。それを布団に寝転びながらでも、通学電車の中でもスマホでいつでも見れる。そんな時代です。30代の人はこう言っている。50代の人はこう言っている。80代の人はこう言っている。それを見聞きしながら、人生はだいたいこのような感じかと思っていることでしょう。こうして、そうして、そして人生を終えていくと。そうしてこう言うのです。「まぁ、死ぬ時に満足できる人生だったら、それで良いかな。」それが私の運命だと思い、そこで諦めてしまっています。とにかく、死んで終わりなのだと。まるでかつてのイスラエル人のようです。しかし、人が死んでいくのは運命ではありません。主はあなたに言われます。《なぜ、あなた…は死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。》
 この古代イスラエル人の出来事は(バビロン捕囚と言いますが)、主イエス様の誕生に繋がっています。「なぜあなたは死のうとするのか。立ち返って生きよ。」この思いが現れたのがクリスマスなのです。ヨハネの福音書3:16には、このように書いてあります。《神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。》あなたには永遠のいのちが用意されていて、死んでいくことは運命ではありません。今、あなたは永遠のいのちを受けるか、いつか人生を終えて滅んでいくかを選ぶことができます。
 2020年程前、神である主イエス様は、聖霊によってマリヤから生まれました。かつて、シナイ山に火と共に降りてこられたのとは違う様子で、赤ん坊として地上に来られました。赤ん坊として来られたのですから、お世話してもらえなければ、すぐに死んでしまいます。神である御方がご自身を投げ出して、私たちに選択肢があることを教えてくださいました。主イエス様を受け入れて、お世話をするなら、赤ん坊はみるみる成長していくでしょう。マリヤとヨセフはそうしたのです。しかし受け入れないで何もしないなら、赤ん坊は衰弱し、死んでしまいます。「私には出来ない」と思って何もしないでいたら、時は来てしまいます。
 私は悪い人間だから滅んでいくべきだと思っている人はいますか。エゼキエル18:23《わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──【神】である主のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。》と主はあなたに語っておられます。
滅びゆくのはあなたの運命ではありません。あなたは選ぶことができます。主イエス様が身を投げ出して、教えてくださったことです。イエス様と出会ったある人は、イエス様を信じた時にこのように言われました。《あなたの信仰があなたを救ったのです。》
 主イエス様のお誕生を記念するクリスマスは、神の良い知らせです。人は滅び行く前に、「もしかしたら、また関係を取り戻せるかもしれない人」として世に留め置かれています。「なぜ、あなたは死のうとするのか。滅び行くのはあなたの運命ではない。立ち返って、生きよ。」と主はあなたに語り続けておられます。あなたは何と答えますか。
 
お祈りいたします。《あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。》
 
 天の父なる神様。人にいのちの息を吹き込んでくださった愛であるお方。私たちの主よ。私たち人類は、人の体を調べ、その組織と構造を理解し、様々な技術を使って体を再現してきました。脳の働きまでずいぶんと模倣できるようになってきました。しかし、人の心はどうやっても生まれてきません。そこにはあなたが吹き込んでくださる息がないからです。主よ。あなたは私たちの創造主です。私たちはあなたに造られ、あなたと共にすべてを喜び楽しむことを望まれ、自由を与えられています。
 あなたに背き、本来の目的を失ってしまって、滅んでいくことが決まってしまいましたが、それでもあなたは私たちをまだ留め置いていてくださいます。「どうして滅び行くことを受け入れてしまうのか。それはあなたの運命ではない。あなたは滅びるか永遠のいのちを受けるかまだ選ぶことができる」と必死に語り続けてくださっています。このクリスマスにあなたの良い知らせを教えてくださりありがとうございます。
 そのような選択肢が残されているということは、私たちにとって恵みです。主イエス様。あなたを信じます。イエス様は私たちを創造してくださったお方、私たちを留め置いていてくださるお方、私たちを救ってくださるお方、永遠のいのちを与えてくださるお方、私たちの主です。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。



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