2022.12.4アドベント第2礼拝 説教題「羊を取り返す」エゼキエル書34章2~10節

クリスマスらしい寒さも加わってきたここ数日です。今年のテーマは「神の良い知らせ、それがクリスマス」。良い知らせとは何なのか、解き明かしのメッセージが続いていきます。神の愛はあまりに大きくて深くて、、、。罪にまみれた世に生きている私たちにも良くわかるようにと祈ります(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。待降節の第2週に入っています。主イエス様が長年待ち望まれてきた救い主であったことを思い出す時、また、まもなく主イエス様が帰ってきてくださることを待ち望む待降節の1ヶ月間です。

 この再臨への希望は毎週の礼拝式の喜びでもあります。巷ではサッカーW杯の開催と日本代表の大躍進がニュースとなっています。現地で観戦する人たちは、チケットを購入しなければいけなかったのですが、これがとても人気が高く入手困難であったそうです。また航空券は通常の何倍も値段が跳ね上がり、宿泊するホテルも値上がりはもちろん、そもそも空いている部屋を見つけるのが大変だったようです。一泊5万円も払って小屋のようなところに泊まる様子をYouTubeで配信している人もいました。しかし、それだけしても現地に行ってドイツやスペインに勝った試合を観戦できた人はどれだけ満足したことかと思います。
 それほどの喜びが神の国にはあるとイエス様は教えてくださいました。《 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。(マタイ13:44)》私たちはすべてを売り払って、その畑を買い、あとは権利書の到着を待っている人のようです。その喜びの日は一日一日近づいています。礼拝式の喜びを知っている人は幸いです。人々が殺到し、どこで礼拝をしているのか探し回り、どうやって参加できるのか尋ね、その席を一番先に確保したいと思うほどのことだからです。今は予約する必要もないし、聖日に交通費が値上がりすることもないし、ホテルに泊まらなくても自宅から出て間に合うし、オンラインまで配信されています。ただで受けられるのですから、早くこの機会をつかんでいただきたいと思います。
 さて、「神の良い知らせ、それがクリスマス」です。神である主は、どのような思いでクリスマスをお迎えになったのでしょうか。今日の聖書箇所をお開きください。エゼキエル書34:2-10(1475ページ)【聖書朗読】
 
 まことの神である主が聖書を通して、私たちに教えてくださった良い知らせは、一言で言うと「神は愛である」ということです。では具体的に、どういう意味で、どのように「神は愛」なのでしょうか。
 ヨハネが書いた手紙には、このように書いてあります。《キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。(Iヨハネ3:16)》主イエス様は人の罪のために、身代わりとしてご自分のいのちを犠牲にして十字架にかかり死なれました。神である御方の究極の自己犠牲は、神は愛であることのクライマックスです。イエス様はあなたを救うためにいのちを投げ出してくださったのです。神の愛はイエス様の十字架の死において、世に明らかに示されました。
 しかしながら、十字架の自己犠牲しか視界に入っていないとすれば、それはロマンチックかもしれません。ロマンチックな恋をして結婚した夫婦は、その後どうなるでしょうか。深い愛の表れであるロマンは、人の心を揺り動かし、人生の重大な決断を後押しさせます。(ロマンチックな恋がなければ誰も結婚しないと言ったら言い過ぎでしょうけれども。それほどの力があります。)私たちの多くも、イエス様の十字架を示され、神の赦しの愛を知り、イエス様を信じたのです。それはかけがえのないことです。でも、イエス様の十字架と復活が神の愛のクライマックス(頂点)であるなら、クライマックスに繋がっていく話、またクライマックスの後に繋がる話があります。神の愛は広く、長く、高く、深いのです。ロマンが張りぼてであれば、幸せな結婚は続かないでしょう。ロマンが深い愛から表れてきたものであったなら、続けていくことができます。実に「神は愛です」。
 神である主は、ある時、世界の中からアブラハムを選び、その子孫たちを愛し続けることで、世界中の人びとをどのように愛しておられるのかを示されました。彼らは祝福を受け、数が増え、ついに領土を持つひとつの国となりました。その国で特徴的だったのは、人間の王が国を治めているのではなく、神である主が治めておられることでした。
 神様は世界を造り、人を形造ってくださった時から、与え続ける恵みのお方です。ギブ・アンド・テイクの世界ではありません。神様は生活の糧を必要としないので、与え続けることがおできになる唯一のお方です。利益を必要としないので、お金を生み出すかどうかを気にしておられません。主はご自分の姿を、羊を愛してお世話をする羊飼いに例えられました。羊の肉を食べたり、売ったりするために世話をしているのではありません。羊毛を売って収益を得るために世話をしているのではありません。羊たちを愛して、子供のように育てている羊飼いです。
 ところがアブラハムの子孫、神の民であった古代イスラエル人たちは、主を退けて、人間の王様がほしいと願いました。それは良くないと主はおっしゃいましたが、人が求め続けるので、譲歩なさいました。譲歩ですから条件があります。イスラエル人の王様は選挙によって決めるのではなく、主が選んだ人物とすること。選ばれた王様は主の代理人であって、主に従って治めなければならないこと。これらを守らなければならないと命じられたのです。しかしイスラエルの王たちはこれを守りませんでした。今日開いた箇所で裁きのことばが告げられている「イスラエルの牧者たち」とはイスラエルの王や首長たちのことです。羊とはイスラエルの国民一人一人のことです。3節《あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。》王たちは民のお世話をしませんでした。民を働かせて、どうやって利益を得るかばかり考えていました。弱い者はお金を生み出さないので興味がありません。強い者だけを残し、弱い者は追いやって、病気になろうが、怪我をしようが、誘拐されようが気にも留めなかったのです。また王たちに気に入られていた人たち(肥えた羊)も王たちに従って、弱い人びと(痩せた羊)を虐げていたことが、21節から分かります。
 このような様子を読むと、私たちの身近でも大なり小なり同じことがあると思いませんか。人々が「厚意を受ける側」と「無視される側」に分けられていると感じることはないでしょうか。主が私たちの王であれば絶対にこのようなことは起こりません。主は、利益のために羊を飼うような者ではなく、ひたすら与え続ける気前の良い羊飼いだからです。すべての人は、神に造られた子供であり、誰一人として無視されるべき人はいません。主はこの世界を見て、どうしてこうなってしまったのかと嘆き、憤っておられるのです。9節《それゆえ、牧者たちよ、【主】のことばを聞け。【神】である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし(もはや彼らは神の代理人ではなく、神の敵です)、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。』」まことに、【神】である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。》このようにおっしゃって、地に来られた主が、あのイエス様です。主イエス様は「わたしは良い牧者です」とおっしゃいました。
 クリスマスにイエス様が地上に来られた時、赤ん坊として処女マリヤからお生まれになりました。赤ん坊ですから、お世話をしてもらえなければ死んでしまう弱い姿で来てくださいました。ところが、クリスマスの出来事は、その弱い存在であるはずのイエス様が王の王であることを明らかにしているというのです。
 《そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。》降誕劇の印象的な出だしのナレーションです。ローマ帝国の皇帝が全国民の人口調査を行いました。税金と兵士の見積もりのためです。自分の帝国を「全世界」と言ってしまうあたり、ローマ皇帝の絶大な権力を伺わせます。(この頃の日本は弥生時代です。)住民登録の勅令があり、人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰っていきました。マリヤとヨセフ、そしてお腹の中にいたイエス様は、ローマ皇帝の勅令に翻弄され、臨月に旅をしなければなりませんでした。ところが聖書が記しているところによると、これによってイエス様は預言されていたベツレヘムの町でお生まれになったというのです。またユダヤ地方を治めていた雇われ王様のヘロデ王が、イエス様を狙って2歳以下の子供を一度に虐殺する事件も起こりました。その事件が起こる直前、主の使いがヨセフに現れて、逃げなさいと言ったので、イエス様は虐殺から逃れることができました。これは旧約聖書の出エジプトのファラオとヘロデ王が重なる出来事でした。三位一体の主はヘロデ王の上におられるのです。赤ん坊という弱い弱い存在でありながら、ローマ皇帝アウグストゥスやユダヤ地方ヘロデ王という支配者たちの上に、王の王であられるお方でした。
 神である主は力強いお方です。そして愛のお方なのです。世の支配者とそれにぶら下がっている人たちを、その役目から退け、《わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる(15節)》とおっしゃっています。《わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。(11節)》《わたしは失われたものを捜し、追いやられたものを連れ戻し、傷ついたものを介抱し、病気のものを力づける。肥えたものと強いものは根絶やしにする。(16節)》と言っておられます。あなたが今どこにいるとしても、誰も私を気に留めていないと思えたとしても、主イエス様はあなたを捜し出し、連れ戻し、介抱し、力づけると言っておられるのです。だからイエス様は私たちのところに来てくださいました。神の良い知らせ。良い羊飼いイエス様が来てくださった!それがクリスマスです。
 今日の日本には、ロマンチックな十字架の愛だけを視界に入れて、信仰生活をしようとしたクリスチャンたちが多くいるのではないかと思うことがあります。いつも恋をしていなければいけないと思ったら、ちょっとしんどいですね。主はあなたの日常を知っておられます。日々、この世界で起こっている事柄を見て、こんなはずではないのにと嘆き、激しく憤り、あなたがその中を歩まなければならないことに心を痛めておられるのです。神の深い愛があります。私たちを大切な子どもとして、決して放っては置かれない主の愛です。
 幼い頃、教会学校に通い、イエス様を信じて洗礼を受けた方々。いま社会に出て、どうしていますか。神は愛です。神の愛は社会に出てからは、もはや通用しなかったのでしょうか。今こそ、今のあなたに必要なのは「良い羊飼い」ではないですか。良い羊飼いイエス様はあなたのために世に来られました。
 
お祈りいたします。《【神】である主はこう言う。わたしは牧者たちを敵とし、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。もはや牧者たちが自分自身を養うことはなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らの餌食にさせない。》
 
 天の父なる神様。恵みのお方。力強く、気前の良い羊飼いである主よ。あなたのほかに羊を養う牧者を見つけることはできません。あなただけが私たちの王です。
 古代イスラエル人たちは本当の王であるあなたを退けて、人間の王を求めました。今日の私たちも同じことをしています。頼れる人を求め、また時に自分自身の力に頼ろうとします。あなたはそれが悪い結果に繋がることをご存知で、警告をしておられました。しかしあなたに耳を貸さなかった人間は、その悪い結果を受け取ることになってしまったのです。主よ。わたしたちをあわれんでください。
 あなたを退けてしまったのに、それでもあなたは私たちを愛していてくださいます。背きの罪を赦し、私たちを捜し出し、連れ戻してくださいます。
 良い羊飼いであるイエス様。私たちはあなたを歓迎いたします。あなたを迎える準備を整え、待っています。もう一度、あなたの懐に帰らせてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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