2022.12.18第4アドベント礼拝「恥よりも愛」エレミヤ書45章1〜5節


主牧先生ご家族が帰国されて、教会堂にはまた幼子たちの笑い声と可愛い足音が戻って来ました。クリスマスを前にまた会えた(普通は当たり前ではありますが)喜びを共にしています。礼拝音楽ではギターのしみじみしたサウンドに心が清められるようです。今日のメッセージはクリスマスの出来事を通して、恥よりも愛をとられた神様の心を学びました。私も謂われない恥をかいた時にも、わたしたちを救うためにあえて恥ずかしめの道を選んでくださったイエス様の犠牲と愛を思い出しましょうと心に念じました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。待降節の第4週目をお祝いしています。例年ですと第4週目にクリスマス礼拝をしていましたので、今年は本来の形に近いですね。待降節を4回祝い、25日にクリスマスを覚えることができます恵みを味わっています。
 先週は私の事で留守をいたしましたが、お祈りくださりありがとうございました。皆が守られ、いつものように共に礼拝できますこと、主に感謝いたします。予定表のどこを見渡しても隙間がありませんで、もう「えいや!」と時期を決めて行ってきました。ご理解くださり、祝福して祈り、また労してくださいましたことありがとうございました。
 帰ってきて最初の祈祷会で、嬉しいお証を2つ伺いました。祈祷会のお祈り課題で、みんなで一緒に祈り続けてきましたお二人の方が「神様を信じる」と告白されたというニュースでした。お一人は少し認知症があるのですが、その日のお電話ではハッキリしておられて、神様がおられることを信じるとおっしゃったとのこと。もうお一人は奈宣協の県民クリスマスの後で「イエス様を救い主として信じる」とおっしゃったとのことでした。関わって来られた姉妹方自身が驚かれたそうです。わたしたちがみんなで一緒に祈り、主に期待しているなら、このようなことが起こってきます。牧師が近くに見えない時に(私の心はここにありましたけれども)、これが起こるということは大切な主のメッセージがあります。
 次の時代に向けて準備していくことは、私が王寺教会に任命されて受けている主からの使命だと思っています。一番の準備は、目に見えないお方がこの町で働いておられ、私たちを同労に招いておられることを経験することです。主が働いておられるので、関わる人が自分で行動しながらその結果に驚くということが起きています。私たちは、神様が喜ぶことをして成果を見せようとしているのではありません。主が働いておられるのを見て、お手伝いしたいと願い、主の喜びを共に喜んでいます。
 主イエス様は復活の後、天に昇っていかれました。それで私たちはイエス様の帰りを待っています。でもただ天を見上げて待っているのではありません。イエス様は聖霊を私たちに残し、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます(マタイ28:20)」とおっしゃいました。また弟子たちは主イエス様のみ名によって働きました。私たちはイエス様のみ名を用いる特権が与えられています。いつイエス様のみ名を用いていますか?祈る時ですね。そしてすべてのことです。《ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。(コロサイ3:17)》
 目に見えないお方の働きを発見し、サッと寄って、お手伝いしましょうか。これが主を待っている間に私たちがしていることです。
 さて、今日の聖書箇所をお開きください。エレミヤ書45:1-5(1376ページ)【聖書朗読】
 
 今年の待降節は、「クリスマスを迎えるにあたって神である主が強く持っておられた愛の思いを知る」ということで旧約聖書の預言書を開いています。私たちが信じている主は三位一体のお方です。三位一体の主は、聖書の最初から最後まで一貫して働いておられます。旧約聖書から新約聖書に移ったら、まるで神様が入れ替わってしまったかのような読み方をしますと、変なことになってしまいます。エレミヤ書で語られた主の思いは、クリスマスに世に来てくださった主の思いです。そこには神の愛が詰まっています。
 今日はエレミヤ書を開きました。これからバビロン捕囚に遭おうとしているイスラエル人たちに語られた主のことばを記したものです。ネリヤの子バルクはエレミヤの書記でした。エレミヤは主の預言を語るので、バルクがそれを文字に起こしていたのです。バルクは書記として、神様の裁きの言葉を書き留めていました。しかし、それがあまりに悲しい有様なので、心の芯まで嘆いて疲れ果ててしまうほどでした。その気持ちは私たちも分かるのではないでしょうか。神の裁きが延々と書いてある箇所を何ページもめくりながら、「もうやめてよ、平和な話が読みたいよ」と思うことがあるのではないでしょうか。バルクの場合は、実際に自分たちの身にこれから降りかかろうとしている出来事を聞いたのであって、どれほどの衝撃だったかと思います。
 しかし、主は悲しみに打ちひしがれているバルクをご覧になって、民に語っていたことばを一時停めて、バルクに向かって語られました。主は言われました。《あなたが行くどこででも、…いのちを…あなたに与える》と。どこででもってどこでしょう。バルクやエレミヤはこれからどこへ行くのでしょうか。彼らは、エジプトに助けを求めようとしたイスラエル人たちに引っ張られ、エジプトに連れて行かれ、ところがエジプト軍は結局バビロン軍に負けてしまいますので、ついにはバビロンの手に落ちるのです。前の章ではその預言が書かれており、主を恐れない愚かな人たちに巻き込まれて災難に遭おうとしていました。まるで闇に突入していこうかという中で、《あなたが行くどこででも、…いのちを…あなたに与える》と主は約束してくださったのです。
 また主はこのようにおっしゃっています。4節《見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。》ここには神の愛が現されています。どういうことでしょう。
 神である主は、この世界のすべてをお造りになりました。すべての自然、植物、動物、そして人を形造られました。創世記の1章ではことばによって「あれ」とおっしゃるとそのようになったと記されていて、少し無機質な感じがしますが、2章のほうでは「形造られた」と書いてあり、丁寧に愛をこめて造られたことが分かります。すべては神の作品であり、愛をこめて作り上げてこられたものです。そして、特にこの箇所では、神の民イスラエルの話をしています。人を救う計画を立て、アブラハムを選んで、「あなたの子孫を星のように増やす」と言い、ダビデを王として立て、「わたしがあなたのために家を造る」と約束されて今日まで保たれてきた民族でした。神の民は、主の作品であり、主の計画でした。ところが、大切に建てた家を自分で壊し、大切に植えた苗を自分で引き抜いても良いと言われたのです。それを実際にすると。これは「わたしの予定よりも、わたしの作品よりも、あなたのいのちを優先する」という宣言なのです。
 計画して積み上げてきたことや、時間をかけて丁寧に形造ってきた作品を壊すと、どんな気持ちになるでしょうか。しかもそれは人々の知っているところで計画され、人々の前で造られた作品です。聖書の中の聖書、モーセ五書にはっきりと書いてあります。それを失敗したと言って壊すことは、とても恥ずかしいことではないでしょうか。それでも、面子よりあなたにいのちを与えるお方が私たちの主なのです。これは自分の子を愛する親でさえも難しいことです。もちろん自分の子を愛している、受け入れている。でも自分が思い描いていた形にならないと知った時、ジレンマを感じます。自分がこの子のためと思って積み上げてきたことを壊して、目の前の子を優先することを躊躇してしまいます。その姿に子どもたちは傷つき、反発したり、自分の価値を見失ってしまったりしてしまいます。子どもたちはいのちをある意味で損なってしまうのです。しかし主は一切躊躇がありません。《見よ。わたしは自分が建てたものを自分で壊し、わたしが植えたものを自分で引き抜く。この全土をそうする。》《あなたが行くどこででも、…いのちを…あなたに与える》とおっしゃっているのです。
 「いや、それならバルクやエレミヤだけじゃなくて、イスラエル人をみんな救ったら良いじゃないか。どうして他のイスラエル人は滅ぼしてしまったのか。」と思われるでしょうか。バルクたちは神のえこひいきによって救われたのでしょうか。何か特別な人だったのでしょうか。ラッキーな人だったのでしょうか。いいえ。彼らは主のことばに耳を傾け、主に従う人たちだったから、差し伸ばされていた神の救いの御手をつかんだのです。これはすべてのイスラエル人にできたことです。主の救いの御手はすべての人に差し伸ばされていました。イザヤはこのことを指摘して、民に言っています。《 見よ。【主】の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:1-2)》問題は主のことばを聞き流して、自ら滅びの道を突き進んでいく人間の方にあるのです。どうして死を選んでしまうのか。わたしはいのちを与える。いのちを選びなさいと主は語り続けておられます。そのためには時間をかけて建ててきたもの、育ててきたものを自分で壊し、引き抜くことも何とも思わないとおっしゃいます。面子より、いのちを与えると躊躇なく約束し、その通りになさったお方は主の他にいません。これが神の愛です。クリスマスの背後にある主の思いです。
 Iヨハネ4:9-10《神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。》主イエス様は私たち一人ひとりにいのちを与えるために世に来てくださいました。イエス様の死がなければ、私たちのいのちはないのです。イエス様の死、それは呪いの木にかけられるという死でした。十字架刑にかけられる者は自分で十字架を背負い、町の通りを歩いて刑場に向かわなければなりません。街中の人たちがそれを見物するのです。そして裸で十字架に釘付けされ、掲げられます。そんなに高い場所ではありません。ほとんど立っている人と目線があうような低さです。そこで人々に笑われ、つばをかけられ《「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」…「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」》と言われたのです。この言葉はすなわち、神が建てたダビデの家が壊れた、神が植えたアブラハムの子孫が引き抜かれたと言って嘲られているということです。しかし、みなさん。この場面で発せられている主のことばが聞こえますか。あの時、主イエス様は黙っておられましたが、みなさんには主のことばが聞こえるでしょう。「恥を受けることは何ということではない。私はあなたにいのちを与える。」
 あなたにいのちを与えるために、《キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。》こうしてイエス様はマリヤからお生まれになったのです。神の良い知らせ、それがクリスマスです。ですから、私たちは長く伸ばされている主の救いの御手をつかまなければなりません。それはあなたが直ぐにつかめるところまで伸ばされています。クリスマスの日に世に来てくださったイエス様が、主であることを信じましょう。
 主イエス様はこの世界を造り、あなたを形造ってくださったあのお方です。主イエス様が来られたのはあなたに永遠のいのちを与えるためです。そのために私たちが受けるべきであった恥と苦しみを代わりに受けてくださいました。信じるとは、主のところに帰ることと同じ意味です。イエス様は「わたしについて来なさい」とおっしゃいました。アブラハムは神のことばを聞き、信じて、約束の地へと旅立ちました。信じることと出発することは同じ意味です。今年のクリスマスをイエス様についていく第1歩としませんか。
 
お祈りいたします。《しかしわたしは、あなたが行くどこででも、あなたのいのちを戦勝品としてあなたに与える。》
 
 天の父なる神様。愛と憐れみに富んでおられる主よ。待降節を待ち望む週も4週目を迎えました。あなたがどのような思いでクリスマスを迎えられたのか、今日も覚えることができ、ありがとうございます。
 あなたの計画はいつも最善であり、あなたの作品は完全です。私たちはそれを知ることなく、せっかく植えてくださった苗から悪い実を出し、せっかく建ててくださった家を自分の好き勝手にするような愚かな者たちです。それを見て、あなたはどれほど悔い、心を痛めておられることでしょうか(創6:6)。主よ、どうかあわれんでください。
 しかし、愛である主よ。あなたは建てたものを壊し、植えたものを引き抜くことを躊躇なさいません。どれほど恥を受け、心が痛むことがあろうとも、そんなことよりも、私たちにいのちを与えたいと願ってくださっています。そして私たちがそれを受け取るかどうかも分からないうちに、先に救いを完了してくださいました。《私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し》てくださった。本当にその通りです。
 イエス様。私たちはあなたを信じ、あなたについていきます。あなたが新しく建ててくださった教会が実を結ぶものであるように、どうか私たちにあなたのきよさを与え、励まし、助け、導いてください。

 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。 

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