2022.7.31 主日礼拝「涙と恥が拭われ」ゼカリヤ書8章9~13節

 



















今日は、イスラエルの歴史の中でも大きな苦難の出来事、バビロン捕囚から帰った時のお話しです。イスラエルは国を滅ぼされ、人々は他国に連れて行かれ、70年間異国に寄留する民となりました。世代も変わった頃、神の導きによって、絶望の日々に希望が灯されます。神様は、試練を与えられるけれども、さらに大きな祝福、広がっている祝福を与えてくださるという感動のメッセージです。
下の写真は、会堂の入口にある掲示板。交代で飾り付けをしていますが、今回は手描きで天地創造の絵が丁寧に描かれていて、暑さも忘れて立ち止まってしまいます。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。今日も主の御前で共に集まり、兄弟姉妹と共に主を見上げるひとときを持たせていただいていること感謝します。
ずっと追ってきたイスラエルの歴史もエルサレム帰還のところまでやってきました。主を恐れる人たちは時代を重ねるごとに増えていきました。今やバビロン帝国中にユダヤ人の会堂があり、そこで主を知った外国人たちが、主を恐れるようになっていました。バビロン帝国はユーフラテス川周辺から地中海ですが、その後、ペルシャ帝国、ローマ帝国と新しい帝国に飲まれながら領土は拡大し、スペインからアフリカ大陸の北岸まで広がりました。その領土にユダヤ人の会堂が立ち、また主を恐れる異邦人たちが起きてきていました。イスラエルはアブラムから始まったのですが、主を知る人は益々増え広がっていき、星の数のようになりました。「ああ、アブラハムの子孫は素晴らしい人たちだったのだな」と思いますか。とんでもないですね。私たちは歴史を追ってきましたから、何があったか知っています。彼らは主に罪を犯し、次の世代もまた次の世代も罪を犯し続けたのです。それにもかかわらず、主は民をあわれんでくださいました。
 先週の説教では、最後の締めくくりにペンテコステのペテロと石打前のステパノの説教を引用しました。彼らは「あなたがたはイエス・キリストを十字架にかけて殺したのです」と言いましたが、よく考えてみると、ペテロもステパノもユダヤ人ですよね。イエス様を殺したユダヤ人に自分たちも含まれているのです。クリスチャンが良い知らせとして人々に知らせている福音は、何を隠そう「私は罪を犯し、ついに神である主イエス・キリストを十字架にかけて殺しました」と言っているのです。そのようなメッセージでどうやって人々の心に刺さるのでしょうか、不思議なことです。ペテロの説教を聞いた人々の心に刺さったと書いてありますし、ステパノの説教を聞いた人は激怒して、ステパノを石打にしたと書いてあります。(でも、その石打の現場責任者が後のパウロです。)
 伝道は私たちが輝かくし正しいことを行った時に劇的に前進すると思っていないでしょうか。そのように盛んに言われていた時代もあったと思います。聖書はそのように教えていません。主の約束と真実の愛によって祝福が広がっていく、あるいは呪いが祝福に変えられると伝えています。「すべてのことは神から発することを認めよ」と。私たちはその中で各々の行動に応じた報いを受けています。人々が主を恐れるようになるのは、誰かの輝かしい姿を見たときだけではないと思います。罪を犯した者が正しい報いを受ける時にも、あるいはその時のほうが、人々は主を知り、主を恐れるようになるのではないでしょうか。人々は力ある者への悪の裁きが正しく行われないことを日々嘆いているのですから。
 しかし私たちが祝福を受けることで人々が主を知ることと、私たちが呪いを受けることで人々が主を恐れることを選ぶとしたら、主に与えられた種を撒いて、善い行いをし、祝福を受けるほうが私たちにとって幸せなことでしょう。まして、私たちは主イエス様の十字架にあずかり、聖霊を与えられているのですから、世の患難にくじけることなく、立派な行いを続けていきましょう。
 今日の聖書箇所をお開きください。ゼカリヤ書8:9-13(1620ページ)【聖書朗読】
 
 南北王国滅亡の後の時代は、ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ハガイ書、ゼカリヤ書などに書かれています。ダニエルはバビロン帝国がペルシャ帝国に滅ぼされていく時代にバビロンにいた彼と友人たちの出来事、またダニエルが見せられた預言の幻です。エズラ記とネヘミヤ記は、エルサレムに帰った人々がゼルバベル、エズラ、ネヘミヤの指導の元で神殿と城壁、また社会を再建していく様子を記しています。ハガイ書とゼカリヤ書は預言書で、敵の妨害を受けて難航していた神殿再建を励ます主のことばがありました。エステル記はエルサレムに帰らなかったユダヤ人が依然として主に守られていて、虐殺から助けられたという話です。
 これらの書物を一通り読んで、この時代を思い巡らせていくと、聖書が伝えているテーマが幾つか出てきます。それらのテーマから私たちが覚えておく必要のあるものをひとつを取り上げて説教としてお話しています。今日のテーマが垣間見える聖書の箇所を一つ選んで、最初に朗読していますが、この箇所から話し始めているわけではなくて、ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ハガイ書、ゼカリヤ書などの全体から分かることを話しています。
 さて、国が滅ぼされ、バビロンに引いていかれたユダヤ人たちでしたが、あれから70年が経ち、新しい支配者となったペルシャのキュロス王が帝国中に通達を出して、「ユダヤ人はエルサレムに帰って主の神殿を建てよ」と言いました。聖書は主がペルシャの王に油を注いで、このことを言わせたといっています(イザヤ44:28)。そこでユダヤ人の中から志願した人たちがエルサレムに帰って、完全に廃墟となっていた神殿を、もう一度建て直しました。このことをユダヤ人のエルサレム帰還と呼んでいます。
 ユダヤ人がエルサレムに帰ったということなのですが、実は「帰ってきた」人はいません。なぜなら70年が経っているので、バビロン捕囚にあった人たちはすでに亡くなっていて、新しい世代になっているからです。同じようなことは昔の荒野の40年間でも起こりました。エジプトから脱出してカナンに入ろうとした民は、カナン人が強そうなのを見て、モーセを恨み、別の指導者を選んでエジプトに帰ろうとしました。彼らはその罪のために約束の地に入ることなく荒野で生涯を終えることになりました。もちろん荒野も主の目からすると悪い場所ではなかったわけです。いつも主に依り頼まなければ生きていけない場所でしたから、人の目には最悪の場所でしたけれども、後の時代のことを考えてみても、荒野の40年間は悪くはない時代でした。しかし、約束の地に入れなかったわけで、それぞれの行いに応じた報いを受けたことが分かります。主の民全体の歴史で見ると、少しの間の主の怒りと、それにもかかわらずの愛とあわれみを受けてきたのですが、詳しく見ていくと裁かれた世代とあわれみを受けた次の世代がいることが見えてきます。もちろん今回もバビロンは主の目からすると悪い場所ではなかったですね。人の目には最悪でしたが、2週前にエレミヤ書の主のことばを読みましたように、バビロンの地で家を建てて住み、祝福を受けなさいと言われていました。恥の中の歩みでありながらも、主がそのただ中にいてくださいました。しかし、いよいよエルサレムに戻り、恥が拭い去れら、名誉が回復していく時がやってきました。
 この約束の地に帰るということは、現代の私たちにも当てはまることです。私たちは人生のある時点でイエス様を信じてクリスチャンになったわけです。でも私たちは「帰った」のでしょうか。「主はあなたを呼ばれる みもとに帰れと… 帰れと 優しく 主イエスは 今 呼んでおられる」という讃美歌がありますが、「帰ってきなさい」ってどういう事?と思いますね。(ほとんどの人の場合)そこにいた事はないし。帰ったというよりも初めてそこに足を踏み入れたのです。エルサレムに帰った人たちも、そのような状況でした。私たちは人類の歴史をアダムから見てみると、元々は神である主の御元にいたのです。ですから、私たち個人個人は洗礼を受けて、初めてのところに踏み込むわけですが、人類のひとりとして考えれば、主のもとに帰ってきたということです。
 その初めて帰ってきた場所で何をするのでしょうか。主は、主を礼拝する神殿を建設しなさいと言われました。あれ、ちょっと待って下さいよ。え、神殿を作るんですか?神殿を作るのは好まれなかったのではなかったでしょうか。どういうことでしょう。サムエル記(IIサム7)を読むと、確かにダビデ王には神殿を建てよとは言っていないと書いてあります。約束の地のあらゆるところで民のただ中にいてくださって、契約の箱は巡回して、あちらでもこちらでも礼拝が行われていたのに、主の居場所は人によってエルサレムに指定されてしまいました。国が南北に分かれた時には、北イスラエル王国の偶像礼拝の原因にもなってしまいました。罪の結果として、最初の神殿は完全に破壊されてしまいました。一方で、今度は、ハガイ書やゼカリヤ書の主のことばを見ると、主の神殿を再建しなさいと確かに言われています。一体どのような気の変わり様でしょうか。いいえ、気が変わったのではありません。
 状況を比べてみましょう。最初の神殿は王によって建設されました。当時、すでに各地に礼拝所があり、特にサムエルが仕えたシロには大きな礼拝所があったようです。そのような中で建てられたエルサレム神殿は、国が安泰で、財力も余りある時に、沢山の奴隷によって、王宮の横に建てられた立派な建物でした。一方で、バビロンに神殿を破壊され70年が経った時には、王様はいませんでした。生贄をささげる礼拝の場所もありませんでした。人々は主から捨てられてしまった恥に覆われていました。小金持ちくらいはいたようですが、大金持ちはいませんでした。そのような中で、主はご自分の民に、主の恵みをもう一度思い出すために神殿を建てさせたのです。ペルシャ帝国中に散らばっていたユダヤ人たちは、エルサレムで何が起こっているかをいつも気にしていました。神殿が完成し、城壁が建てられ、そこには12人のリーダーから始まる、ユダヤ人の家系図を持った人たちがいて(祭司やダビデの子孫もいて)、モーセの律法(イスラエルの歴史)を学び直しました。それは人間の目には、以前と比べるには余りにもみすぼらしく小さなものでした。しかし彼らは主の恵みを思い出すことができたのです。人の働き、家畜の働きに報酬があるのは主の恵みによる。敵から守られて平安なのは主の恵みによると。エルサレムに帰った人たちだけが主を知ったのではありません。帝国中に散らばっていたユダヤ人たちもまた、新しく主を知ったのです。
 現代の私たちが礼拝の会堂を建てようとする時にも、よく状況を考えてみなければなりません。建てるべき時かどうかよく考えてみなければなりません。ダビデのように会堂を建てようとしているのでしょうか。エルサレムに帰った民のように会堂を建てようとしているのでしょうか。それは人から発しているのでしょうか、神から発しているのでしょうか。有り余った人の力で建てるのでしょうか、神の恵みによって建てるのでしょうか。建てた後、その土地や建物、建てた人たちの功績を覚えているのでしょうか、それを完成させてくださった主がいつも私たちに恵みを注いでくださることを覚えているのでしょうか。
 会堂建設の話で横道にそれましたが。主の民は初めて帰ってきた場所で礼拝をしたのです。彼らは礼拝する民でした。ペルシャ帝国の植民地ですから、帝国から派遣される王はいても、主に油注がれた王はいません。国の領域は帝国に決められています。ユダヤ人はただひとりの神である主、アブラハム、イサク、ヤコブの神を礼拝することで、ひとつの民となっていたのでした。ペルシャ帝国中に散らばっていたユダヤ人たちから、神殿を建てるために有志がエルサレムに遠征し、ついに完成した神殿で、生贄をささげる礼拝を再開したのです。イザヤによって預言されていたように、民の涙がぬぐい取られ、恥が取り除かれました。帰ってきた人たちだけではありません。散らばっていたユダヤ人たちも皆、涙と恥を拭われたのです。
 エルサレムにいる人と、それ以外の場所に散らばっている人がいます。しかし、どこにいる人も律法(聖書)の礼拝を思い出しました。依然として世界中に散らばる民でしたが、礼拝によってひとつでした。私たちもまた彼らと置かれている状況が似ています。私たちも礼拝によってひとつになっている群れです。会堂にいる人と散らばっている人がいます。ここにいる人と、オンラインの先にいる人。あるいは年を重ねてホームに入っておられる方々。今週は特にコロナの影響で職場の人員が減ってしまい、出勤しなければならない方々もいます。それでも、今日ここで礼拝があり、主が私たちを祝福していてくださると覚えて、讃美し、祈っているゆえに、散らばっている人たちもみな主を知り、主の恵みに感謝して、ともに礼拝して歩むことができます。《その日以前は、人の働きに報酬がなく、家畜の働きにも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安がなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して、かつての日々のようではない。──万軍の【主】のことば── それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木が実を結び、地が産物を出し、天が露を滴らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを受け継がせる。ユダの家よ、イスラエルの家よ。あなたがたは国々の間でのろいとなったが、同様に、わたしはあなたがたを救う。あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。(ゼカリヤ8:10-13)》
 
お祈りいたします。《あなたがたは…のろいとなったが、…あなたがたは祝福となる。恐れるな。勇気を出せ。》
 
 天の父なる神様。私たちを敵から救い出し、いつも守り、最後の敵である死さえも打ち破ってくださった主よ。あなたが与えてくださる平安のゆえに心から感謝いたします。
 今日も私たちは礼拝に参りました。あなたがすべてのことを真っ直ぐにしてくださることを感謝し、兄弟姉妹と共に主のことばは本当だと証しするために、ここに集っています。この場所にどうしてもいることができない兄弟姉妹もおられますが、彼らもまたあなたの誠実さを思い出して、あなたをあがめています。御子イエス様のなだめの供え物のゆえに、どうか私たちの祈りを受け入れてください。
 私たちは周りの人々の間で呪いでありましたが、あなたに救われて、祝福となりました。なんという深いあわれみでしょうか。神の国とその義をまず第一に求めることができるように助けてください。様々な試練があり、礼拝を後回しにしたくなるような妨害もあります。しかしあなたが私たちの主でいてくださらなければ、私たちの働きに報酬はありません。勇気を出して、試練に立ち向かうことができますように、あなたのことばをいつも私たちの心に置いてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。


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