2022.7.24 主日礼拝「失った領土の拡大」エレミヤ書32章26〜44節




今回、礼拝の司会を担当しました。王寺教会は、58年の歴史の中で礼拝の司会者は男性という慣例がありましたが、今年から女性が入ることに。そんな中で、ドキドキしながら臨みました。聖書朗読その他のプログラムの進行役で、聖書の言葉の力強さ、それを発する楽しさ、それをみなさんと共有できる喜びを味わいました。礼拝メッセージでは、旧約聖書のバビロン捕囚という絶望的な出来事を通して、呪われた出来事をかえって祝福約束のスタートに変えてくださる神様の深い愛を学びました。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。週の新しい日の朝を迎えました。今日も兄弟姉妹と共に主の安息を期待して、希望と感謝の礼拝をもてますこと嬉しく思います。
 新年礼拝から教会の集まりと散らばりについてお話してきました。教会は心臓の鼓動のように、毎週同じリズムを持って、集まることと散らばっていくことを繰り返しています。このリズムはどこから来た話かといいますと、創世記の一章です。主が天と地を六日間で造られ、七日目に休まれたことから、主の民イスラエルは六日間働き、七日目に聖なる日をもつ「一週間の繰り返し」をもっていました。このリズムは荒野の40年間でも繰り返されてきました。マナが六日間降り、六日目には二倍の量が降って、七日目には全く降らなかったからです。シナイ山でモーセが受け取った律法にも何度もこの教えが出てきます。《安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。…それは【主】が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。(出20:8-11)》(出23:12, 31:15, 34:21, 35:2、レビ23:3、申5:13、エゼ46:1)
 この主の命令の中で、実は私たちが忘れがちなのは6日間の方ではないでしょうか。「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ」とあります。これは「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」という命令と同等のものであり、7日目が一番素晴らしくて、他の6日間が劣っているわけではありません。どの日も大切であり、それぞれに主が定められた役割があるのです。
 そうすると驚く方もおられるかもしれません。私たちの多くは引退していたり、主婦であったりしますし、健康上の理由などで“仕事”をしていない方もおられるからです。今から就職活動をして“仕事”を探すのでしょうか。少しでもお金を稼いで、たくさん献金しなさいと言うのでしょうか。いいえ、そういうことではありません。聖書がいう仕事とは、一般的に考えられている経済活動のことではありません。主が造られた世界をお世話することです。主の業の管理人として生活することです。主は自然を造られ、人とその社会を造られました。自然を守り、また管理していくこと。社会に愛をもたらし、悪に反対すること。人びとを自由にすること。罪を執り成して祈り、罪を赦すこと。最終的には人の解決は不完全で、一時的だけれども、主はすべての問題を完全に、また永遠に解決してくださると伝えることです。世界を変えるような大きな仕事もあるかもしれませんが、そんな大層でなくても尊い仕事は沢山あります。朝、近所の人に挨拶する。花に水をやる。あれもそれも大切な主の業の管理です。
 主がしておられることを、主の手足として、管理していくことが、私たちが六日間にするようにと任せられている仕事です。そして週に一日、その働きが人間から発しているのではなく、神から発していることを知るようにしなければなりません。それが私たちが集まる日、礼拝の日です。これが人の一週間のリズムなのです。
 この7日という区切りは、クリスチャン以外の世界でも使われています。天体の動きと関係しているからです。世界の創造の時に造られたリズムですので、聖書を知らない人でも7日間の繰り返しがあることを知っています。私たちはその意味も知っているのですから、これを大切にしていきましょう。私たちには蒔くための種がいつも与えられています。
 今日の聖書箇所をお開きください。エレミヤ書32:26-44(1354ページ)【聖書朗読】
 
 旧約聖書を開きながら聖書全体のメッセージを明らかにしていこうとしています。そのうちに新約聖書にも入っていきますが、今は旧約聖書のバビロン捕囚からエルサレム帰還の時代を見ています。しばらく旧約聖書の説教をしていて、私が思っていますことは、旧約聖書の読み方への戸惑いがあるのかもしれないなというところです。新約聖書と旧約聖書の違いは色々とあるのですが、ひとつは書物の種類が違うということです。旧約聖書はほぼ歴史です。過去に起こったことを後の時代に遺すために書き記されている書物です。一方で新約聖書はほとんど手紙です。受け取る人の「今」に関わることばです。これらの手紙が送られた後の時代になって、例えば「パウロは〇〇教会に手紙を送った。〇〇教会ではこのような事が起こった」と歴史をまとめると旧約聖書っぽくなりますね。
 これまでの時代は新約聖書を中心に読んでいくことが、ある意味、主流でありましたので、私たちは直接的な「手紙」形式が染み込んでいるのです。「神様は私にお手紙をくださった。私はそれにお返事します」という感じです。新約聖書はもともと手紙ですので、この形式にはまりやすいのですが、旧約聖書は歴史ですので、そうはいきません。それで一昔前に一般的だったのは、例えば旧約聖書に出てくる人物の良いところを真似しましょうという説教です。世界中でみんなそのように説教していました。
 しかし、ここ数十年で旧約聖書の理解が急激に進んだのです。その理由のひとつが考古学の発展です。何千年も前に書かれた聖書が私たちの手元にあるのは、これが絶やさず写本(コピー)されてきたからです。書物はどんな材料でも朽ちてしまいますので、内容を新しい紙に書き写して、次の世代に遺していくのです。このように写本されて続けてきた書物はとても珍しいのです。ところが近年になり、もう一つの道で古代の聖書が手に入るようになりました。地面の奥深くから掘り出されたのです。これの良かったことは、聖書が見つかったということだけではなく、当時の様々な聖書以外の文章が出てきたということです。今までの時代には知ることができなかった古代の世界の様子が分かるようになり、それによって旧約聖書の理解も進みました。イエス様が旧約聖書をどのように説明されたのか、パウロが旧約聖書をどのように説明していたのか、分かるようになってきたのです。
 先日、会堂の壁にアブラハムが星空を眺めて天の声を聞いている場面を飾っていただきました。「あの星を見てください。そのひとつが私たちですよ」と言いましたが、「今までそのように考えたことがなかった」と、ある方から言われたのです。歴史があって今の私たちがある。実は、あまり慣れていない受け取り方なのかもしれません。
 イエス様も、ペテロも、ヨハネも、パウロも、旧約聖書を開いて「ユダヤ人たちはこのような歴史を通ってきた。それは不完全だったが、今や完全なものが現れた」と解き明かしたのです。私もイエス様が旧約聖書を引用されたのと同じように語りたい、パウロが旧約聖書を語ったように説明したいと思っています。それが出来ているかは別として、それが目標です。
 さて、前置きが長くなりました。今日は、バビロン捕囚の印象をとらえ直してみましょうという続きです。「呪いが祝福に変えられた」ことをもう少し具体的に見たいと思います。
 ユダヤ人たちはバビロンに王国を滅ぼされ、強制連行されてしまいました。それから70年後にユダヤ人たちはエルサレムに帰ります。その70年間のことはあまり聖書に書いてありません。その間にバビロン帝国はペルシャ帝国に征服されてしまいます。(ダニエル書を読むと、その様子を知ることができます。)ユダヤ人たちはバビロンに家を建てて、生活をしなさいと主から言われましたので、少しずつ異国の地に慣れていきました。世代が変わっていき、70年が経った時、なんとペルシャのキュロス王が、ユダヤ人にエルサレムに帰って神殿を再建しなさいと通達を出したのです。こうして主が予め告げておられた回復の日がやってきました。
 このようにして説明すると、すべてのユダヤ人がひとまとまりになって捕囚になり、ひとまとまりになってエルサレムに帰ってきたように想像されるかもしれません。かつて出エジプトの前後には、ヤコブの一族がひとまとまりになってエジプトにやってきて、イスラエル民族がひとまとまりになってエジプトを離れたので、同じようなイメージをもってしまいがちです。しかし今回は違います。バビロンに強制連行された後、ユダヤ人たちは牢屋に入れられたわけではありませんので、帝国内に家を建てて住み、徐々にバラバラになったのです。2代目、3代目となるに連れて文化になじんでいき、バビロン、ペルシャ、ローマと支配者が移り変わる中で、各地に散っていきました。
 70年が経って、キュロス王の通達が出た時、ユダヤ人がエルサレムに帰って、神殿と城壁を再建し、居住区を作りました。ユダヤ人全員がエルサレムに帰ったように思われるかもしれませんが、そうではありません。3回に分けて、わずかの人々がエルサレムに帰って、そこに住み、神殿と城壁を再建したのです。ユダヤ人たちが再び住むようになった地域は以前よりもかなり縮小しています。エルサレムとその周辺だけです。やはり主の民は、神の怒りと憤りと激怒によってどこまでも呪われてしまったのでしょうか。《見よ。わたしは、かつてわたしが怒りと憤りと激怒をもって彼らを散らしたすべての国々から、彼らを集めてこの場所に帰らせ、安らかに住まわせる。(37節)》とおっしゃったのに、その赦しは限定的だったのでしょうか。罪を犯したものはいつまでも恥を受け続けなければならないのでしょうか。
 いいえ、そんなことはありません。神の知恵は人の思いを超えているのです。呪いは祝福に変えられました。エルサレムに限られたユダヤ人たちが帰り、神殿と城壁が再建されました。主はご自分の民を幸せにするために、新しい永遠の契約を結び、彼らを約束の地にもう一度植えてくださいました。人の目には、ユダヤ人たちが以前よりも貧相な神殿と、以前よりもだいぶ小さい領土をもっているだけに見えるでしょう。しかし主の目にはそうではありませんでした。主が民を植えられた土地の境界線はどこにあったのでしょうか。かつて主はモーセに預言を与えて言われました。《あなたがたが足の裏で踏む場所は、ことごとくあなたがたのものとなる。荒野からレバノンまで、あの川、ユーフラテス川から西の海に至るまでがあなたがたの領土となる。(申11:24)》イスラエル人はいまだかつて、ユーフラテス川から地中海に至るまでの広い地域を領土にしたことがありませんでした。しかしバビロンに捕囚にされ、その後彼らが散らばった場所はどこだったでしょうか。ユーフラテス川から地中海に至るまでの地域です。彼らはその地を足の裏で踏んだのです。人の目には、それはユダヤ人の領土ではありませんでしたが、主の目には約束の地でした。約束の地の境界線が広げられたのです。散らばったユダヤ人たちは、それぞれの場所で主の証人となり、彼らを見てユダヤ教に改宗する人たちが出てきました。新約聖書で「神を恐れる人たち」と呼ばれている異邦人たちです(使徒13:16)。こうして呪いは祝福に変えられました。
 エルサレム帰ったユダヤ人たちの子孫がイエス様やペテロたちです。一方でローマ帝国の各地に散らされていたユダヤ人の子孫のひとりがタルソ出身のパウロです。イエス様は過ぎ越しの祭の時に十字架にかけられ、復活されました。その時、ローマ帝国中からユダヤ人たちが集まってきていて、ある者は復活のイエス様に会い、ある者はペンテコステの説教を聞いたのです。彼らは自分たちが住んでいる場所に帰って行き、福音を伝えました。後にパウロが旅をして福音を伝え始めます。彼は遠い町々に入って、ユダヤ人の会堂に行きました。なぜそこにユダヤ人の会堂があるのでしょうか。主がユダヤ人たちをその地に植えておられたからです。約束の地の領土は縮められたのではなく、広げられていたのです。エルサレムに立つ新しい神殿と遥かに広い領土の中で、彼らは元通りにされました。
 もし人が怒りと憤りと激怒によって感情的になったら、破壊することしか頭にないでしょう。二度と立ち上がれないように徹底的に破壊してやりたいと思うのではないでしょうか。ところが主は違うのです。主の民は徹底的に懲らしめられてしまったと私たちは思うのですが、後の時代をよく見ると、苦しみ嘆き、罪悪感と恥ずかしさに覆われていた状況は祝福と変わっているのです。このような神は主の他にいません。私たちの人生においても、どうでしょうか。私たちはもう駄目だと思ったのに、しかし今は、主の懲らしめがなければ、今日の祝福はなかったと言えるのではないでしょうか。私たちは受ける資格が無いのに恵みの上にさらに恵みを受けたのです(ヨハネ1:16)。
 キリスト教ではないある宗教では、しきりに「勝利、勝利」と言うそうです。しかし、私たちクリスチャンは主の前に自らを指して「勝利、勝利」と言うことができません。私たちは失敗して、失敗して、また失敗しているからです。ところが、失敗して呪いを受けたのに、呪いが祝福に変えられ、また失敗して呪いを受けたのに、呪いが祝福に変えられているのです。こんなことってあるでしょうか。_ あるのです! どうしてですか。神の御子イエス様の十字架があるからです。
 聖書は人が主を恐れて正しく歩むことができたから祝福をうけているとは言っていません。手を変え品を変え、何度も忍耐してもらい、何度も赦してもらい、それでも主を恐れることを忘れ、呪いを受けたと言います。しかし、イエス様が十字架の上で私たちの罪を背負ってくださったので、呪いはことごとく祝福に変えられているのです。それにもかかわらず、もし私たちが頑なにイエスを知らないと言うなら、あなたは恵みを受けながら、主イエスを十字架につけて殺したのです。
 聖書は言っています。《それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒2:38)》
お祈りいたします。《わたしは彼らをわたしの喜びとし、彼らを幸せにする。わたしは、真実をもって、心と思いを込めて、彼らをこの地に植える。》
 
 天の父なる神様。わたしたちをあなたの喜びとし、幸せにするために永遠の契約を結んでくださった主よ。私たちはイエス様の贖いによって、恵みの上にさらに恵みを受けました。今日もあなたの食卓に招かれ、パンとぶどう酒をいただいています。
 私たちと古代イスラエル人とに大きな違いがあるでしょうか。あなたの目に悪であることを行い、あなたの怒りを引き起こすばかりであったのではないでしょうか。あなたがしきりに教えても聞かず、懲らしめを受け入れなかったのは私たちではないでしょうか。私たちはあなたが予め警告しておられたように、主を恐れない者たちに降りかかる当然の報いを受けたのです。ところが、あなたに不可能なことはありません。あなたは呪いを祝福に変えることができるただひとりのお方です。あなたの怒りによって、破壊されてしまったと思ったのに、もうだめだ、これで終わりだと思ったのに、今ではそれが祝福になりました。
 ユダヤ人たちはどうして呪いが祝福に変えられているのか知らずにいました。それは神の秘められた奥義だったからです。しかし、神の奥義はついに明らかにされました。神の御子イエス様が十字架で罪の身代わりになってくださったと分かったのです。パウロはこの明らかにされた奥義を伝えずにはいられませんでした。私たちもそうです。主よ。どうしてこの恵みの知らせを伝えないでいられるでしょうか。
 新しい六日間が始まります。世に出ていく私たちを、あなたの誠実さのゆえに、祝福してください。欺きの業を打ち砕き、人びとを自由にする神の恵みを、すべての人に教えてください。この良い知らせを携えて、私たちは出かけます。主よ。共にいてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン


アブラハム、神から、天の星の数のように子孫ができると約束される。

 

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