2022.8.14 主日礼拝「誰と神殿を建てるか」エズラ記4章1~10節

日本の習わしに従って、教会も1週間のお休みをとり、礼拝はありましたが、先週は祈祷会やお掃除はお休みでした。強烈な暑さの毎日でした。休みが終わって再び教会が普段のスケジュールに戻った日、たった数日にもかかわらず、大事なところに帰ってきたと思いました。講壇のお花もいきいきと綺麗です。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。今日もみなさまをお迎えし、共に主を礼拝できますこと感謝です。

私たちは復活の朝に礼拝を繰り返しながら、イエス様が帰ってこられることを待っています。聖書を読み、歴史を思い出すことは、同時に将来に約束された出来事を思い出すためでもあります。私たちはどうしても、自分の目で見える範囲の世界だけを考えて生きる傾向があります。ですから、自分の周りの世界が同じ繰り返しのように見えると、あたかもそれが永遠に繰り返していくように思えてくるのです。今年は戦争が大きく注目されています。また、夏のこの時期には私たちも戦争を思い出します。一般の人々にとって戦争はいきなり起こって、人生のすべてを一瞬で吹き飛ばしてしまう出来事でしょう。人々はそれが勃発するまで、入園、入学、受験、進学、卒業、就職、転職、起業、退職、結婚、出産、子育て、入院、介護などなど、人生の色々なことに忙しくしていました。しかし日常のことがすべて吹き飛んでしまいました。そうして焼け野原になったところから、あるいは逃れていった異国の地で、ひとつずつ日常を取り戻して来たわけです。

 この世界は広がりのある世界です。個人の人生は、所属するグループ(家族、学校、会社など)によって影響され、グループは地域社会によって影響され、地域社会は日本の国によって影響され、国は世界によって影響され、世界は宇宙の環境の変化によって影響されています。より大きな世界の動きは小さな世界の動きを無視できるほどの影響力があります。聖書は宇宙よりも大きな世界の話をしています。単なる「作り話」ではなく、実際に歴史に影響を及ぼしてきた出来事です。
 主の民イスラエルは度々、聖書を読まなくなり、主を忘れてしまいました。そしてついに約束の油注がれたイエス様が来られたのに、何が起こっているのか分からず、イエスを十字架につけろと叫んだのです。私たちはどうでしょうか。私たちは一体どなたを待ち望んでいるのか、今日も思い出しましょう。
 今日の聖書箇所をお開きください。エズラ記4:1-10(820ページ)【聖書朗読】
 
 エルサレムにユダヤ人が帰ってきた時、彼らは主に3回に分けて、エルサレムに帰ってきました。第1陣のリーダーはゼルバベル、第2陣はエズラ、第3陣はネヘミヤです。ゼルバベル、エズラ、ネヘミヤと順番を覚えておくと、大体の時間の流れがつかめると思います。今日の箇所はゼルバベルが出てきますので、ユダヤ人がエルサレムに帰ってきた最初の頃の出来事です。この第1陣がエルサレムに帰ってきた時、どのような人々がそこに住んでいて、彼らを迎えたのでしょうか。今日は「その地の民(4節)」と呼ばれている、当時の原住民に注目してみたいと思います。
 かつての南北イスラエル王国は、北はアッシリア帝国に、南はバビロン帝国に滅ぼされました。敵の軍隊が攻めてきて、戦争となり、敗北したのです。私たちは平和な時代に生きていますので、こういう時に何が起こるかイメージしづらいかもしれません。何が起きるのでしょう。敵が攻めてくれば、ほとんどの人は侵略者に立ち向かいます。しかしわずかに他の地域に逃げる人も出てくるでしょう。侵略者が勝利すると、戦利品を分捕っていきます。その時にイスラエル人は強制連行されていきましたが、すべての人が連れ去られたのではありませんでした。連れていくにも手間や食料がいるのですから、役に立つ人たちだけが連れて行かれたのです。残ったのは、役に立たないからと置いていかれた人たちと、一時的に逃げていて、戦いの後に戻ってきた人たちです。哀歌は南ユダ王国が滅亡した後に、その土地に残された人の悲惨な状況を描いています。そして、その土地に外国人たちが連れてこられました。II列王記17:24~《アッシリアの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そしてセファルワイムから人々を連れて来て、イスラエル人の代わりにサマリアの町々に住まわせた。こうして、彼らはサマリアを占領して、その町々に住んだ。彼らはそこに住み始めたとき、【主】を恐れなかったので、【主】は彼らの中に獅子を送り込まれた。獅子は彼らの何人かを殺した。彼らはアッシリアの王に次のように報告した。「あなたがサマリアの町々に移した諸国の民は、この土地の神についての慣わしを知りません。それで、神が彼らのうちに獅子を送り込みました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの土地の神についての慣わしを知らないからです。」そこで、アッシリアの王は次のように命じた。「おまえたちがそこから捕らえ移した祭司の一人を、そこに連れて行け。行かせて、そこに住まわせ、その土地の神についての慣わしを教えさせよ。」こうして、サマリアから捕らえ移された祭司の一人が来てベテルに住み、どのようにして【主】を礼拝するべきかを教えた。しかし、…(33節)彼らは【主】を礼拝しながら、同時に、自分たちが移される前にいた国々の慣わしによって、自分たちの神々にも仕えていた。》
 ゼルバベルたちがエルサレムに帰ってきた時、ユダヤ地方にどんな人たちが住んでいたのか、詳しくはわかりません。しかし、国が滅亡した時に置いていかれた人たちと、外国から連れてこられた人たちと、彼らが結婚して生んでいった子孫たちがいて、ヤハウェも礼拝されていましたが、他の神々も同じように礼拝されていました。土地から引いていかれてバビロンで暮らしていたユダヤ人たちは主だけを礼拝し続けていましたが、土地に残った人たちは主と他の神々を一緒に礼拝するようになりました。とても皮肉なことです。アブラハムが最初にやってきた時のカナン人のようですね。
 その地の民は、ペルシャからユダヤ人たちが帰ってきて、ヤハウェの神殿を建設するというので、一緒に建てたいと言いました。イスラエル人の血を引いている人もいたわけですから、親近感をもっていたのでしょう。ペルシャからやってきた新しい勢力をうまく取り込みたいという政治的思惑もあったかもしれません。みなさんだったら、この状況で彼らに神殿建設を手伝ってもらうでしょうか。彼らもヤハウェにいけにえをささげて礼拝していたんだからいいじゃないと思うでしょうか。しかしゼルバベルは彼らを神殿建設には関わらせませんでした。この出来事はこの時代を象徴しています。この時代のひとつのポイントは、ただひとりの主だけを礼拝していた国が滅びて、主が他の神々と同じように扱われるようになってしまった世界で、主だけを礼拝する民が復活したことにあります。
 戦争でバラバラになってしまい、70年経ってしまったのです。主の民は誰と誰と誰なのでしょう。古代イスラエル人の家系図をもっていたら主の民でしょうか。ヘブル語を話せたら主の民でしょうか。その土地に所有地があれば主の民でしょうか。ゼルバベルの基準は、「主だけを礼拝する人」でした。
 この出来事もまた、今日の教会に当てはまることです。私たちはいつも人びとを歓迎しています。私たちが依り頼む主を知っていただきたい。礼拝の様子を感じていただきたい。祈りとみことばの恵みを味わっていただきたい。そのように願って、人々が礼拝の場に足を踏み入れてほしいと思っています。古代の主の民も、周辺の民の祝福となるために選ばれたのです。ゼルバベルが建設した神殿も、神を恐れる異国人がやってきて祈るようになりました。主イエス様も異邦人の庭に人々がやってきて、主に祈ることを喜んでおられました。しかし、教会の中にさらに入っていくには段階があります。礼拝や活動の組み立てに加わるには段階があります。それは主だけを信じ、主にだけ依り頼む人たちによって行われなければならないことです。その場に居合わせたからという理由で一緒にすることはできません。
 一方で、主だけを礼拝する人々は離れていても一緒に働きをします。いえ、一緒に働きをしなければなりません。エズラ1:2-4を読んでみましょう。《「ペルシアの王キュロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私にお与えくださった。この方が、ユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された。あなたがた、だれでも主の民に属する者には、その神がともにいてくださるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、【主】の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。あとに残る者たちはみな、その者を支援するようにせよ。その者がどこに寄留しているにしても、その場所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んで献げるものに加え、銀、金、財貨、家畜をもってその者を支援せよ。』」》エルサレムに帰ってきた人たちとペルシャに残った人たちは互いに離れていますが、一緒に神殿建設をしなければなりませんでした。彼らは離れていても、主だけを礼拝する民としてひとつだったからです。
 新約聖書時代にも、土地を追われた人たちが帰ってきた場面がありました。ローマ教会のことです。ローマは今のイタリアにあります。その名の通りローマ帝国の主都です。そこにもクリスチャンの教会がありました。ある時、ローマの町からユダヤ人が追放されたことがあります。ローマ教会からもユダヤ人クリスチャンがいなくなってしまいました。残ったのはユダヤ人以外のクリスチャンたちです。数年してユダヤ人の追放令が解除され、ローマの町にユダヤ人が帰ってきました。ローマ教会にもユダヤ人クリスチャンが帰ってきたのです。Happy、Happyかと思いきや、ユダヤ人クリスチャンとユダヤ人以外のクリスチャンとで衝突してしまったといいます。なんということでしょう。その時、パウロはローマ教会に手紙を書いて、このように言いました。《かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。(ローマ15:4-6)》主だけを礼拝する人々は、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても同じ思いをもって、心を一つにするように言われています。
 教会はとても不思議な群れです。奈良県だけでもいくつの群れがあるでしょうか。私たちはバラバラなのでしょうか、ひとつなのでしょうか。私たちは離れていても、ひとつなのです。その鍵は「かつて書かれたもの」すなわち聖書です。ここには私たちがどこから来て、今何をしていて、やがてどこに行くのかが書かれています。これをいつも思い出していることで、同じ思いを抱くことができるようになります。
 群れのメンバーは年々変わっていくものです。私たちがもし井の中の蛙であったなら、群れに入ってきた人と前からいた人たちとで摩擦が起こるでしょう。しかし、私たちがみことばに根ざしていれば、どんな背景があって、文化が違う、趣味が違う、好みが違う、ことばが違う、ということがあっても、同じ思いをもって、心を一つとして、ただひとりの主をあがめることができます。
 主だけを礼拝することが、主の民であることの核心です。聖書の主を頼って、他のも頼っているのではなく、ただ主だけを頼みとすることです。その告白は洗礼の時に行いますが、ただ一時のことであってはいけません。ユダヤ人を見てください。彼らは選ばれたけれども、他のものに頼った人々は滅ぼされたのです。ただ主だけを信じ、主に依り頼み続けることです。
 そのような人々は離れていても、同じ思いをもって、ひとつとなって働きます。その鍵は聖書を忘れないことです。もうしっかり覚えていると思っても、私たちは簡単に忘れてしまいます。古代イスラエル人がそれを証明しました。出エジプトの神を礼拝しようと言って、金の子牛を作って拝んだのです。何となくぼんやりとしか覚えていないと、そうなってしまいます。
 みことばに根ざして、聖書が示している将来の希望を一緒に見て、心を一つにし、共に主をあがめようではありませんか。
 
 
お祈りいたします。《ゼルバベルとヨシュアと、そのほかのイスラエルの一族のかしらたちは彼らに言った。「私たちの神のために宮を建てることは、あなたがたにではなく、私たちに属する事柄です。…」》
 
 天の父なる神様。私たちが耳にするすべてにおいて、あなたのような方はほかになく、あなたのほかに神はいません。また、地上のどの国民があなたの民のようでしょうか。神ご自身が呪いの十字架にかかられて、罪を贖い、私たちを救い、復活にあずからせてくださいました。どうかあなたの恵みをいつまでも忘れないで、はっきりと覚えていることができますように、あわれんでください。
 聖書を私たちに与え、同じ希望を示してくださったことをありがとうございます。私たちはあなたが造られたように、個性豊かで、またあなたが導かれるように、あちらこちらを行き巡っています。それぞれの群れに流動性を与えて、よどみを流してくださることを感謝いたします。もし私たちがイエス様の教会から外れて、井戸に落ち込むようなことがあれば、み言葉に照らして、私たちに気付きをあたえてください。主だけに依り頼む人々と共に、いつも心を一つにしていられますように助けてください。
 どうか、忍耐と励ましの神が私たちに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、私たちが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン

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