2022.8.28主日礼拝「王の心を動かす」エズラ記7章11~28節

 


朝夕に吹く風が夏の終わりを感じさせる季節になりました。奈良ではコロナ禍も少しずつ和らいできて、希望が見えてきました。夏休みも終わりの週。みんな、少し疲れも出てくる頃です。「生ける水」を聖書からいただこうと心の食卓の席に。今日もリアルに、またオンラインで礼拝の席につきます。(Re)

[礼拝メモ] 中尾敬一先生

おはようございます。先週はゲストを迎えて特別礼拝をもたせていただきました。まだ余韻が残っているような感じがしますが、今日は通常の礼拝をもたせていただいています。普通の日があるので特別な日は特別になります。落ち着いた礼拝の時を味わいたいと思います。

 来年に教会の60周年を迎えますので、みなさまにお証を書いていただいております。一応、最近10年のことから書いてくださいということですが、振り返れば10年位はあっという間に過ぎてしまうものですね。今、エルサレムに帰ってきたユダヤ人を見ています。前回はゼルバベルの時代、今日はエズラの時代を見たいと思っています。ページにして数ページですが、実は何年も時間は経っていて、第1陣の人々はもう先輩の人々になっています。さて、教会においても私たちにはいつの間にか「先輩になる時」というものが必ずやってくるものです。たいていは知らないうちに先輩になっていて、ある時に気付くということでしょう。証を書こうとして考えてみたら、もう○年経っていたと気づかれた方もおられるかもしれません。もちろん、教会は後の者が先になるところですから、先輩が後輩に権威を振りかざしたり、支配したりしてはいけません。しかし、後輩が先輩の背中を見ているということはあるわけです。誰しも、最初は加わったばかりの人です。色々と聞きながら、見ながら、教えてもらいながらやっていくわけです。ところがある時、「これはどうするのですか?」と聞かれる時がやってきます。え、言われたようにやってただけなんだけど、と思いますが、もう先輩は卒業してしまいました。大変なことです。
 そういうわけですから、私たちはいつの間にか先輩になってしまうのですから、教会の基本線(筋、方針)を学んでいかなければなりません。それは神のみ心(ご計画)と聖書に書かれていることです。教会のかしらはイエス様だからです。ここで失敗しますと、主のみ心を押しのけて、人間の教えが入ってくることになります。イエス様がユダヤ人に指摘しておられたことです。イエス様はタラントの例えで、タラントを土に隠しておいた人を非難し、タラントを用いた人を称賛されました。あの話のひとつのポイントは、タラントを用いたしもべが主人の心を分かっていたということです。主人の喜びを共に喜ぶことができました(マタイ25:21)。私たちもそうありたいと思います。
 今日の聖書箇所をお開きください。エズラ記7:11-28(825ページ)【聖書朗読】
 
 ペルシャのキュロス王の通達によってエルサレムに帰ることを許可されたユダヤ人たちは、ゼルバベルに率いられて約束の地に帰り、主の神殿を前と同じ場所に建設しました。それが第1陣の人たちです。今度は第2陣がエズラに率いられてエルサレムにやって来ようとしていました。当時ペルシャを治めていたのはアルタクセルクセス王でした。彼はペルシャ人ですし、ユダヤ人の神を「あなたがたの神」と言っていますので、主に仕えていたわけではありませんでした。しかし、この命令にあるように、律法学者で祭司(アロンの子孫)であったエズラを王室の金庫から支出してまでサポートし、エルサレムに送り出しました。ゼルバベルを送り出した先代のキュロス王と同じように、このペルシャの王はユダヤ人を支援したのです。この様子を見て、エズラは主をほめたたえています。主がこのことを王の心に起こさせたと告白しています(27節)。
 ペルシャ帝国の時代となりますと、それ以前の時代と比べて聖書以外の資料も多くなってきます。一般の世界史でもキュロス王やアルタクセルクセス王について色々と詳しく言及されています。それらの歴史書を読んでも、ユダヤ人の神ヤハウェがペルシャの王の心に働いて、ユダヤ人をエルサレムに帰還させたとは書いてないでしょう。ペルシャはバビロン帝国を征服した後、諸民族の統治の方法を転換したとあるのではないかと思います。
 帝国は現在には一応存在しないことになっていますが、近代までは存在していました。国の上にあるもうひとつ大きな組織です。帝国の皇帝は「王の王」と呼ばれています。国々の王たちの上に君臨する王ということです。皇帝にとって、支配下にいる諸国の民をどのように統治するかはいつも問題でした。北イスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国は、一定の人びとを土地から移住させて、その土地に別の民族を入れ、民族間で結婚させることで、民族の血を混ぜていきました。南ユダを滅ぼしたバビロン帝国は優秀な人びとを首都に連行して働かせました。バビロン帝国を征服したペルシャ帝国は、諸民族を土地に帰らせ、それぞれの宗教を大切にさせ、穏和な政策で忠誠を得ようとしました。ユダヤ人は帝国内の数多くいた諸民族のひとつでしかありません。そうすると、「ユダヤ人は偶然に偶然が重なってエルサレムに帰り、神殿を作ることができたのだろう」と、ある人たちは言うのでしょう。自分たちに都合よく物事が運んだから、ヤハウェは王の心に計画を与えたと言っているのだろうと。でも、そうではありません。
 エズラは主のご計画をよく知っていて、御心の通りに物事が進んだので、主が王の心に働いておられることが分かったのです。聖書を学んでいたので主のみ心を知っていました。エレミヤ書30:10-11《わたしのしもべヤコブよ、恐れるな。──【主】のことば──イスラエルよ、おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、脅かす者はだれもいない。わたしがあなたとともにいて、──【主】のことば──あなたを救うからだ。わたしが、あなたを追いやった先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、あなたを滅ぼし尽くすことはない。ただし、さばきによってあなたを懲らしめる。決してあなたを罰せずにおくことはない。》(いくつかある預言のひとつです。)主のことばのように、バビロン帝国が滅び、次に起こった帝国がユダヤ人をエルサレムに帰しました。皇帝は主に仕えていたわけでも、主のことばに従おうとしたわけでもありませんでした。エズラ記だけを読むとまるでそのだったかのように思えるかもしれませんが、ユダヤ人だけを優遇したわけではありません。彼は自分の帝国の統治を自分で考えて、自分で実行したと思っていたでしょう。バビロン帝国よりも自分のほうが上手い具合に統治しているぞと考えていたかもしれません。しかし、主はすべての上におられて、人の計画も自由自在に主のみ心のために使うことがおできになるのです。
 エズラは、ユダヤ人に都合の良いことを述べたのではありません。エレミヤの時代に、偽預言者たちは主の民が数年の内にバビロンから解放されると語りましたが、それは主のことばではありませんでした。本物の主のことばは、バビロンで家を建てて住みなさいと語っていました。私たちは目の前で起こっている出来事をどのように見るべきでしょうか。聖書に明らかにされている主のご計画(聖書の物語)に照らし合わせて見るべきなのです。
 さて、主のあわれみによって、ユダヤ人は滅ぼし尽くされませんでした。バビロン帝国は支配力を失い、ペルシャ帝国の穏和な政策の下で彼らは「解放」されました。民族を保ったまま帝国内のあらゆる町々に住み、礼拝のための会堂を建て、エルサレムには神殿が建設されました。ところが今までとは違うことがありました。大昔にエジプトから解放された時はイスラエル人は独立していたのです。今回は皇帝のサポートがあるとはいえ、上には帝国がある状態での解放でした。これまでにない状態での解放でした。
 アブラハム以降の主の民は色々な形で世に置かれました。最初は街の合間を放牧して生活する遊牧民でした。それからエジプトのゴシェンに居住する民族となりました。エジプトから出て、荒野を回遊する民族となりました。カナンに土地をもつ民となりました。王様のいる独立王国となりました。バビロン帝国の捕囚の民となりました。そしてペルシャ帝国の各地に住み、エルサレムに神殿をもつ民となりました。果たして主はご自分の民をどのような国の民となさりたいのでしょうか。まるで陶器作家が作品を作っては壊し、作っては壊して、良いものを生み出そうとしているようです。まるで温められた金属から不純物が除かれて固まり、また熱せられてさらに不純物が取り除かれていくようです。
 かつてイスラエル人が王国を持っていた時、彼らは周りの国から独立していて、油注がれた王がいるので大丈夫だと思っていました。神の恵みと愛に満ちた素晴らしい国が与えられたと考えていました。ところが油注がれた王たちは主に背いて、民を支配し始めたのです。独立王国があるから大丈夫なのではない。イスラエル人の王がいるから大丈夫なのではない。主を恐れる者たちを、主が守り、祝福してくださる時に安息があるのです。今度、主はユダヤ人の上に外国の王を立てました。外国の王が上にいても、主が共にいてくださるなら恐れることはないと学ぶためでした。
 この時代は私たちの現状と似ています。私たちが住んでいる国も、主を恐れる人たちによって治められているわけではありません。彼らは彼らの考えで政治をしています。私たちは選挙などで関与ができますが、それほど深いものではありません。それでは「クリスチャンは多くの信仰者を国政に送り出さなければ!」となるのでしょうか。クリスチャンが国会議員になれば神の国は実現していくのでしょうか。いいえ、そうではありませんね。クリスチャンが政治家になることは別に悪いことではありませんけれども、それで神の国が実現するのではありません。古代イスラエル人を思い出してください。主を恐れる人が政治をすれば、国は良くなったのでしょうか。逆に主を恐れない人たちに治められていた時には、主はご自分の民を守ることができなかったのでしょうか。どちらも違います。主を恐れる人が政治家になったとしても、目を覚まして、主のみ言葉に従っていなければ、主を恐れない人々と同じになってしまいます。一方で主を恐れない人たちが、自分たちの方法で、自分たちの手で政策を行っていても、彼らが気付かない内に、主は自由に働くことがおできになります。主はすべてのものの上におられるお方だからです。結局のところ、大切なのは私たちが主を恐れ、神のみ言葉(神の物語)に従うことです。政治家にクリスチャンが少ないからといって慌てたり、怖れたりすることはひとつもありません。かつて臆病者だったペテロは、イエス様の昇天の後、迫害を受けた時、あのイエス様に無実の罪を着せた法廷の中で《人に従うより、神に従うべきです(使徒5:29)》と言いました。ペテロは神の右に座しておられるイエス様を知っていたので、慌てたり、怖れたりする必要がなかったのです。
 神の国の到来は私たちの努力によるのではありません。それは実現させるものではなく、やって来るのです。主イエス様が帰ってこられる時、神の国は完全にやってきます。イエス様は王の王、主の主です。イエス様が帰ってこられるまでは不安だという意味ではありません。今も主イエス様はすべてのものの上におられ、主を恐れる者たちを守っておられます。今でも私たちは何も心配していないし、怖れていません。しかし、それが私たちの目に見える形で完全にやってくる日がきます。主の日が来ます。イエス様の到来は《稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現》します。ですから、すべての人に明らかです。「あなただけに特別に神の子の再臨を教えましょう」これは嘘です。「実は中国でイエス様は再臨されて、今は女性の姿をしておられます。(全能神教会という異端の教え)」そんな訳ありません。地のすべての部族がイエス様の到来を見るのですから(マタイ24:30)、「あなただけに教える秘密」と言われたら絶対に嘘です。
 イエス様が帰ってこられる、その日は来ることが決まっていて、後はすべての人が救われてほしいと願う主の情熱と、罪と悪に対する主の忍耐がどれほど続くかだけです。イスラエルで、偽預言者たちが「平安だ、平安だ。私たちは守られる」と叫んでいる中で、王国が滅ぼされてしまったように、この世界もすべての人に明らかな形で終わり、王の王であるイエス様が帰ってこられます。ですから、私たちは落ち着いた生活をし、ただ主を待ち望んで、何も思い煩わないで歩むことです。イエス様を信じているなら、誰が上にいようと恐れることはないと、この良い知らせを人々に伝えていきましょう。
お祈りいたします。《私たちの父祖の神、【主】がほめたたえられますように。主はエルサレムにある【主】の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王とその顧問と、王の有力な高官すべての前で私に恵みを得させてくださった。》
 
 天の父なる神様。キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。(Iテモテ6:15)私たちの主よ。あなたの導きと守りに心から感謝いたします。
 今日もあなたの安息の日を待ち望み、兄弟姉妹とともに、あなたを礼拝できる恵みをありがとうございます。あなたはすべての権威を打ち砕き、最後の敵である死にさえも勝利されました。あなたを恐れる者たちは一体何に怯えることがあるでしょうか。この世界の歴史には、数多の帝国が次々に興り、世界の覇権を握ってきました。しかし主の民の歴史以上に長続きした帝国はひとつもありません。まことの神の国よりも長く続く国はありません。主の民が征服されたように見えても、それは一時のことであり、王の王である主が、その翼の下に民をかくまっておられたからです。ある人々が、自分たちの仲間を政界に送り込むことに必死になっています。主よ。どうかあなたの深いあわれみによって、その偽りの教えを暴いてください。まことの神を知っていれば、そんな必要はないのです。
 私たちは落ち着いた生活をし、あなたが帰ってこられる日を待ち望んでいます。大騒ぎする必要はないと聖書にありますから感謝いたします(Iテサ4:11)。かつて先人たちは迫害されて、闘技場に引かれていき、ライオンに喰われても、恐れなかったといいます。王の王、主の主を知っていたからです。その姿を見て、多くの人たちがクリスチャンとなり、ローマ帝国の王までもクリスチャンになりました。
 天からの平安が、今週も私たちの内にあり、人々がそれを見て、あなたのみ名をあがめますように。主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

礼拝後はそれぞれの組会活動があり、
今回エステル会では主任牧師のお母様である悦子先生から聖書のお話と美しい讃美歌を聞かせていただきました。(Re)





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