2022.8.7 主日礼拝「聖書の朗読」ネヘミヤ記8章1~12節













(21日には特別礼拝があります。ご来会ください)

暑い暑い週になりました。感染者は奈良では高止まりですが、注意しつつウィズコロナの感覚で過ごします。今日も独りでは読みにくい旧約聖書の難解な箇所を先生の説明付きで読んでいきます。「主を喜ぶことはあなた方の力」という私たちの心にもピンとくる言葉の入っている箇所です。その歴史的、信仰的背景。聖書に使われていることばの一つ一つの深い背景。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

 おはようございます。6日間の働きを終えて、こうして主イエス様の復活の朝に兄弟姉妹と共に集い、感謝と喜びの時をもっています。心から主に感謝いたします。

 今日も聖書を開き、主が情熱をもって教えようとしてくださっていることに心を開きたいと思います。そう思いながら、私が最近、心を痛めていますのは、巷を騒がせています異端問題です。一般の人々の関心は、カルト(反社会的行動で人権侵害を行っている)問題であり、その団体と政治の癒着です。これはもちろん由々しき問題であり、主はこれを放っておかず、隠れたものを明らかになさいました。しかしそれに加えて、聖書が悪人によって利用されて、好きなように解釈が施され、人々が騙されているということが本当に悲しいです。
 イエス様の弟子のペテロは手紙の中で《聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。(IIペテロ1:20)》と書いています。聖書は目に見えないことを教えていますので、誰かが好き勝手にこじつけて、なんとなく筋が通っているようにお話を作ってしまえば人を騙せてしまいます。主はそのことをご存知だったでしょう。それで歴史に乗せて御言葉を与えてくださいました。聖書がこれだけの文量なのには理由があります。表表紙から裏表紙まで3500年もかかったのに理由があります。
 ある方は今まで信じていた異端の教えが間違っていると自分で気がついたそうです。自分が聖なる書物として読んでいた本に書かれている聖書の引用を、実際に聖書を開いて調べてみたのだそうです。そうしたら、聖書にその文言は見つかったけれども、全然違う話をしていると分かったということでした。
 もし聖書が箇条書きの真理のお言葉の羅列だったとしたら、上から読んでも下から読んでも、途中を抜き出し、あっちとこっちを繋いだり、何でもやりたい放題です。しかし聖書は歴史の中で語られ、明らかにされ、検証されてきたメッセージなのですから、好き放題にこじつけた解釈をさせないように語られているのです。人々が騙されてしまわないように、これほどまで注意深く語られている聖書です。主の愛がこもっていると思います。しかし現実には異端問題があり、人々が恐怖心に縛られて、本当に大切にすべき人たちを傷つけてしまっている様子は穏やかには聞いていられません。このようなYouTube配信も、何かの助けになればと願っています。「異端・カルト110番」というウェブサイトもありますので、参考にしてください。
 さて、今日の聖書箇所をお開きください。ネヘミヤ記8:1-12(846ページ)【聖書朗読】
 
 外国に強制移住させられて、70年が経ち、最初の世代は寿命を迎えて、新しい世代に生まれ変わっていました。そのような頃がエズラ記、ネヘミヤ記の時代です。
 この70年間が意味することについて、興味深いことがII歴代誌36:21に書いてあります。《これは、エレミヤによって告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た。》ユダヤ人たちが国を滅ぼされて、その土地からいなくなってしまったのは、その地が安息を得るためだったというのです。
 安息という言葉をもう一度思い出してみましょう。これは準備が整って、すべての物事が配置され、王である主が王座に着かれた様子を表す言葉です。ダビデ王がすべての敵との戦いを終えて、国が平和になり、王冠を受けた時、イスラエルは安息を得ました。ですから、安息を得た状態は、全てが準備されて整えられていること、衣食住が豊かにあること、平和であること、人々が神を愛し、隣人を愛して社会を築き上げていること、環境汚染や災害、病気がないこと、まことの神である主があがめられていることなどを統合的に指しています。人はすべての被造物の中で特別に神のかたちに造られ、神の業の管理人として世界にいるのですから、人が世界にいて働いているときこそ、世界は安息を得ているはずです。それが本来の姿です。ところが、エルサレムはユダヤ人たちがいたので安息がなく、ユダヤ人たちが土地から取り去られてしまった時に安息を得たと言われています。とても皮肉なことです。
 しかしこれは私たちにも心当たりがあるのではないでしょうか。例えば環境破壊を考えてみても、本来は人が適切に管理すると自然は健康的に育っていくことができますが、色々な場所で見聞きする環境破壊を考えれば、むしろ人がいなくなったほうが自然環境には良いのではないだろうかと思えてくるのではないでしょうか。
 カナンの地は、主の民がそこに住んでいるがゆえに世界のただ中で安息の地となり、祝福をすべての部族に広げいていくはずの場所でした。ところが民は主を忘れ、他の神々により頼み、自ら呪いを選んだので、安息の地は彼らのゆえに安息を失い、正義と公正はなく、貧しい人たちが恥を受けていました。主は長らく忍耐しておられましたが、彼らはついにカナンから追放されてしまいました。
 70年が経ち、世代が入れ替わって、その中からエルサレムに帰る人たちが起こされました。彼らはエルサレムで主の神殿を再建するために、住み慣れた場所を離れて、出かけていきました。彼らが再び約束の地に置かれたのは、その土地が安息の地であるようにするためです。もし彼らが先祖の失敗した道を歩まないで、祝福を選び取るなら、「彼らがいるから安息がない」というめちゃくちゃな状況にはなりません。むしろ「彼らが神の業の良い管理人であるからこそ、安息が与えられている」と言われるでしょう。
 主は新しい世代の人たちに働きなさいました。エルサレムに人びとを帰らせ、神殿と城壁を再建させました。主に動かされたゼルバベルが神殿を再建し、ネヘミヤが城壁を建て直しました。そして建物だけではありません。民は主が定めたカレンダーを再開しました。祭りを行ったのです。主の民の祭りは、出エジプトをいつまでも忘れないために、主によって定められた記念の日です。第7の月は仮庵の祭りを行うと決められていました。仮庵(仮住まい)の祭りは荒野の40年間に先祖たちがテント生活をしていたことを思い出すための祭りです。テントを作って、そこで1週間過ごします(レビ23)。こうして、イスラエルがカナンに初めて入った頃のように、主の民としてのあり方を一つ一つ取り戻していったのです。
 取り戻したと言いましたが、よく注意して考えていただきたいことは、今の世代の彼らにとっては初めてのことだったということです。民族としてはあるべき姿を取り戻したのですが、バビロンで生まれ育ち、初めてエルサレムにやってきた新しい世代の人たちにとっては初めてのことでした。彼らは古くから仮庵の祭りで行われていた律法の朗読を行いました(申31)。それが今日開いた箇所です。律法とはモーセの五書のことで、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。ヘブル語でトーラーと言いますが、これを律法(Law)と翻訳すべきかどうか、近年では議論があります。モーセのトーラーは法律というより、物語だからです。彼らは聖書の朗読を聞いていました。「初めに神が天と地を創造した」から始まって、天地創造、エデンの園、カインとアベル、ノアの箱舟、バベルの塔。そしてアブラムが登場します。アブラムがアブラハムになり、イサク、ヤコブ、ヨセフの物語です。そして出エジプト。シナイ山、荒野、エリコの偵察、また荒野で40年。もう一度エリコの手前まで戻ってきて、シナイ山で教えられた主の教えを再確認して、モーセの五書は終わります。そこには、主の民には「祝福といのち、呪いと死が前に置かれている」と書いてありました。もし主以外のものに依り頼むなら、呪いと死が待ち受け、民は外国に連れて行かれるとハッキリと書いてありました(申28)。
 律法を聞いた民は泣き出しました。バビロンで受けていた民族の辱めは、自分たちの罪のためだと分かったからです。主は千年以上も前に、モーセを通して、祝福の道と呪いの道を教えておられたのです。主に依り頼むことをやめてしまうなら、国を失うと律法には書いてありました。「こんなにも一生懸命、主は民に語っておられたのに、私たちは主のことばを台無しにしてしまった」と。また彼らには先祖の罪だけでなく、自分たちの罪についても思い当たる節がありました。エルサレムにやってきて真っ先に主の神殿を建てるぞと意気込んでいたのに、実際には周辺民族の妨害に気落ちしてしまい、また日々の生活に没頭して、神殿建設を中断したり、城壁を諦めようとしたりしてきたのです。神の国とその義を第一に求める心に欠けていると思い当たったのでした。「私たちも先祖と同じことをしているではないか」と心が刺されたのです。
 しかし、その時は仮庵の祭りの時でした。ネヘミヤとエズラとレビ人たちは、今日は主が定められた祭りの時ですよと言いました。律法にある祭りの規定には決まり文句が付いています。《祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、寄留者、孤児、やもめもともに喜び楽しみなさい。(申16:14)》祭りの時はいつも民がみんなで食事をして、主の御前で喜び楽しむように言われていたのです。イスラエルの祭りは出エジプトを思い出すためのものだったからです。悪からの解放、荒野での養い、そのような主の愛を思い出すための時だからです。
 さて、エルサレムに帰ったユダヤ人の姿は、今日の私たちに重なってくるところが幾つもあるのではないかと思います。私たちは聖書を全く知らないところから、主を知るようになり、アブラハムの民に接ぎ木されました。イエス様の新しい契約による弟子の群れ、主の民、すなわち教会です。そこにいるはずだったユダヤ人の枝は除かれてしまい、接ぎ木された枝が残っている不思議な木です。私たちは父と子と聖霊の名による洗礼を受けて約束の地に帰ってきましたが、実際は初めてそこに入ってきたのです。そこには主が定められた習慣がありました。聖書を読むようにという習慣です。
 私たちはどうして聖書を読んでいるのでしょうか。読むと心が安定するからでしょうか。ビジネスがうまくいくからでしょうか。霊が高まるからでしょうか。Aにしたら良いかBにしたら良いか答えが浮かんでくるからでしょうか。主を知らない人たちのように聖書を読もうとすべきではありません。私たちが聖書を読むのは、私たちのあり方を思い出すためです。思い出すと言っても、私たちにとっては初めて知ることになるのですが。
 するとやがて私たちは主の情熱のことばを知っていくことになります。私たちの幸せをいつも願って、すべてのものを備え、導き、忍耐して、何度も赦し、ご自分の命さえも惜しまないで愛してくださった。ところが私たちはそれを台無しにしてきたのです。これは先祖の罪であるだけでなく、私たちの罪です。私たちもまた聖書が朗読される時、悲しみに襲われるのではないでしょうか。
 しかし、主のみ前で兄弟姉妹と共に喜び楽しむことを忘れてはいけません。レビ記23章で、主の定めた祭りの一番最初に来るのは安息日です。主に礼拝をささげる日は、民全体が(奴隷もレビ人も在留外国人も孤児もやもめも)主のみ前で共に食事をし、喜び楽しむようにと言われた日です。主の救いを記念する時だからです。
 そういう意味で、礼拝は聖書が朗読され、主のみ言葉が思い出され、私たちが悲しみとそれにまさる喜びを同時にもつ時なのです。とても不思議な感じがしますが、エルサレムに初めて帰ってきたユダヤ人たちと状況を重ねてみるなら、どういうことか分かってくるのではないでしょうか。これが歴史の物語の力です。物事の経緯を紐解いていくなら、私たちが今ここでどういう状態で何をしているのか見えてきます。
 そして歴史は未来への見通しを示します。やがて悲しみと喜びの礼拝から、悲しみが取り去られる時がやってきます。主イエス様が私たちを迎えに帰ってきてくださるのです。その日を待ち望みましょう。
お祈りいたします。《今日は、私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。【主】を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」… こうして、民はみな帰って行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。教えられたことを理解したからである。》
 
 天の父なる神様。私たちのためにこの素晴らしい世界を造り、そこに人を置いてくださった主よ。あなたは人を神の業の管理人、また神の同労者とされました。あなたと親しく交わり、ともに働き、世界に増え広がって、豊かな愛と恵みにあふれる社会を作っていくようにしてくださいました。しかし、私たちは主であるあなたを忘れ、あらかじめ警告しておられたことを知りもせず、自分の目に良いと思うことを行い、当然の報いを受けていました。そのような私たちを、あなたは見捨てようとせず、救い出してくださいました。あなたの深い愛とあわれみ、驚くべき恵みのゆえに、心から感謝いたします。
 今、あなたのみ元に帰ってきた私たちは、聖書を読み、本来のあり方を取り戻そうとしています。しかし主よ。聖書は私たちにとって非常に難解なのです。あなたが明快に示してくださることなしに、これを理解することができるでしょうか。あなたが約束してくださったことをどうか思い出してください。聖霊なる主はみことばを悟らせてくださるとおっしゃいました(ヨハネ14:26)。
 聖書を読み聞かせ、解き明かす人たちをあわれんで励ましてください。これから、この国はみことばを解き明かす人たちを失っていきます。主を知ることに飢え渇く時代が始まっています。どうかあなたの民を顧みて、あわれんでください。私たちはあなたの救いを聖書によって思い出し、いつも喜んでいたいのです。主を喜ぶことは私たちの力だからです。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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