2022.6.26上半期感謝礼拝「主と王と預言者の三者関係」1列王記22章1~28節


今朝は上半期感謝礼拝。半年に一度予定されている聖餐式を行い、パンと葡萄ジュースをいただきながら、数々の主の恵みを思い出し、キリストへの信仰を新たにする機会を持ちました。また、メッセージでは旧約聖書を通して、世にある「王」という存在の理解を深めました。人々は王を求めた。しかし、神はもともと王を立てることには反対されており、現代でも、牧師という存在は教会を治める王ではないことも!(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。今年も主の恵みのうちに上半期を過ごさせていただきました。旧約聖書から私たちクリスチャンのルーツ(信仰の祖先)を辿ってきました。太古の昔と変わりなく生きて働いておられる主は、私たちの人生にも伴って助け導いてくださっています。私たちの聖餐は、毎週の霊的な聖餐であれ、今日の目に見える聖餐式であれ、イエス様の最後の晩餐から続く、あの「余すところなく注がれた愛」の食卓です。そのテーブルに私たち専用の席があって、そこに座っています。十字架を見上げ、上半期を振り返りながら、イエス様のなだめの供え物ととりなしの祈りによって与えられつづけている、数々の恵みを思い返しましょう。
 聖書を読むこと。それは私たちが自分の家の歴史を知るということでもあります。主の民イスラエルはアブラハムの家でした。また後にはダビデの家とも呼ばれます。現代の私たちの感覚では、例えば日本人を指して、日本の家とは言いませんね。日本人の祖先がこの列島に来た時、ひとつの家族ではなかったからです。しかも北や南、また朝鮮半島から複数の経路でやってきて日本人となったわけです。しかしイスラエル人(ユダヤ人)の感覚では、国民はアブラハムから始まった大きな家族だという意識があります。アブラハム、イサク、ヤコブと歴史を辿っていくことは、自分たちの民族(国)の歴史を辿っているということです。そこにアブラハムの家族がありました。ところがイエス様の十字架と復活があってから、イエス様を受け入れないユダヤ人たちはアブラハムの家から追い出されて、イエス様を信じたユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがアブラハムの家に入れられました。これを神の家族といいます。私たちは神の家族の一員なので、イスラエルの歴史は私たちの先祖の歴史です。
 《わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)》感謝礼拝で頻繁に引用される詩篇の歌です。「主が良くしてくださったこと」と聞かれると私たちはこの半年間だけのことを考えてしまいがちです。ところが聖書を読むと、「主が良くしてくださったこと」の話には必ず歴史上の出来事が出てきます。今日も私たちのルーツに関わる、歴史上の出来事をお話いたします。そうすると世界を見る目が変わってくるでしょう。あれもこれも当たり前じゃないかと思っていたことが、当たり前ではないことに気が付き、感謝がわいてくることになります。
 今日の聖書箇所をお開きください。I列王記22:1-28(643ページ)【聖書朗読】
 
 毎週、テーマに沿った例として聖書にある出来事を紹介しています。今日、取り上げる歴史上の出来事はアハブ王と預言者ミカヤにまつわる出来事です。この出来事を見ながら、神と王と預言者の三者関係について思い巡らせてみたいと思います。
 私が王寺教会に来ました当初から、「私は王にはなりません」と申し上げてきました。一体何を言いたいのかと不思議に思われてきたことでしょう。実際に昨年のある時点で「王にならないとはどういう意味ですか」とある方から尋ねられたことを覚えています。その時はどのように答えたら通じるだろうかと考え込んでしまったように思いますが、今では以前よりは説明しやすくなってきました。イスラエルの歴史を振り返ってきて、「王」という存在の共通理解ができ始めていると思うからです。
 さて、王様とは何者でしょうか。主の民イスラエルには王様がいましたが、王は本来は存在しないはずの役職でした。サムエルの時代に民が主の御心に逆らって王様がほしいといったので、警告とともに与えられることになりました。それゆえに危うい存在であったわけです。王が主に従うかどうかは国民の祝福(あるいは呪い)を決めていくようになります。
 時代を遡りますと、約束の地カナンに入ってからしばらくの時代、イスラエルには王がいませんでした。これは周りのどの国とも違う、主の民の特色でした。彼らが王様なしで国を保つことができたのは、モーセの律法(創出レビ民申命記)を与えられていたからです。主から教えていただいた社会の保ち方を知っていたので、それに従うことで国が保たれていたのです。しかし、民はやがて律法を忘れてしまうようになり、国は不安定になりました。それで律法では駄目だ、他国のように王様がほしいとなったのです。主が民に提案した妥協案は、王を選ぶ代わりに、王は好き勝手に治めるのではなく、主のことばに従って民を治めなければならないということでした。ですから基本線は変わっていません。王は、民が聖書に従って歩むことを行わせる人であり、結局は民が主のことばに従う時に国は保たれるのです。
 では、預言者とはどのような役職でしょうか。預言者は主のことばを伝言する人です。はるか昔、アブラハムの頃、主は預言者を通さずに人に直接語っておられました。預言者が出てきたのはモーセの時です。主はエジプトから逃れてきた民に直接面会しようとしておられました。ところが主が山に降りてこられた様子があまりに恐ろしかったので、民は震え上がってしまって、モーセに仲介をお願いしたのです(出20:19)。民はモーセに「主のことばを代わりに聞いてきてください。私たちは必ずあなたが語ったことに聞き従います」と言いました。このことから預言者の役割が見えてきます。預言者は主のことばを伺い、それをそのまま人々に伝える人です。王と違うのは、預言者には人びとを動かす力がないということです。彼らは主のことばを告げますが、従うかどうかは人々の選択です。イスラエルの歴史では、多くの場面で預言者たちは無視されました。
 そういうわけですから、神である主と王と預言者には三者関係があります。主は王(民)に聖書を与え、それを守り行うように言いました。王(民)は主に対して、律法を行うと約束しています。主は預言者にことばを与えて、それをそのまま王(民)に伝えるように言いました。預言者は主に対して、御心を伺うと約束しています。そして王(民)は預言者に対して、彼らの告げる主のことばに従うと約束しています。預言者は王(民)に対して、主のことばを真っ直ぐに伝えると約束しています。これらの三者の関係がすべて約束の通りに正しくなっている時、国は神の安息のうちに保たれるのです。預言者が主に伺っておらず、自分勝手に話しているなら、王(民)は預言者の言うことに従う必要はありません。王(民)が聖書を守り行っているなら、預言者は何も言うことがありません。彼は王ではないので、民を支配することはありません。
 今日取り上げる例の出来事を見てみましょう。ダビデ王国は二つに分裂してしまいましたから、ここには北の王様と南の王様が登場します。北の王はアハブ、南の王はヨシャファテです。二人はアラム人に取られてしまった領土を奪還しようとしています。そのために一緒に戦おうと言っています。南のヨシャファテ王は戦いの前に《「まず、【主】のことばを伺ってください。」》とアハブ王に頼みました。そこは北王国ですから、アハブ王が預言者たちを集めることになりました。彼は約400人の預言者を集めて「戦いに行くべきか。それともやめるべきか」と尋ねました。彼らは口を揃えてアハブ王に答えます。「あなたは攻め上ってください。主は王様の手にこれを渡されます。」その様子を見ていた、南のヨシャファテ王はこれでは駄目だと思ったようです。400人も王様の前にずらーっと並んで、口々に戦いの成功を約束する光景は、私たちからしても異様に見えるのではないでしょうか。本当に主に伺ってから物を言っているのだろうかと。ヨシャファテ王は「他に主の預言者はいないのですか」と尋ねます。アハブは「もう一人いるが、私はあいつを憎んでいる。いつも私について悪いことばかり預言するから」と答えました。その預言者がミカヤです。預言者ミカヤはアハブの元にきて、最初は皮肉で偽預言者たちのモノマネをしていましたが、その後で主のことばを告げました。ミカヤは《「【主】は生きておられる。【主】が私に告げられることを、そのまま述べよう。」》と言い、アハブ王が偽預言者に惑わされていることを伝えました。話は続き、結局この戦いでアハブ王は戦死してしまいました。
 この出来事では、主と王と預言者の三者関係が崩れてしまっていることがわかります。預言者ミカヤは正しい姿勢をもっていますが、約400人の預言者たちやアハブ王は本来の役割を果たしていません。偽預言者たちは口を揃えて、王に対して良いことを述べていました。主に伺っている様子はひとつもありません。アハブ王はモーセの律法を守り行う様子もなく、預言者に従う様子もありません。自分に悪いことを預言する者は価値がないとさえ考えています。預言者ミカヤには聞くつもりがなかったし、主のことばを聞いた後も、その預言を拒否してしまったのでした。今回のアハブ王の出来事は数ある例のひとつでしかありません。この時代には、王たちは主の教えを守り行うことを忘れ、世の王たちと変わらず、一般的な帝王学に従っていました。
 さて、私が「王にはなりません」と申し上げてきた話に戻りたいと思います。私がそのように言う根拠は新約聖書にあります。イエス様は弟子たちに《あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。(マタイ20:25)》とおっしゃいました。また使徒パウロは《私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために協力して働く者です。(IIコリ1:24)》と言いました。使徒ペテロは《割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。(Iペテロ5:3)》と教えています。これらのことばは、要するに「イスラエル人の失敗を繰り返してはいけません」ということです。
 しかし、主の御言葉の奉仕をする人たちが「王にはなりません」と言うと、私たちはある意味で困惑してしまうのではないでしょうか。権力を使わないのだったら、あなたは何をする人なの。何のためにその役職に着いているのと思ってしまうかもしれません。そのようなケースを一般の世界で見たことがないからです。実はパウロも当時は《「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない」(IIコリ10:10)》と言われていたといいます。どの時代でも世の社会は力によってまとめられようとしてきたのです。御言葉を大胆に語る人が弱々しいとは不思議な光景なのでしょう。主と民と御言葉を伝える人の三者関係によって保たれる社会は、教会でしかみられない特別なものです。
 今年は「神の恵みを知り 恵みの群れとなろう」と掲げて半年を過ごしてきました。恵みの群れと「なろう」と書きましたが、正確には「していただこう」です。私たちがつくり変えられることも、私たちの努力によってではなく、主の恵みによってだからです。
 権力によってではなく、神のことばによって与えられる社会は、愛と恵みの社会です。主の贖いの大切な一部分です。聖書を読み、私たちのルーツを見ると、主がそのような社会を私たちに与えようとしておられると知ることができます。後は、私たちがそれを願うことです。主が良いと思われることを私たちの群れにもたらしてくださるように、祈りによって、喜んでそれを歓迎するだけです。主は御心をなしてくださいます。
 そして私たちが恵みの群れとさせていただくなら、私たちはすでに世の光、地の塩です。畑に埋まっている宝です。主はそのような群れに人々を送って、仲間に加えてくださいます(使徒2:41)。
お祈りいたします。《「【主】は生きておられる。【主】が私に告げられることを、そのまま述べよう。」》
 
 天の父なる神様。私たちに聖書を与え、ご自身の御心を明らかにしてくださった主よ。2022年の上半期も、この群れとともにいてくださり、あなたの愛と恵みを教えてくださったことをありがとうございます。
 アダムから始まる神の家族から追い出されていた私たちでしたが、イエス様の十字架と復活の贖いによって、もう一度、神の家族に入れていただけました。あなたの救いの恵みに心から感謝いたします。しかしながら、私たちは神の家族から長い間離れていましたので、あなたの家のあり方を本当に忘れてしまいました。神の家族の一員としていただいたのですから、私たちの姿もあなたの家にふさわしいものに変えてください。
 主であるあなたと、牧師と信徒の三者関係をどうか祝福してください。小さき者は主であるあなたに召されてここに来ました。あなたと約束をして、御言葉を真っ直ぐに語るために来ました。時が満ちるまで、この奉仕を誠実に果たすことができますようにどうか助けてください。
 これから下半期に入っていきます。さらに深くあなたを知らせ、私たちがあなたの恵みを心から喜ぶようにしてください。

 感謝して。主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。 

礼拝後みんなで賛美の練習

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