2022.5.29主日礼拝「油注がれたイエスの昇天」ルカ伝24章44〜53節


会堂の中には青空のオブジェがあり、天に登って行くイエス様のシルエットが掲げられています。それを見上げると、気持ちが高く神様に向かうことを感じつつも、その意味することがいまいち分かりづらかったのですが、今日のメッセージが解き明かしてくれました。(Re)
[礼拝説教] 中尾敬一牧師
おはようございます。イースターから40日が過ぎました。この朝はイエス様の昇天を記念する礼拝です。イエス様の昇天はとても重要な出来事であったにも関わらず、教会のカレンダーで飛ばされてしまうことの多いテーマではないかと思います。これは主のご計画の一場面ですけれども、私たちの日常生活とかけ離れた話のように感じるからかもしれません。私たちの日常生活にはいろいろなことが起こっており、全世界のために神様がなさっている業を考えている余裕などないのではないでしょうか。「そういうことはよろしくやっといてください。それよりも目の前にあるこのことはどうしたら良いのでしょうか。私はこんなことで悩んでいるのです。」と言いたくなるということでしょうか。

 そのような私たちにイエス様は、御父が私たちのことを心配してくださっていることを教えてくださいました。どんな小さな悩みでも天の神様は知っていてくださり、お一人ひとりの心配事を小さなことも大きなことも必ず解決してくださると教えてくださいました。主はあなたを価値ある人だと思っておられます。人々が何と言おうとも、あなたは主が目に留められるほど価値のある人です。ただし、イエス様はこうもおっしゃったのです。「あなたがそれを心配したからといって、それが解決されるでしょうか」と。天の父はあなたの悩みをすべて知っておられます。だから心配ありません。《まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。》
 主が何をしておられるのか知ることはとても大切なことです。私たちの目の前にある問題は、どこから解きほぐしていいか分からない、絡まった糸のようです。主のみこころを求めていくなら、何の繋がりもないと思っていた私の目の前にある問題が解けていくことを知るでしょう。
 そう言われても、イエス様のことばに従うことは簡単なことではありません。しかし、ここに集まっているクリスチャンは、その一歩を踏み出してみた人たちです。イエス様のことばが本当だと確かめてみた人たちです。多くの方がここに続いてこられることを願っております。
 今日の聖書箇所をお開きください。ルカの福音書24:44-53(174ページ)【聖書朗読】
 
 イエス様は復活されてから40日間、弟子たちの前に現れ、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを示されました。聖書を解き明かし、神の国のことを語られた後、イエス様は復活のからだで天へと昇っていかれました。イエス様が人の体をもって天に昇っていかれたということは、とても重要な出来事であったと聖書は言っています。ルカはルカの福音書と使徒の働きを前編・後編として書きましたが、その区切りはキリストの昇天でした。使徒の働きの書き出しを見ると《私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。》とあります。イエス様の十字架・復活・昇天によって、行いと教えが始まったと言っているのです。
 イエス様はクリスマスに人となって地上に来られました。処女マリヤから聖霊によってお生まれになったのです。それから三十数年の地上生涯を経て、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちからよみがえり、復活のからだで天に昇って、父なる神の右に着かれました。イエス様の昇天は幽体離脱ではありませんでした。霊である神が、人となって、また肉体を置いて帰っていったのではありません。受肉して、その完全なからだをもって天に昇られたのです。地上での一時的な仕事が終わって天に帰宅したのではないのです。完全な人となって天に昇ることは、神のご計画であったのです。
 ではそれが何を意味しているのか。イエス様の弟子たちは最初、分かっていませんでした。復活されれば、その次は神の国の再興が始まると思っていました。イエス様が昇っていかれるのを見て、これは何だと天を見上げていたのです。しかし、後になってイエス様のことが段々と分かってきました。それはイエス様が聖書を解き明かして、すでに説明してくださっていたからです。イエス様は《わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。》とおっしゃいました。すなわち、旧約聖書がイエス様の行動を説明しているということです。私が一生懸命、旧約聖書を順番にお話しているのは、それがイエス様に繋がっていくからです。
 さて、イエス様は天に昇っていかれました。高いところに登る場面を色々思い出してみてください。モーセはシナイ山に登りました。バベルの塔は高いところを目指しました。エルサレムは丘の上にあります。エデンの園も山の上と表現されています(エゼ28:13-14)。高いところに登るとは、天と地が出会うところに行くということです。天は主が住んでおられるところ、地は私たちが住んでいるところです。またイスラエルには神の幕屋があり、そこには至聖所と呼ばれる奥まった場所がありました。この至聖所も天と地が出会うところでした。
 その天と地が出会うところに、キリストは完全なからだをもって昇っていかれました。キリスト・イエスを指し示す、旧約聖書時代のキリストたちを思い出してみましょう。キリスト(メシア)は神に選ばれた油注がれた人と指すことばです。古代イスラエルで油を注がれたのは預言者と祭司と王でした。
 預言者は神のことばを人々に伝えるために油注がれた人です。アダムとエバは全被造物から違うものとして創造され、エデンの山の上で神のことばと息を受けました。山を降りて、神のことばを行い、被造物をお世話するようになりました。彼らは増え広がるように言われました。神のことばを受けて、それを行う人が増えていくようにと願われたのです。
モーセはシナイ山に登って、神のことばを受けました。降りていって民に主のことばを告げ、それを守り行うように言いました。彼はそれを書物に書き起こして、人々がそれを教えるようにしました。モーセの教えとは彼自身の言葉だけでなく、聖書となってより多くの人に伝わっていきました。油注がれた預言者は天と地が出会うところで神のことばを受けて、降りていって神のことばを行う(行わせる)人でした。しかし、これまでのどの預言者も、何かが欠けていたのです。ついに完全な預言者が現れました。神の御子イエス様です。油注がれた完全な預言者であるイエス様は天に昇り、そして聖霊が下りました。神のことばを伝え、それを行わせるためです。聖霊は誰に降ったのでしょうか。主イエスを信じるすべての人です。
 祭司は神のみ前に民をとりなすために油注がれた人です。祭司は人類の代表として、天と地が出会うところである至聖所に入り、とりなす人でした。祭司がいなければ、主の民は瞬く間にソドムとゴモラの二の舞いだったでしょう。主は祭司アロンに、その努めをどのようにするのか詳しく手順を教えなさいました(レビ記16章)。それによると、祭司はまず主に捧げ物と生贄をささげます。これは宥め(なだめ)と呼ばれる行為です。神の怒りを捧げ物と動物の生贄によってなだめるのです。その後、祭司は聖所に入っていき、民のすべての咎とすべての背き、すなわちすべての罪を主に告白します。これを執り成しと言います。そして、これで終わりではありません。聖所から出てきた祭司は民に向かって両手を上げて、彼らを祝福したのです(レビ9:22、民数記6:22-27)しかし、これまでのどの祭司も、何かが欠けていました。ついに完全な祭司が現れました。神の御子イエス様です。油注がれた完全な祭司であるイエス様は、十字架で宥めの供え物をささげられた後、天の至聖所に入り、御父のもとで私たちの罪を告白して、とりなしていてくださいます。またイエス様が天に昇られたことで、聖霊が私たちのうちに住んでくださることになり、御子は天の幕屋で、聖霊は地の幕屋で執り成していてくださいます。そしてここで終わりではありません。イエス様はおっしゃったでしょう。《 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)》これが完全な大祭司の祝福です。イエス様の昇天がなければ、この平安はなかったのです。
 王は民を治め、律法を行わせるために油注がれた人です。王は神によって選ばれ、戦いに勝利し、冠をかぶせられて王であることを宣言され、民に律法を教え、行わせる人でした。え、そうだった?と思いませんか。みなさんがそう思ってしまうほど、イスラエルの王はめちゃくちゃだったからです。本来、神の民の王は、他の国の王と全く違う存在であったはずなのです。民がサムエルに王をほしいと言った時、彼らは「他の国と同じように王様がほしい」と言いました。これは主のみこころではありませんでした。主は妥協案として、神が選んだ油注がれた人を王とすること、王はモーセの律法に従い、それを民に守り行わせなければならないとお決めになりました。「主を愛し、隣人を自分自身のように愛する」律法に従うことです。そうでなければ王は自分の利益を求め、民を奴隷にしてしまうだろうとおっしゃいました。しかし、これまので王は何かが欠けていたどころか、かなり外れていて、他国の王たちと何も変わらない様子でした。ついに完全な王が現れました。神の御子イエス様です。油注がれた完全な王であるイエス様は、死に勝利し、復活された後で、天に昇り、御父のみ座の右に座られました。こうして主イエス様は王であると宣言されたのです(ダニエル7:13-14)。いまだかつて天に昇った人はイエス様の他にいません。バベルの塔を思い出してください。昇ろうとした者は必ず落ちたのです。主イエス様だけが復活のからだで天に昇っていかれました。主イエス様は天のみ座で正義と公正をもって治めてくださっています。地には聖霊が遣わされ、私たちは神の武具をもち、あらゆる戦いに勝利することができるのです。またイエス様は生きた律法です。律法(聖書)を正しく解き明かし、聖書を守り行って生きる模範を見せてくださいました。イエス様のように生きることは、聖書を守り行って生きることと同じことです。
 これらのことがイエス様の昇天の時に一度に起こったのです。これだけ分厚い旧約聖書で、わざわざ預言者、祭司、王と3つに分解して説明しなければならなかったほど、濃密で重要な出来事が起こりました。弟子たちは当時、何も分からず、昇っていかれるイエス様を見つめて、見えなくなった後も天を見上げていたのです。私だったら、ちょっと笑っちゃいけない場面なんでしょうけど、イエス様何してるのと思って笑っちゃうかもしれないですね。いきなり上に昇っていって、どういうポーズだったのか書いてませんけど。ナニコレと思っていたでしょう。旧約聖書を知っておくことは大事なことです。
 イエス様は天に昇り、戴冠式を終えられました。実況中継の声が聞こえてきそうですね。「さぁ、イエス様が宮殿に入られました。これから中で戴冠式が執り行われます。」…「どうやら戴冠式が終わったようです。もうまもなく、まもなく。新しい王様がテラスの方からみなさまの前に現れます。」テレビにテロップが出たりして。[まもなく、イエス様の会見が始まります]なんて。「まもなく!」そうしてみんな待っているわけです。でもなかなか出てこない。段々、人々がざわつき始めて、「もう1時間経ったよ」…2時間…3時間。そうして2000年ほど経ったのが今の状況なのです。もうイエスは来ないよという人も出始めました。しかし、イエス様が宮殿に入られたのなら、会見に出てこられるのは時間の問題だけです。外から見る様子は何も変わりがないでしょうけれど、その準備は着々と進んでいます。現れる時には一瞬で現れます。あなたはその瞬間に何をしているでしょうか。新しい王を迎える準備ができている人は幸いです。
 聖書には、なぜイエス様がなかなか出てこられないのかハッキリと書いてあります。あなたが主イエス様を迎えるところにたどり着くことを待っておられると書いてあります(IIペテロ3:9)。
お祈りいたします。《次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。》
 
 天の父なる神様。私たちを悪から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖ってくださった主よ。あなたの偉大な計画と、高く上げられた御子による成就のゆえに尊いみ名を賛美いたします。
 私たち人間はあなたによって特別に選ばれ、この世界で預言者として、祭司として、また王として、あなたのみ心を行うはずの存在でした。しかし私たちはあなたの期待に応えることが出来ず、それどころか自らの罪によって聖なる山から転げ落ち、あなたから遠く離れてしまいました。これまで数多くの者たちが天に這い上がろうとしましたが、いまだかつて成功した者はいません。ただひとり、人となって世に下り、死に勝利して、完全な人として復活のからだで天に昇られた主キリスト・イエス様、あなただけです。
 主イエス様、あなたは王の王、主の主。あなたの主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがありません。罪人のかしらである私たちの罪を贖い、あなたの御国に入れてくださったことを心から感謝いたします。すべての人が悔い改めて、あなたのみ名を賛美するようになりますように。
 主よ。今週も私たちに聖霊をお与えくださり、世に遣わしてくださることをありがとうございます。私たちをきよめて、神のかたちを回復してください。主に従って、世に出て行き、みことばを語り、執り成して祈り、愛を行うことができますように助けてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
               

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