2022.6.19 父の日礼拝「父の心子知らず」箴言3章1〜26節

 

今日は6月第3聖日、父の日を記念する礼拝です。聖書のなかで知恵文学と言われるところから、何千年も前から人の生き方について語り伝えられてきたことを聴きました。神に信頼して生きる。なんと単純かつ深い言葉でしょうか。伝道の書には、そういう父に従わないで生きてきた人の人生の感慨が描かれているようです。現在にも通じる真理に感動を覚えます。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。父の日おめでとうございます。今日はヨセフ会のみなさまに特別賛美をしていただきました。素晴らしい歌声と、何よりも人生の海の嵐の中で神の平安の港を見出されたという証言を、主のみ前にささげてくださったことを感謝しております。

 賛美はクリスチャンの信仰の証言です。主が教えてくださったことは「本当だ」という叫びです。私たち異邦人クリスチャンは、福音を知りませんでした。しかし、主の民が世界のミニチュアとして、主の教えを歩み、私たちはそれを聖書を通して「見た」ことで、神の祝福を知りました。イエス様がそれを解き明かし、個人的な関わりの中で私たちを救い、神の愛を示してくださったので、私たちは聖書が「本当だ」と経験しました。
 賛美の最も基本的な部分は、私たちの「本当だ」という証言です。音程やリズム、伴奏、ハーモニーなどは、私たちが一緒に「本当だ」と証言することを助けています。私たちの証言を運んでいるのです。それを聞いている人たちは、本当かなと思いながら聞くことになるでしょう。しかし、やがてそれが本当であることを見出し、彼らもまた私たちと共に歌うようになるのです。詩篇117篇はこのように歌っています。《すべての国々よ 【主】をほめたたえよ。すべての国民よ 主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。【主】のまことはとこしえまで。ハレルヤ。》
 主が教えてくださったことは本当だという思いがあれば十分です。音を外したって良いし、リズムが狂っていたって良いじゃないですか。涙でつまって声が出なくても。良く歌えないからハミングになったとしても。本当だという感動は私たちの内から溢れて、会堂全体に大きな賛美の空気となって満ちるでしょう。やがて、会堂からも溢れ出して外に響いていくことになります。
 さて、そういうことですから、賛美はどこから始まるでしょうか。主の教えを聴くところからです。今日の聖書箇所をお開きください。箴言3:1-26(1094ページ)【聖書朗読】
 
 父の日にあたりまして、箴言を開かせていただきました。内容に入っていく前に、そもそも箴言とはどういう書物なのか確認しておきたいと思います。
 箴言は知恵文学と呼ばれる種類の書物です。聖書の中の知恵文学といえば、ヨブ記、箴言、伝道者の書です。聖書は神の知恵を記しているはずですので、聖書の知恵文学って「馬から落馬する」みたいな表現に聞こえますよね。ところが、これは違うのです。知恵文学の知恵は、神の知恵ではありません(注意深く聞いてください)。古代の中東には「知恵のある人たち」がいました。彼らは長老たち(年配の方々)でした。他の人よりも経験があり、またいろんな国々から情報を集めていて、物事に適切な助言を与えることのできる人たちでした。知恵文学とは、この「知恵ある人たち」の知恵を記している書物なのです。ですから、ヨブ記、箴言、伝道者の書は賢い人の知恵ということになります。
 旧約聖書時代の聖書といえば、モーセの五書でした。それは主が直接モーセに語られた神のことばから作られた書物です。天から下ったことばの書物です。しかし、それだけでは納得出来ないのが人間なのでしょう。神はああいっているが、知恵ある人たちは何と言っているのか知りたい。それが私たちではないでしょうか。主は人をよくご存知で、知恵ある人たちにも語らせて、私たちが納得できるように助けて下さいました。ご自分はしばし黙っていて、知恵ある人々に語らせなさいました。ヨブ記では最後の部分まで静かに人々の議論を見ておられました。最後になって主のことばがでてきます。箴言では1章の一部にだけ主のことばがあります。伝道者の書では全く委ねておられます。そのようでありながら、これらの書物は神の聖なる書に含まれていて、神の教えを語っているのです。先週お話した通り、主は人に理解できない不思議も、人が理解できる自然な事柄も自由に用いて、ご自身の業を成すことがおできになるからです。
 そういうことですから、箴言は人間の父と母が子に語っていることばです。主は天におられて、その様子を治めておられます。箴言にある人間の父のことばと、天の父なる神様のことばを安易に重ねてしまわないように注意してください。新改訳聖書は「わたし/私」という言葉をひらがなと漢字で書き分けています。ひらがなの「わたし」は神である主のことば、漢字の「私」は人のことばです。また、箴言は一冊でひとつの文学作品ですから、細切れにしないようにしましょう。箴言こそは細切れにしてしまいがちですよね。例えば、「モナ・リザ」の絵を見て、目のところだけ好きだわと言って、目だけくり抜いたりしないでしょう。それと同じです。一冊全体のメッセージを捉えてください。
 長々とお話しましたが、結局、箴言は、知恵ある父と母が、自分の子どもに「主の教えに従いなさい。それが一番だよ。聖書を大切にして、主に依り頼んで人生を歩みなさい」と教えている書物です。それに対して、子どもの側の反応が伝道者の書になります。「親父は賢い道と愚かな道を押し付けてきたけど、そんなのやってみないとわからないだろ。俺は親父が愚かだと言っていたことを全部やってやる。愚かなようには見えないし、素晴らしい人生になるに違いないよ」と言って、愚かと言われたことをやってみました。すべてをやり尽くした後でその結論は、《結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝12:13)》箴言と伝道者の書は、父の教えと、子のリアクションという人間の家庭に現代でもありがちな様子を描いています。
 さて、今日特に心に留めさせていただきたい箇所は11-12節です。《わが子よ、【主】の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、【主】は愛する者を叱る。》父の愛がこもっている言葉であると同時に、子の反発を受けるだろう言葉ではないでしょうか。「愛しいなら、なんで叱るんだ。ありのままを受け入れてくれよ」と叫ぶ子どもたちの声が聞こえてきそうな気がします。子どもの側からすると、成長を期待することと、ありのままを受け入れることは相反することのように感じるからです。「自分は無条件で愛してもらっていない」という悲しみを子どもたちが訴えることがあります。この箴言は何千年も前に外国で書かれたものです。父の思いと子の気持ちのすれ違いは、万国共通の永遠のテーマだということでしょう。
 さて、知恵のある父は、自分の子に何を願ったのでしょうか。父が何を願うかによって、結末がふたつに分かれてしまうかもしれません。箴言を読むと、知恵のある父は「主の教えに従い、主に依り頼んで歩む」ことを賢いことと教えたようです。また伝道者の書を読むと、その他の様々なことを愚かなことと教えたようです。伝道者の書の主人公は、その愚かと言われたことを一通りやってのけました。具体的には、ひたすら快楽を味わう人生、笑いばかりの人生、酒の楽しみを追求する人生、事業を拡大する人生、偉大な者となる人生、目の欲するものを全て手に入れる人生、王の後を継ぐ人生、恋愛に明け暮れる人生、仕事で成功する人生、富を求めて飽くことのない人生、夢を多くもつ人生、多くのことを主張する人生、資産を多く所有する人生、名誉のある人生、長生きする人生…。そのような目標を追い求める人生であってはならないと、知恵のある父は教えたのです。ちょっとビックリしませんか。いくつかのことはクリスチャンの父親でさえも自分の子どもに、追い求めるべき人生の目標として教えてしまっているのではないでしょうか。
 もし私たちが自分の子どもに賢い道を教えるなら、すなわち、「どんな人生を歩もうとも、主に依り頼んで歩む人生が一番だよ。その他のことは追い求めるのではなく、神が与えてくださるものを感謝して楽しみなさい」と教えるなら、子は反発するかもしれませんが、やがてあらゆることを経験した後で、ついに真理を見出すこともあるのです。伝道者の書を見てください。彼は、「俺は俺の人生を歩むんだ」と言って、実際にあらゆることを成功して手に入れましたが、それらは全て空しいことに気が付きました。《結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝12:13)》と、最後には告白するようになりました。
 しかし、もし私たちが間違った目標を追い求めるように期待するなら、やがて独立した子どもたちは、父が教えたことは結局のところ空しいことだったと知ることになるでしょう。あるいは、「私はまだ父の教えたところに到達できていないのだ」と考え、空しいことを追い求め続け、決して満たされることがない人生を歩むことになるかもしれません。そうなってしまえば、悲惨なことです。
 ヘブル人への手紙には、この箴言3:11-12を引用している箇所があります。先程、箴言を読む時には人間の父と天の父なる神様とを混同しないように注意してくださいと申し上げましたが、ヘブル人への手紙にもその点に触れています。このように書いてあります。《肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。(ヘブル12:10)》人間の父が願うことは、時に、的を外していることがあり得ます。しかし、天の父は、同じように子どもたちを訓練されますが、的を外すことはありません。天の父の願いは、どんな苦難を通ることがあっても、ただ主に信頼して歩むことです。
 《「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」(ヘブル12:5-6)》「そんな!なんで神様は私をありのままで受け入れてくれないのですか。」_ 落ち着いてよく考えてみてください。主に信頼して歩むことは、ありのままのあなたがすぐにでも出来ることです。例え病の床に伏していたとしても、主に信頼して人生を歩むことは、今すぐにでも始められます。ナアマン将軍を思い出してください(II列5)。彼はヨルダン川に身を浸すなど出来ないと言いました。でも、出来ないのではなく、そんなことをしたくなかったのです。彼は部下の一言で、思い直し、神の人が教えたようにヨルダン川に身を浸して癒やされました。主に信頼して歩むことは、ありのままのあなたがすぐにでも出来ることです。主はありのままのあなたを愛しておられ、ご自身に依り頼んで歩むことを願っておられます。それらは決して矛盾することではありません。
 私たちの信仰の父たちであるヨセフ会のみなさまが賛美してくださった曲を思い出してみましょう。「人生の海の嵐に」という讃美歌を歌ってくださいました。「人生の海の嵐に揉まれてきた私も 不思議な神のみ手によって 命拾いしました。とても静かな港に着いて 私は今 安心しています。救い主イエス様のみ手にある私は とても平安です。悲しみと罪の中から救われた私には どんな誘惑の声も 魂を揺すぶることがありません。とても静かな港に着いて 私は今 安心しています。救い主イエス様のみ手にある私は とても平安です。凄まじい罪の嵐によって もてあそばれているままで 死を待っているのは誰ですか 今すぐに 港に逃げ込むのです。とても静かな港に着いて 私は今 安心しています。救い主イエス様のみ手にある私は とても平安です。」 主に信頼して歩む人生は平安だという証言です。主の教えは本当だと、子どもである私たちに教えてくださいました。ありがとうございます。神の御心にしたがって、ヨセフ会のみなさまに主の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。
 またYouTubeでどなたが見ていらっしゃるか分かりませんけれども、もしかすると箴言に反発している伝道者の書の人たちがおられるかもしれません。どうでしょうか。あなたの人生で色々なことを追い求めて来られたのではないでしょうか。それらは追求する価値のある事柄でしたか?主に信頼して歩むこと以上に価値のあることだったでしょうか。知恵のある父たちがかつて教えてくれたことを、今一度、思い出しても良い頃ではないでしょうか。《心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と考えるな。【主】を恐れ、悪から遠ざかれ。それは、あなたのからだに癒やしとなり、あなたの骨に潤いとなる。あなたの財産で【主】をあがめよ。あなたのすべての収穫の初物で。そうすれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる。(箴言3:5-10)》
 
 
お祈りいたします。《わが子よ、【主】の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、【主】は愛する者を叱る。》
 
 天の父なる神様。私たちをいつも良いもので満たしてくださる主よ。
 私たちの信仰の父たちを通して与えられている祝福のゆえに、心からあなたに感謝をささげます。主に従う者には、その子孫にまで祝福をお与えくださると約束してくださり、誠実にその約束を果たしてくださっています。今日私たちは、彼らが主の教えは本当であると証言するのを見ました。主に依り頼む人生は、「人生の海の嵐を逃れて辿り着いた、とても静かな港である」と告白する歌声を聞きました。素晴らし恵みの安息を与えてくださっていることをありがとうございます。
 主よ。知恵ある人のことばに反発し、あらゆることを追求して、確かめている人々のために祈ります。どうか主に信頼して歩むことを教えてくれた人々のことばを思い出すことができるようにしてください。自分の人生を振り返り、主が与えてくださるもの以上に価値があるものは何もない事に気が付くことができますように。そして主のみもとに帰り、「いと静けき港に着き、我は今安ろう」と歌う讃美に連なることができますように。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Pages