2022.7.3 主日礼拝「神のしもべと王のしもべの対立」アモス書7章7〜17節



 一年の半分が過ぎました。壁は何も飾りがなく真っ白で、講壇には珍しく真っ赤なバラが飾られ次の節季を待っているようです。神様は日常生活の中に種を撒いてくださり、私たちが自然に御心を行うようにしてくださるお話を聞いて励まされます。メッセージでは、旧約聖書の時代から神様に完全に従おうとする王はいなかったと聞いて驚きます。民は王に従うか、神に従うか苦しい選択をすることになってしまった歴史を知りました。(Re

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。下半期に入りました。今年の後半も、荒野(平日)と安息(日曜)を繰り返す毎週は変わらないのですが、主イエス様が帰ってきてくださる日は近づいているのですから、共に希望を持ち、喜んで待ち望みたいと思います。

 今年の標語聖句をもう一度確認してみましょう。《主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた》。テーマは「神の恵みを知り 恵みの群れとなろう」です。「種を蒔く人になりなさい」という本を共に読みながら、種を蒔くとはこんなに些細な事も含まれているのだと学んでいます。種を蒔くためには、私たちが世に遣わされていることです。今年は集まることと散らばることのメリハリを意識しようとしています。半年が過ぎましたが、少しずつ前進していることを見ることができるお証を伺いながら、主の御名をあがめています。
 以前から王寺教会に度々集ってこられていた方がおられます。コロナで数年間来れなくなっていました。ご主人が王寺教会のある姉妹の教室を受講しておられて、そのためにその方が試練を通っておられることが分かりました。私はお手紙を書き、姉妹が手紙をもって訪問してくださいました。しばらくしてその方は手術を受けるために入院しました。その入院先の病院で、手術のために入院しておられた王寺教会の兄弟とばったり出会いました。兄弟は手術の前にその方にお祈りして差し上げたそうです。私たちは何の計画を立てたわけではありませんし、連絡を取って連携していたわけでもありません。これは人の働きではないのです。主が働いていてくださるのです。私たちが世に出て、日々の営みをしている中で、主は私たちを用いて愛の業をなしておられます。
 私が常々祈っていることがあります。それは、「誰かひとりの英雄的な働きによってではなく、また優れたプロジェクトによってではなく、多くの人の日常の小さな種を主が用いてくださって、人々が主に導かれますように。今の王寺教会にはそれが必要です。主が先頭に立っておられることを、明らかに示してください」という祈りです。祈りの答えを見させていただいています。聖書はこう言っています。《何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。(Iヨハネ5:14)》本当にその通りです。
 今日の聖書箇所をお開きください。アモス書7:7-17(1569ページ)【聖書朗読】
 
 先週は、王と預言者と主の三者の関係についてお話いたしました。主の御心の通りに、民が歩んでいたならば、この三者の関係はきれいに保たれていて、社会は祝福に満ちていたはずでした。王は民が聖書(モーセ五書)に従って歩むように導き治めると、主に約束していました。預言者は主が語ったことをそのまま告げると約束していました。王と預言者は互いに役割を担い、預言者は王に祝福の言葉を告げ、王は預言者に従うはずでした。ところがこの三者関係が崩れてしまったのです。
 ソロモンの神殿建築から王国の滅亡までの期間、預言者は王に呪いを告げざるを得ない状況でした。王は預言者に言われるまでもなく、聖書を読めば、自分たちが呪いの道を選んでいると知ることができたはずです。モーセがすでに語っていたからです(申28:15-68)。しかし、聖書を読んだ王は数えるほどしかいませんでしたし、預言者に聞き従った王はほとんどいませんでした。こうして悲劇が起こりました。人々が本来は直面する必要のなかった選択を迫られるようになってしまったのです。神に仕えるか、王に仕えるかの選択です。
 今日の箇所にはベテルの祭司アマツヤと、預言者アモスが出てきます。それから、イスラエルの王ヤロブアムが出てきます。これは先日出てきた分裂騒動のヤロブアムではなく、あれから150年ほど後に出てきた王様です。名前が同じですのでややこしいですね。
 ややこしいのですが、ベテルの説明のためにダビデ王国の分裂当時に戻ってみます。ヤロブアムは北の王様、レハブアムは南の王様でした。ヤロブアムはソロモンの家来、レハブアムはソロモンの子どもです。南側にはエルサレムがあり、そこには神殿がありました。北のヤロブアム王は、北側にも礼拝所がないと人びとを北に留めておくことができないと考え、金の子牛を2つ作って、ベテルとダンに配置しました。あれから150年です。ベテルは北王国の偉大な礼拝所となっていました。アマツヤは、そのベテルで仕事をしていたわけです。
 祭司アマツヤの視点と、預言者アモスの視点は全く対立しています。ひとつずつ見てみましょう。1.アモスは「神である主が示された」と言って語りました。アマツヤは王に「アモスはこう言っています」と伝えています。主のことばか、アモスのことばかという違いです。誰が話すかで同じ言葉でも意味が全く違ってしまいますね。2.アモスは「主が剣をもって、ヤロブアムの家に向かって立ち上がる」と伝えています。アマツヤは「主が剣をもって」の部分を完全に無視して、「アモスがヤロブアムは剣で死ぬと言っている」と伝えました。主の裁きがあると言っているのに、アモスが王を脅していると考えています。3.アモスは「主が私を取り、行って預言せよと言われた」と言いました。アマツヤは「アモスが王に対して謀反を企てている」と言っています。主の計画が進行しているのに、アモスの計画だと思っています。4.アモスは主が民を「わたしの民イスラエル」と見ておられることを告げました。アマツヤは王様に「イスラエルの家のただ中で、アモスが謀反を企てている」と言っています。この言い方は、「ヤロブアム王様のお膝元で」という意味合いですね。この国は主のものであるのに、王様の国であると勘違いしています。5.アモスは、《『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』》と主に言われたのだと告げました。イスラエルとは北側の王国のことです。アマツヤはアモスに言いました。《先見者よ。さあ、ユダの地へ逃げるがよい。そこでパンを食べ、その地で預言するがよい。》南側(ユダ)に言って、好きなようにしたら良いと言っています。アマツヤは本来、預言者のことばを聞いて応答する側の人であり、預言者にどこに言って何を語れと指示する側ではありません。6.アマツヤはアモスが王を脅していると考えています。しかし実際にはアマツヤがアモスを脅しているのです。
 預言者アモスは主のことばを、主から聞いたままにまっすぐ伝え、結局のところ、こう言っています。民の王である主は、ヤロブアムの家が民を正しく治めないので、彼らを除き去り、再びご自身がイスラエルの王座に着いて人びとを助け出す。荒れ果てた町々を主が建て直し、作物を実らせて人々に与えると。しかしアマツヤはそれを全く理解していません。実はこの時代、北イスラエル王国は歴史上で一番栄えていたのです(II列14)。敵に奪われていた領土を取り戻し、ヤロブアム王は平穏に生涯を終えています。主がアモスを通して告げられたヤロブアムの家の裁きは、ヤロブアム王から数えて6代後のホセア王の時です。年数にして40-50年後の出来事でした。ですから、人々はアモスを神の預言者というより、変人だと思っていたのでしょう。史上最高に栄えている北王国にどこの馬の骨か分からないやつがやってきて、王様に無礼なことを言っていると。「150年間も北イスラエル王国は偉大な王様を中心に栄えてきたんだぞ。王様のもとに一致団結していれば大丈夫なんだ。それなのに王様の国に謀反など起こそうとして、平和を乱して、人びとを不安がらせるとんでもないやつだ。」そのようなアマツヤの声、また人々の声が聞こえてきそうな気がします。
 アモス6:3を見てみましょう。《あなたがたは、わざわいの日を遠ざけているつもりで、暴虐の時代を近づけている。》まさにこのことばの通りになりました。
 これは何度も申し上げますが、王様には、またイスラエルの民には聖書があったのです。モーセの律法がありました。申命記28章を開いてみましょう。申命記28:15《しかし、もしあなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。》28:47-48《あなたがすべてのものに豊かになる中で、あなたの神、【主】に喜んで心の底から仕えようとしないので、あなたは飢え渇き、裸となり、あらゆるものに欠乏し、【主】があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主はあなたの首に鉄のくびきをはめ、ついにはあなたを根絶やしにされる。》このように予め律法にハッキリと記されていたのですから、祭司アマツヤやヤロブアム王は、預言者アモスの伝えることばにピンときて当たり前のはずでした。あるいは少なくとも、この預言が聖書の通りなのか、もう一度律法を引っ張り出してきて調べることができたはずです。しかし、彼らには全然ピンとこなかったし、律法を倉庫から出してこようとも思わなかったのです。
 アマツヤは王のしもべでした。ベテルは王の聖所、王国の宮だと言っています。これはある意味当たっていますね。そこは偶像礼拝から始まった場所、150年前にヤロブアム王が勝手に定めた礼拝の場所でした。しかし、もっと前を辿れば、ベテルはアブラハムが祭壇を築いた場所、またヤコブが天にかかるはしごを見た場所です。ベテルは主の預言者が主のことばを語るのにふさわしい主の聖所でした。その場所を王の聖所と言ってしまうような人だったのです。
 アモスは主のしもべでした。彼は「預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった」と言っています。当時のイスラエル王国には、預言者という役職を与えられて、王様の下に仕える人々がいたのです。先週お話したアハブの400人の預言者たちを思い出してください。あれが王様に雇われていた“預言者”です。アモスはそのような“預言者”ではありませんでした。彼は農園で作物を作り、農場で家畜を世話していたのです。しかし、主が彼を取り、主のことばを語れとおっしゃいました。それでアモスは主に従いました。主のことばを告げる人は、主に呼ばれて、主に従った人でなければなりません。アモスは主のしもべでした。
 もし王と預言者と主の三者関係が健全であれば、主のしもべと王のしもべが対立することはありません。王も主に従っているし、預言者も同じひとりの主に従っているからです。その場合、預言者は王のサポーターとなります。聖書に従う王を預言者は祝福し、また王が聖書からずれてしまった時に、預言者に教えてもらって方向修正することができます。しかし、三者関係が崩れてしまえば悲劇が起こります。主に従うことと、王に仕えることが対立する2つのことになってしまうのです。このような対立状態になるということ事態がおかしいのです。旧約聖書の後半には預言者たちの伝えたことばが預言書となっています。これらの預言は、王と預言者が対立するというおかしな時代の預言です。そしてそのほとんどが、語られたのに聞かれることのなかった預言でした。こうして北イスラエル王国は分裂から200年後に主が剣として用いられたアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいました。
 この歴史を振り返って、私たちは何を学ぶでしょうか。新しい契約によって主の民とされた教会も同じことです。神の言葉だと言って、権力者や人々のご機嫌取りをするようなことばに耳を傾ける必要はありません。神の言葉だと言って、自分の利益のために好き勝手に話していることばに耳を傾ける必要はありません。しかし、私たちには聖書があるのですから、よく吟味して、たしかに主のことばを伝えていると知ったのなら聞き従わなければなりません。当時、イスラエル人たちは《目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たち(イザヤ43:8)》と主に言われていました。主はモーセを通して律法を残されたのに彼らは見ず、預言者を遣わして主のことばを語らせたのに聞かなかったからです。私たちも同じようなところはないでしょうか。
 ただイエス様だけが教会のかしらです。様々な活動の中で色々なリーダーが立てられています。イエス様とリーダーたちと聖書を解き明かす人が健全な三者関係を築けているでしょうか。和を乱さないことが教会を安定させるのではありません。皆が主イエス様に従うことによって、教会は安息が与えられます。
 
お祈りいたします。《私は預言者ではなかったし、預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。しかし、【主】が、群れの世話をしていたところから私を取り、【主】が私にこう言われた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と。》
 
 天の父なる神様。義と愛に満ちておられる主よ。私たちの成り立ちを知り、今日も私たちがちりにすぎないことを心に留めていてくださりありがとうございます。私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、あわれみと忍耐のうちに置いていてくださることを感謝いたします。ただただ御子の十字架の贖いのゆえです。ありがとうございます。
 《遠い大昔のことを思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(イザヤ46:9)》とあなたはおっしゃいました。アーメン。本当にその通りです。旧約聖書は私たちにとってはるかに遠い大昔のことでありますが、現代においても色褪せることのない真理を教えています。繰り返す歴史を学び、古代イスラエル人が向かった先を知ることで、私たちもまだ見ていない未来について想像することができます。なんと幸せなことでしょうか。
 主イエス様。どうかこの朝、もう一度、あなたが教会のかしらであることを思い出させてください。あなたは天に昇っていかれましたが、私たちには聖書が残され、聖霊が遣わされています。あなたのご計画に従って、私たちを約束の地へ導いてください。カナンに入った後よりも、荒野にいたときの方が良かったと言われてしまうことがありませんように。どうか王寺教会をあわれみ、ますますあなたに従う群れと造り変え続けてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。



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