2022.6.12主日礼拝「人の日常と神の働き」II列王記6章8~19節



 梅雨入りももうすぐ。初夏に咲く花も咲き始める頃です。会堂では、数十年ぶりでしょうか、エステル会の有志の方々の奉仕によって、座布団カバーが新しくなり、室内も明るくなったようです。説教は旧約聖書の学びに戻ります。クリスチャンが大人になるために、霊的に硬い栄養を取り続けることの大事さを思います。私たちの意識の中にようやく、旧・新約聖書を流れる神様の壮大なご計画の輪郭が見えてきたみたいです。また、日常の偶然と思える中に神様の愛の働きが隠されていることも聖書から裏付けられました。。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。昇天日礼拝、ペンテコステ礼拝を過ぎ、普段の聖日が戻ってきました。6日間の働きを終えて、ひととき兄弟姉妹とともに、イエス様の食卓にて感謝と喜びの時をもてますこと嬉しく思います。

 説教も旧約聖書の続きに戻っていきたいと思います。普段の説教では旧約聖書を古い時代から順に追っていっています。たまには新約聖書も開いてほしいなと思われることもあるかもしれません(祈祷会では時々開いております)。旧約聖書だけを読んでいたら、偏ってしまうかもしれませんよね。聖書は万遍なく、バランスよく読む必要があるでしょう。ただ説教で旧約聖書を重点的に開いているからといって、新約聖書を解き明かしていないわけではないということ、今朝は申し上げたいと思います。旧約聖書を解き明かすことは、新約聖書も解き明かすことになっているのです。
 例えば、Iペテロの手紙1章は私たちの救いについて書いてあります。そこにはクリスチャンが救われていることと、終わりの日に救いをいただくことが書いてあります。ここだけを読むと、私たちは救われているのか、これから救われるのか、どっち?と言いたくなります。しかし、イスラエルの歴史について理解があれば、これも読むだけでわかります。私たちはファラオの支配から救われました。そして約束の地を目指して、完成の日にいただける救いを待ち望んでいます。
 神様の救いの計画は薄っぺらいものではないのです。そこには厚みがあります。旧約聖書はその厚みを丁寧に具体的な出来事を通して語っています。難しいのは、あまりに丁寧すぎて全体像をつかみにくいことです。新約聖書は簡潔にそれらをまとめて、クリスチャン生活に適用しています。難しいのは、あまりに抽象的であるからです。
 旧約聖書を説明することは、新約聖書を説明することにつながっています。ぜひ新約聖書も読んでみてください。1年前よりは、読むだけで分かる箇所が増えているはずです。イエス様の弟子たちは御霊に満たされて、聖書を解き明かしたのです。それがパウロやヨハネ、ペテロたちが書いた手紙です。
 今日の聖書箇所をお開きください。II列王記6:8-19(659ページ)【聖書朗読】
 
 2週間ほど間が空いてしまいました。前回は、主がついに民の行動に反応されたことをお話しました。民が自分の目に良いと思うことを好き勝手にやっていた時代を超えて、主が激しい憤りを表されたことを見ました。主が何も反応されなければ人々の行動を良しとしている、と考えてはいけません。主はアブラハムとの契約のゆえに、忍耐をしてくださるお方だからです。私たちがすっかり忘れてしまっている約束を、主は覚えていてくださって、誠実に約束を果たし、忍耐してくださっています。ですから、私たちは聖書と自分自身の生き方を照らし合わせて、それが正しいのかどうか吟味していなければなりません。今まで何事もなくこれていたんだから、このままでいいじゃんと思っていたら、ある日突然、ドッカーンと…。そうならないように願っています。
 主は憤られる方です。なぜなら私たちを深く愛しておられ、また私たちにも愛されることを望んでくださっているからです。神の愛は時に激しい憤りです。
 さて、今日は主がどのように働かれたのかを見ていきたいと思います。主は反応なさいました。その時、どのようにして実際の出来事を起こしていったのでしょうか。現代の人々は、神は世界に何の影響も加えていない、あるいは神はいない、物理現象と人間の心理が歯車のように回っているだけで、説明できなさそうな事柄を神の業ということにしているだけだと考えています。聖書は何と言っているのでしょうか。今日開きました箇所は、預言者エリシャの召使いが、目に見えなかった神の軍勢を見ることができた場面です。主は、私たちクリスチャンが目に見えないことを理解できる人たちとなるように願っておられるのではないでしょうか。
 ソロモンの神殿建設からバビロン捕囚までの時代を見ています。列王記や歴代誌に書かれている時代です。この期間に起こった出来事を思い返してみたいと思います。レハブアムとヤロブアムによるダビデ王国の分裂を思い出してみましょう(I列12、II歴10)。レハブアムはソロモンの子どもで南ユダ王国を取りました。ヤロブアムはソロモンの優秀な家来で、北イスラエル王国を取りました。分裂のきっかけは、ソロモンの奴隷制度をどうするかということでした。ソロモンは自分の民を徴用して、王のために重い労働を課していました。ソロモンが亡くなった後、後継者に民が求めたことは、過酷な労働を少なくとも軽くしてもらうことです。民は労働局のトップであったヤロブアムに依頼し、レハブアムのところに行ってもらいました。ヤロブアムは民からとても信頼されていた人だったことが分かります。ヤロブアムはレハブアムのところに来て言いました。《「あなたの父上は、私たちのくびきを重くしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えます。」》するとレハブアムは3日間考えさせてくれと言って、ヤロブアムを帰しました。レハブアムはまず、ソロモン王に仕えていた長老たちに相談に行きます。長老たちは「労働を軽くして、親切にしてあげるなら、彼らはあなたに仕えるでしょう」と言いました。ところがレハブアムはこの提案を却下して、自分と共に育ち、自分に仕えている若者たちに相談に行きました。すると彼らは「労働をもっと重くして、むちで懲らしめたら良い」と言いました。レハブアムはこちらの提案を受け入れて、ヤロブアムに返事をしました。《私の父がおまえたちをむちで懲らしめたのであれば、私はサソリでおまえたちを懲らしめる》と言ったのです。そうしてどうなったでしょうか。レハブアムを王様とする地域と、ヤロブアムを王様とする地域に分裂してしまったのです。そんな事したら分裂してしまうのは当たり前や、と思いますよね。レハブアムも後から考えて、あんな事を言ってしまったことを後悔したかもしれません。
 さて、この話で大事なことは、《【主】がそう仕向けられた》ということです。実はこの出来事の前に、ヤロブアムには預言者アヒヤを通して主のことばがありました。主はダビデ王国を10部族と2部族に引き裂くことをお決めになり、北の10部族をヤロブアムに与えることにしたという預言でした。主は民が他国のような王様を求めたことに対する忍耐の時に終止符を打ち、ついに主の反応を表しなさったのです。他国のような王様を求めれば、王は民を守って戦いの先頭に出ていくどころか、民を自分の都合のために利用するようになり、自分は安全なところにいて満足に食べ、男子は戦いの最前線に送り出されて戦い、飢えに苦しみ、女子は王の食事を作るために駆り出される。だから他国のような王を求めることはやめて、ただ主に仕えなさいとおっしゃっていました(Iサム8)。民は主を退けて、他国のような王を求めたのです。主は長らく忍耐しておられましたが、ついに反応を示されました。王によって国が安泰になるどころか、分裂して争いに明け暮れるようになることを示されたのです。
 この時、主はどのようにして働かれたのでしょうか。主は預言者を通してヤロブアムに語り、10部族をあなたに与えるとおっしゃいました。その後に起こった出来事は、不思議というよりも、人の思惑や欲、会議の流れ、政治的・社会的な連鎖反応などで説明できそうなことです。超自然的というより、自然な事の流れですね。レハブアムもヤロブアムも、協力者と良く相談して、自分で判断し、行動を起こしていったに違いありません。主は、このように自然な人間の行動を利用できるお方なのです。列王記や歴代誌を読むと、日常的な事の流れをコントロールして、ご自身の業をなさる主の姿をあちらこちらで見ることができます。
 現代人は、神はいないという仮定から物事を捉え、それを支持する証拠をかき集めて、自分の仮定を結論にしています。人の心理、社会の動き、政治力学。それらで説明できる範囲には神の働きは一つもないと思っています。クリスチャンでさえ、そのように誤解しているかもしれません。日常的な出来事は人間の業、超自然的な出来事は神の業と考えているかもしれません。しかし聖書はそのように神の業を教えていません。日常的でも超自然的でも関係なく、主は働かれるのです。違いがあるとすれば、人間がそれを見て驚くかどうかのことでしかありません。主は日常的に業を行うか、超自然的に業を行うか、全然気にしておられません。自由自在に働いておられるのです。
 今日の箇所で、エリシャの召使いは神の軍勢を見ました。たいへん驚いたでしょう。しかしアラム人たちはそれを見ていません。目がくらんだというのは、目が見えなくなったということなのか、そういう比喩表現なのかはっきりしません。おそらくアラム人たちは、道に迷って敵陣の真ん中に出てしまったとしか思わなかったでしょう。殺されると思ったが、イスラエルの王は温情をかけてくれた。それで二度と略奪しようとは思わなかったと。そう考えれば自然な出来事です。しかし、主は確かに働いておられました。
 私たちは世の中の色々な出来事を、記者たちが伝えるニュースとして聞いています。ある出来事を誰かが伝える時、そこには必ず記者の解釈が入っています。解釈のないニュースはあり得ません。私たちは、神は世界に影響を与えていないと仮定する人々が解釈したニュースを聞いています。そこには主の存在は伝えられません。私たちは知らず知らずのうちに、エリシャの召使いのように、主の働きが見えない人になってしまうのです。
 それではどうやって目に見えないものを見えるようになるのでしょうか。熱心に祈ったら良いのでしょうか。_ 目に見えないことが見えるようになっているものを読んだら良いのです。私たちには聖書があります。これは目で見て読むことができる、あるいは朗読を聞くことができます。では、日常的な事柄に主が働いておられるかどうか、どうやって知ったら良いのでしょうか。主が聖書を通して語られた通りに事が動いていくかどうかを見たら良いのです。「他国のような王様を求めたら、あなたは呪いを選ぶことになるよ。」言われた通りになったではありませんか。「主に従う人は、主が守ってくださる。」エリシャと彼の召使いは軍隊の包囲から守られたではありませんか。
 列王記や歴代誌には話の所々にナレーションが入っていますね。《【主】がそう仕向けられたからである(I列12:15)》《【主】の怒りによるものであった。(I列15:30)》《【主】は、アッシリアの王の配下にある軍の長たちを彼らのところに連れて来られた。(II歴33:11)》列王記や歴代誌を書いた人は、どうやってこれらの事柄が主によって行われたと分かったのでしょうか。主が語っておられた通りになったことを見たからです。列王記や歴代誌を書いた人は、名もなき預言者とも言えるでしょう。彼らは自然なこととして説明できる事柄に、主の働きをしっかりと見ていたのです。
 教会でも祈祷会などの時にお証はありませんかと伺う時があります。お証をいただくことがありますが、しーんとしていることもあります。もしかすると、何か人々が驚くような不思議でなければ証にならないと思っていたりしませんか。先日、ホームに住んでおられる教会員を訪問しました。施設に電話で予約をして、予約した時間に出かけ、予定通りに面会して帰ってきました。何も不思議なことは起こっていません。しかし、《兄弟愛をいつも持っていなさい》と聖書にあるので、主イエス様がその訪問に同行してくださって祝福してくださった、予定通りに事を行わせてくださったと分かるのです。今度、60周年記念誌のお証を書いてくださいと、係の兄弟から呼びかけがありました。この10年間を振り返ってみてください。みことばが実現したと知ったことはありましたか。不思議であっても良いし、自然なことであっても良いのです。主はご自分の民に何とおっしゃったでしょうか。人びとをアッと驚かせよと命じられたでしょうか。いいえ。主はこう命じられました。《目があっても見えない民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。すべての国々をともに集わせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、われわれにこのことを告げ、初めのことを聞かせることができるだろうか。彼らが自分たちの証人を出して証言し、人々がそれを聞いて、『本当だ』と言うようにせよ。(イザヤ43:8-9)》アッと驚かせよではありません。人々がそれを聞いて、「本当だ」と言うようにせよ。これが主の教えです。
 
お祈りいたします。《そして、エリシャは祈って【主】に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」【主】がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。》
 
 天の父なる神様。求める者に答え、すべての恐怖から救い出してくださる主よ。あなたを恐れる者のために、戦いの先頭で戦い、悪から守ってくださることをありがとうございます。あなたのような王は他にいません。
 あなたがいろいろな場面で働いておられるのに、私たちはそれが見えていないことが多いのです。主よ。どうか私たちの目を開いて、見えるようにしてください。人の思惑も、社会の動きも、政治力学もあなたは自由自在に用いることがおできになります。《幸いなことよ 主に身を避ける人は。》
 あなたは私たちを証人として選び、証言をするようにと命じておられます。どうかみことばをはっきりと悟らせてくださって、私たちの人生に働いておられるあなたの業を証言させてください。人々がそれを聞いて、「本当だ」と言うようになりますように、どうか助けてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
          写真はフーミンさん


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