2022.6.5ペンテコステ礼拝 「五旬節とペンテコステ」使徒の働き2章1~4節

 

教会では、5月の末に牧師家庭に三人目のお子さんが授かり、新しい命の誕生にみんなで喜びを共にしました。そして今日は、信じるすべての人の心に、生きている神様が住んでくださるお約束、ペンテコステのお話。心が躍ります。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。ペンテコステおめでとうございます。今年もみなさまと共に、収穫の初穂を祝う祭り、また教会の誕生記念の日を主のみ前で喜ぶことができ、本当に感謝です。

 またこの6月から祈祷会の日程を変更することになりました。きっかけは消極的な事でありまして、ご不便をおかけし、またある方々には試練を引き起こしてしまったのではないかと思い、申し訳ありません。ご理解とご協力を引き続き賜りたいと存じます。きっかけはあのようなことでしたが、どのみち日程を変更しなければならないのなら、一歩踏み込んで以前から温めていました方針を打ち出そうと祈りのうちに導かれました。日程の変更だけではなく、方針の転換であることをぜひ覚えていただきたいと願っています。水曜日に関しては交わりの要素を減らし、世に出ていく要素を増やそうとしています。今年の年間聖句を思い出してください。先週、すでに応答して、出ていっておられる方々がいることを思いがけなく知りました。御本人からは何も伺っていませんでしたので、ひょんな事がなければ、人の目には隠されていた業であったことでしょう。主はよくご存知で喜んでくださっているに違いありません。
 そして私たちが祈る事柄にも豊かさが出てくるようにと祈っています。祈らずにはおられないことだけを祈っているということはないでしょうか。私たちは何をするにも、神の力なしには(聖霊の助けなしには)出来ないのです。「今日は畑に行きます。主よ。これを通して神の栄光を表すことができるように助けてください。」「今週はある人に手紙を書こうと思っています。お祈りしてください。」「毎月の活動に明日出かけます。みこころがなるように祈ってください。」それらのことは祈らなくてもできることでしょう。しかし自分の力で行うことに神の業が現れるでしょうか。今日はペンテコステです。どれだけの賜物が与えられているか思い出してください。主ご自身がうちに住んでくださっているのです。
 今日の聖書箇所をお開きください。レビ記23:15-22、使徒の働き2:1-4(旧220ページ、新233ペジ)【聖書朗読】
 
 イースターから50日が過ぎました。ギリシャ語で50日目をペンテコステと言います。以前、教会の暦には2種類の暦がありますと説明いたしました。主が定めたユダヤ人の祭りのカレンダー(レビ23章)と中世の教会が作ったカレンダーの2種類です。律法のカレンダーは神の救いの計画を覚えるためのもの、中世の教会カレンダーは主イエス様の働きを覚えるためのものです。ペンテコステはこの2つのカレンダーが重なっています。混乱しやすいかもしれませんが、注意して聞いていただければ感謝です。
 イースターは過越祭の時にイエス様が十字架にかかって死に、墓からよみがえられた日でした。イスラエルには主から教えられた年間カレンダーがあり、過越祭から50日後には収穫祭が決められていました。使徒の働き2:1に出てくる五旬節とは、もう少しわかりやすく表現すると50日祭りとなるでしょうか。レビ記23章に定められている過越祭から50日後の収穫祭の日でした。この収穫祭とちょうど同じ日にイエス様の教会は初めて、皆が聖霊を受けました。こうして過越祭と受難週・イースターが重なっているように、五旬節とペンテコステは重なっています。イエス様の働きは神の計画の中にあったからです。
 律法のカレンダーには7つの祭りがあります。そのうち3つは巡礼祭と決められていて、イスラエルの男子は年に3回主のみ前(エルサレム神殿)に集まらなければならないと言われていました。その3つが過越祭、五旬節、仮庵の祭りでした。使徒2:5には《さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが》と書いてあります。過越祭から五旬節までは50日間ですので、遠隔地から来ていたユダヤ人は帰らないで、エルサレムに滞在していたのです。それはカウントダウンの期間でした。みなさんはカウントダウンしたことがありますか。特に収穫祭は、主から命令をうけて「喜び楽しみなさい」と言われていた祭りです。彼らは喜びの日をカウントダウンしていたのです。
 イスラエルの作物は何種類もありましたので、収穫祭は一年間に何度も開かれました。しかしこの五旬節は(仮庵の祭りと並び)一年の中で一番重要な収穫祭とされ、単に祝うだけでなく、主のみ前に集まって祝うように言われていました。それはイスラエルの歴史と関係があります。過越祭はエジプトから脱出した日を記念していました。脱出した日から50日後に何があったでしょうか。主はシナイ山で民に現れて、主の律法を授けてくださったのです(出19:1)。奴隷から解放されただけではなく、愛に溢れた恵みの社会が与えられた日でした。神から素晴らしいプレゼントを受け取る日が五旬節なのです。
 《三日目の朝、雷鳴と稲妻と厚い雲が山の上にあって、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。モーセは、神に会わせようと、民を宿営から連れ出した。彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山が煙っていた。【主】が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がいよいよ高くなる中、モーセは語り、神は声を出して彼に答えられた。【主】はシナイ山の頂に降りて来られた。【主】がモーセを山の頂に呼ばれたので、モーセは登って行った。(出19:16-20)》これはシナイ山に主が来られた時の様子でした。それから1400年ほど経って、イエス様の昇天から10日が過ぎた五旬節の日がやってきました。イエス様は弟子たちに命じておられました。《「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」》そうして待っていた弟子たち。町は過越祭からのカウントダウンがいよいよ終わって喜びの五旬節を迎えていました。《すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。》これがペンテコステの出来事です。
 さて、五旬節の収穫祭に注目してみましょう。レビ23:16-17《七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】に献げる。あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼いたものを二つ、奉献物としてのパンとして持って行く。これは【主】への初物である。》この祭りの時、民は主に初穂のパンをささげました。初物とは、初めて収穫されたものという意味と、最も良いものという意味があります。その初物は祭司の食料として与えられました。祭司は土地を与えられなかった人々、神に仕える人々です。これから収穫が始まるぞという時に、最初の収穫の、しかも最も良いものは主にささげられ、祭司の食料となりました。こうして民はみな神の恵みによって収穫を得ていることを確認したのです。またそれは神への感謝でした。どんなに努力しても、最後の最後まで収穫がどうなるかは分かりません。私たちの収穫は主から来るという信仰は、実は種まきの時から始まっています。主が与えてくださると信仰もって苗をお世話してきたのです。ついに目の前に収穫を待つばかりの作物が実っています。その時に起こってくる自然な気持ちは何でしょうか。「主は良いお方。主は誠実なお方だ。私は主に感謝したい。」そうではないでしょうか。
 初穂のパンをささげることは喜びでありました。主にささげ、祭司に与えられる分と、貧しく社会的に弱い人々に落ち穂として残す分を除けば、残りのおよそ9倍の収穫が自分に与えられるからです。なんという喜びでしょうか。しかしこのような感覚はある意味では農業に携わっていない人にはピンとこないことかもしれません。多くの人は月給(時給)いくらという契約で働いていて、この程度働けば、この程度の収入と考えるからです。しかし農業はそうは行きません。これだけ働けばこれだけの収穫とは単純に言えないですね。収穫は予想の付かない豊かな収入であり、神の恵みなのです。そして実はこの世界には農業と無縁の人は1人もいません。ウクライナで戦争が起こり、小麦の価格が上がっています。同じ額のお金を持っていても、食料の価格が変動すれば私たちも影響を受けるのです。私たちも神の恵みによって生きていることを忘れてはなりません。畑になびく作物を見て喜んでいる農家を思い浮かべてください。最も良い初物の9倍が私に与えられているという事実を、目の当たりにして感謝と喜びに包まれています。初物があれば、必ず残りの部分もあるのです。その残りの部分はあなたのものです。
 さて、五旬節の祭りの時にささげられる初穂のパンは2つありました。それはイスラエルとその他の国を表しています。五旬節は主が民に律法を与えてくださったことを記念する祭りでした。律法は誰に与えられたでしょうか。主の民イスラエルと、その他の国の民にです。主の民が律法を守ったのは、彼らが祝福となり、彼らによって世界のすべての部族が祝福を受けるためでした(アブラハム契約です。創12:3)。ペンテコステの後、聖霊の力によって福音はユダヤ人から異邦人へと広がっていきました。このことからも2つのパンの意味がうかがえるでしょう。聖書に聞き従うかどうかは主の民に与えられた選択でしたし、同時に他の国の民に与えられた選択でもありました。初穂の収穫があれば、必ず残りの収穫が続いていきます。五旬節は、恵みが一つのパンから残りのパンへ拡大していくことを示しているのです。祭りの時、二つのパンは一緒にささげられて、民は主の安息をいただきます。
 パウロはローマ人への手紙の中で、クリスチャンたちを《御霊の初穂をいただいている私たち(ローマ8:23)》と呼んでいます。私たちクリスチャンは初穂なのです。ご存知でしたか。初穂には必ず残りの大部分の収穫が続きます。ペンテコステは初穂の収穫を感謝し、必ず続いていく残りの収穫を目の当たりにして喜ぶ日です。初穂の刈り取りが終わり、それでも9割が残っている畑を想像してみてください。それこそイエス様が見ておられる畑です。《目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。(ヨハネ4:35)》《「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)》「分かりました!熱心に祈ります。献身して神学校に入学し、牧師になる人が起されるように!」_ ちょっと待って下さい。確かに、昨今どこの教団を見渡しても牧師不足と言われています。これは大変な問題です。しかし、献身者に感動を与えるのは専ら神の業であって、牧師不足も何らかの摂理があるのではないかと思うのです。私たちクリスチャンの考えに、主は一石を投じておられるのではないでしょうか。イエス様のことばを最後まで聞いてみましょう。《目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。》「あなたがた」とは弟子たち全員のことです。ペンテコステの日、聖霊は誰に下ったのでしょうか。皆が集まっていて、皆が聖霊を受けたのです。「主よ。働き手を送ってください!」とあなたが一生懸命に祈っている働き手、それはまずあなたのことです。
 私は今日、残りのものが初穂の9倍だと申し上げていました。ところがイエス様はもっと素晴らしいことを教えてくださいました。残りのものは9倍どころではないとおっしゃったのです。《「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。…(ある)種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」》
お祈りいたします。《神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。》
 
 天の父なる神様。義と公正はあなたの王座の基。恵みとまことが御前を進みます。私たちの日々の糧はあなたの恵みによるものです。主よ。あなたの誠実さのゆえに心から感謝いたします。農業から遠く離れたところで生活し、まるで自分の能力や努力に比例して収入が得られているように錯覚してしまっている現代人をあわれんでください。
 あなたはご自分の子たちに最良の物をいつも備えてくださっています。カナの婚礼で水をぶどう酒に変えてくださった主を思い出します。人々は初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を最後まで取っておいて、それを惜しみなく与えてくださるお方です。初穂の9倍の収穫、いえ、30倍、60倍、100倍の収穫を私たちに与え、み前で喜び楽しむように言ってくださいます。主よ。あなたは良いお方です。
 《私(たち)は【主】の恵みをとこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私(たち)の口で知らせます。》天に昇られた預言者である主イエス様。あなたが私たちひとりひとりに語らせようとした福音は、聖霊が下ったことによって私たちの口に与えられました。《わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました》とのイエス様のことばを受けて、私たちはまた今週も世に出ていきます。聖霊なる主よ。み心に従って、主イエスのみ名により、あなたの力を用いさせてください。あなたが語らせてくださるままに、神の恵みを人々に伝えることができますように助けてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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