2022.5.22 BTC創立記念礼拝「主の激しい憤り」Ⅱ 歴代誌36章11〜23節


 

私たちの教団はBTC(Bible Training College)と呼ばれる神学校を持ち、牧師になる方々を養成しています。しかし、教団は高齢化が進み牧師の引退が増える一方、神学校に入る方が増えずに、今年はBTCに入学生がいない、という厳しい状況になりました。兼牧の教会が増えて行く…そのためのお祈りが緊急になってきた最今です。

今日は、生きて働いておられる「主と出会って欲しい」という牧者の願いがこもったメッセージです。(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師
 おはようございます。今日はBTC創立記念礼拝をもたせていただいております。いつもお祈りくださりありがとうございます。現在は他教団からの委託生とインマヌエル高津教会の矢代ゆう姉が短期コースで学んでおられ、大切な神学教育と訓練の場として働きが継続されております。教会の働き人はみことばの奉仕をすることになりますから、聖書の理解と主の召しへの忠実さを訓練されなければなりません。生徒が少ない時は、ある意味で体制を整えたり、カリキュラムや設備を見直したりする余裕のある時期でもあると思います。その働きが祝福されるように、神学生の学びと訓練、また健康や経済の戦いのために引き続きお祈りをよろしくお願いいたします。
 さて、聖書の話に入っていきたいと思います。1年と1ヶ月ほど、王寺教会で説教をさせていただいております。「説教」は牧師の働きの中でも中心的な事でありますので、それぞれの牧師によってこだわりがあります。私のこだわりは「みなさまが主と出会ってほしい」ということです。
 聖書は昔の話ですが、「昔話」ではありません。桃太郎、さるかに合戦、ウサギとカメ。世には色んな昔話があります。それらを読む時、みなさんはどのように読みますか。仲間との協力が大切だなとか、人を許すことが大切だなとか、堅実な歩みが勝るのだなとか、道徳や教訓を学ぶでしょう。一方で聖書は昔話のように読む書物ではありません。(聖書の中で唯一、「昔話」なのはヨブ記だけです。)聖書はアブラハム、イサク、ヤコブの神と出会う書物だからです。私は、聖書は昔話よりも長話に近いのではないかと思います。
 みなさんは人の長い話を聴くことは得意ですか。世の中には人の長い話を傾聴できる方がおられますね。長い話を傾聴できる人は、その話し手の感情を感じ取り、場の様子を思い浮かべ、 その話の中に入って、それを経験しています。話している人と共に同じ体験をしているわけです。そのように沢山の話を傾聴していきますと、段々と話し手の人柄を知っていくようになります。こういう場面でこのように考えたり、このように行動したりする人なのだと知っていくので、やがては阿吽の呼吸になっていくわけです。言わずとも分かるという関係です。私のこだわりはこれを目指しています。説教を聞けば聖書を読まなくても良いという方向ではなく、説教を聞いた後に、聖書をくまなく読んでみようと思っていただける方向に向けてお話しております。
 ですから、私の話を聞いていてくださる限りは、 今日のメッセージについて聞かれたら何と答えようか、今週の宿題はなんだろうかとか、そんなことは忘れてください。今はよく分からないなと思っても、マリヤのように心に留めておいてください。試験勉強ではないのですから。主と出会い、主を知っているのです。
 私たちの主はアブラハム、イサク、ヤコブの神です。「主よ。アブラハムの時にあんなことがありましたね」「そうそうあの時はああだったよ、こうだったよ」「今のこの状況はあの時と似てますね」そのような会話ができるわけです。私たちが阿吽の呼吸で共に歩んでいる主は、この(聖書の)主だからです。聖書はたったの一部分でも不必要なところはありません。この長話を傾聴しているうちに、ひとつひとつ言わなくても分かってきます。今、嬉しいんだな。悲しいんだな。怒っているんだなと。今日も主を知りましょう。
 今日の聖書箇所をお開きください。II歴代誌36:11-23(814ページ)【聖書朗読】
 
 今日注目したいことは、主の反応です。士師記の時代からエルサレム神殿への時代、主は人々から脇に追いやられ、どこで何をしておられるのか見えないような状態でした。人々が自分勝手にめちゃくちゃしている時代に、主はどこで何をしておられるのだろうかと不思議に思いましたね。民の行動は主のみこころを離れ、やがて彼らは自分たちの王を立て、主の神殿をダビデの町に建設したのです。そのようなイスラエルに主は反応なさいました。預言者たちが主のことばを語りはじめました。また主の反応がイスラエルに降りかかり、様々な出来事が起こり始めました。そこでようやくイスラエル人たちは主が怒っておられることに気付き始めたのです。
 私もたまに、我が家で怒られることがあります。私は普段どおり過ごしていまして、鼻歌を歌いながらいるわけですけれども。いきなりドッカーンと来るわけです。私の方は突然なわけで、びっくりするのですが、妻の方は突然ではないのです。怒るだけの理由があって、少しずつ積もっていってある時にドンとなっちゃうわけですよね。
 主はどこにおられるのだろうか、何をしておられるのだろうかと不思議に思うほど、民は自分の目に良いと思うことをやり続けていたわけですが、主の反応は「激しい憤り」でありました。
 どうして主の反応は怒りとして現れたのでしょうか。それは私たちと主には間柄があるからです。関係の問題だからです。エゼキエル書の16章には預言者が民に伝えた主のことばが記されています。今日は実はエゼキエル16章を朗読してはどうかと思ったのです。しかし5ページもありますので、悩んだ末に別の箇所にすることにいたしました。ですから、エゼキエル16章をぜひ読んでおいていただきたいと思います。ここでは主とエルサレムの関係を結婚関係に例えてあります。エルサレムはイスラエルに占領されずに残っていた土地でした。親に捨てられ、愛情を受けずに育った少女エルサレムは主に見出されました。彼と彼女は互いに愛するようになり結婚します。しかし彼女が非常に美しくなり、女王の位に進むと、彼女は彼に拠り頼むのことをやめ、自分の美しさに拠り頼んで浮気をしました。これはユダヤ人たちが異教の神々のご利益に拠り頼んだことや、戦いの時にエジプトやアッシリアを拠り頼んだことを指しています。しかしそれでも彼は離婚しようとせず、若かった日々の契約を覚えて、永遠の契約を立てると言いました。16章の最後のことばはこうです。《こうして、わたしが、あなたの行ったすべてのことについてあなたを赦すとき、あなたはそれらを思い出して恥を見、もう自分の恥辱のために口を開くことはない──【神】である主のことば。(エゼ16:63)》主の怒りは、人々が自分の行ったすべてのことを思い出して「何ということをしてしまったのだ」と恥を見ることを願う思いの現れなのです。私たちと主には間柄があることを考えれば、この気持ちは私たちにも分かるのではないでしょうか。
 しかしながら、主と民との間には「若かった日々に結んだ契約」があると主は言われました。これは主がアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約、またダビデと結ばれた契約のことです。主の激しい憤りは小さな爆発を繰り返しながらも、完全にイスラエル(エフライム)とユダが滅ぼされるまでには至っていませんでした。あのソドムとゴモラに下った怒りのように、瞬く間に焼き尽くす怒りを抱えておられたにも関わらず、主は忍耐してくださいました。主はアブラハムとの約束を覚えておられたのです。《わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。(創12:1-2)》主はイサクとの約束も覚えておられました。《あなたはこの地に寄留しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福する。(創26:3)》主はヤコブとの約束を覚えておられました。《あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。(創28:14)》またダビデとの約束を覚えておられました。《あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。》主がイスラエル(エフライム)とユダに対して、燃える怒りを忍耐してくださったのは、主が若かった日々に結んだ契約を誠実に覚えていてくださって、果たしていてくださったからです。聖書を読まない人々がはるか昔の約束を覚えていたでしょうか。しかし主は覚えていてくださったのです。またそれは、アブラハム、イサク、ヤコブとダビデが主に従い、主に拠り頼んで歩んだことの結果でした。彼らが主に仕えたので、祝福の約束が有効となったのです。今すぐにでも私に下るはずの神の怒りが、先人たちの信仰によって忍耐されていると考えたことはありますか。
 インマヌエル讃美歌162番に「まぼろしの影を追いて」という讃美歌があります。あなたの母が涙の乾く間がないほど祈っていることを知らないのかと歌っている讃美歌です。
母が出てくれば父も出てこないと、なかなか現代の価値観では難しいところでありまして、教会福音讃美歌には残りませんでしたけれども、本当は残ってほしかったなと思うほど心を打つ曲ですね。母の信仰によって、父の信仰によって、夫の信仰によって、妻の信仰によって、子の信仰によって、友人の信仰によって、あるいは知りもしない誰かの信仰によって、あなたにすぐに下るはずの神の激しい憤りが先延ばしにされていると知っていますか。
 人がどんなに罪深いか知っておられるはずの主が、祝福の契約を結んでくださったのです。人がその契約を忘れてしまっても、主は覚えていてそれを守ってくださっているのです。なぜですか。主は人を赦そうとして待っておられるということです。人が自分の行ったすべてのことを思い出して恥を見ることを願われ、災いを先延ばしにして忍耐しておられるのは、人が行いを悔い改めて、主のみもとに帰ってくることを切に願っておられるからです。預言者ヨナはイスラエルを離れて、ニネベに主のことばを伝えに行きました。彼がニネベの人々に神の怒りが下ろうとしていることを告げると、王様から家畜までみな粗布を身にまとい、悪の道から立ち返りました。主はそれを見て、彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかったのです。《わたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。(ヨナ4:11)》と主はおっしゃいました。
 さて、祝福が何代も続き神の忍耐につながっている一方で、呪いもまた何代も影響を与えると言われていたことを思い出してください。歴代の王で一番悪名高かったのはアハブ王です。アハブはエリヤから神のさばきを告げられた時、粗布をまとって断食しました。その時、主はこう言われました。《彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。(I列王記21:29)》これはアハブの息子が主に立ち返れば、この決定も変わるということですが、実際にはそうなりませんでした。このように受けるべき罰とそこに下される怒りが、蓄積されているということです。不誠実な夫が妻に謝ったとしましょう。許すとしても妻の怒りはすぐには収まらないでしょうね。怒りが収まってくるまは、夫の回心が本物か確かめる期間とも言えるかもしれません。イスラエルとユダはそれに失敗しました。何度も何度も謝るのですが、その悔い改めは本物ではなかったのです。やがて主の警告を告げる預言者たちを黙らせたり、殺したりするようにまでなりました。彼らは何度も主を裏切り、《ついに【主】の激しい憤りが民に対して燃え上がり、もはや癒やされることがないまでに》なってしまいました。
 私たちがいつもと同じように歩み、鼻歌を歌っている時に、その日はやってきます。何で突然に!?と思うでしょうか。このまま続けていればその日が来ると、主は何度も言っておられるではありませんか。悔い改めの洗礼を受けることを何となく先延ばしにしていてよいのでしょうか。主イエス様は《「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)》とおっしゃっています。また洗礼を受けた方々も、主との関係を正しくもっていなければ同じことです。エルサレムは最後、どうなってしまったのでしょうか。ニネベは惜しまれ、エルサレムは破壊されました。
 
お祈りいたします。《 彼らの父祖の神、【主】は、彼らのもとに早くからたびたび使者を遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の住まいをあわれまれたからである。ところが、彼らは神の使者たちを侮り、そのみことばを蔑み、その預言者たちを笑いものにしたので、ついに【主】の激しい憤りが民に対して燃え上がり、もはや癒やされることがないまでになった。》
 
 天の父なる神様。愛とあわれみに富んでおられる主よ。あなたのみ前では《一日は千年のようであり、千年は一日のようです。》あなたの忍耐は救いです。
 こんなに不誠実な私たちに対して、あなたは本当に誠実なお方です。あなたがアブラハムと約束を結ばれたことを、世界のうち一体どれだけの人が覚えているのでしょうか。あなたの言葉が詰まっている聖書を読まないので、それをすっかり忘れてしまっています。しかし、あなたはあの約束をずっと守ってこられました。胸が引き裂かれる思いをしながら、それほどまで忍耐されるのですか。あなたは空より高く、海よりも深い愛をもっておられます。
 私たちは時に、あの人のために主に祈り求めているのに何も起こらないと思っています。しかし何も起こらないことが、どれだけ特別なことか私たちは分かっているのでしょうか。主よ。私たちの祈りと信仰を顧みてくださっていることをありがとうございます。私たちはあなたの苦しみを知って、あなたに忍耐を求め続けるべきでしょうか。すべての人が悔い改めて、あなたに立ち返り、そして主イエス様が帰ってきてくださる日を早めなければなりません。みこころがなりますように。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
写真はSさんより


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