2021.12.19 クリスマス礼拝「希望の光 ウィズ ジーザス」ヨハネの福音書1:5


 Merry Christmas!




王寺教会のクリスマス礼拝はヴァイオリンとピアノ演奏から始まりました。心に染みるサウンド。温かく優しいクリスマスの雰囲気が広がります。しかし、メッセージによって、少し違った最初のクリスマスの様子を思い描きました。暗い夜の風景。クリスマスの背後にある悲しみの風景。しかし、、、 

私たちが慰められたように、私たちが悲しむ人に寄り添い続ける人になること、これが神が私たちに願っておられること。クリスマス、闇の中の輝き、まことの喜びが私たちと共にありますように!(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師


聖書箇所:ヨハネの福音書1:5(175ページ)
説教題「希望の光 with ジーザス」
 
 クリスマスおめでとうございます。お久しぶりの方も初めての方もお集まりくださいましてありがとうございます。私は牧師の中尾と申します。この4月から王寺教会に参りまして、ご奉仕をさせていただいております。今年のクリスマスは「希望の光withジーザス」とテーマを掲げまして、3回のアドベント礼拝のあと、今日のクリスマス礼拝を迎えております。
 今年は新型コロナ感染症の第3波から始まりました。東京の感染者数が1000人の大台を超え、これは大変なことになったぞという危機感で包まれていましたね。コロナ対策で、ゼロコロナかWith コロナかという議論があったことを思い出します。今年のクリスマスは、楽観視はできないのですが、今の所、蔓延が抑えられており、このように過ごすことができますことを神様に感謝しています。
 今から少しお時間をいただいて、クリスマスのお話をさせていただきます。クリスマスはイエス様が天から地上に来てくださいまして、マリヤから生まれてくださったことを記念する日です。何百年も後になりましてセイント・クラウス(サンタクロース)がクリスマスに貧しい家庭に金貨を投げ入れた時に、吊るしてあった靴下に金貨が入り込んだという出来事がありまして、サンタクロースの話が加わってまいりました。でも、それは聖書の話ではありません。聖書の話はイエス様の誕生の出来事でした。
 イエス様の誕生の出来事はいつも夜のお話です。クリスマスってアメリカやヨーロッパのお祭りというイメージがないですか。クリスマスツリーとか暖炉とか、プレゼントとか。ホーム・アローンというクリスマス定番の映画がありますが、あれは強盗が入ってくるという恐ろしい出来事の割には、和やかになっていますね。恐ろしいはずなのに、笑っちゃうわけです。それはクリスマスの暖かな、お祝いのイメージが恐ろしさを和らげているからでしょう。
 ところが、そのような私たちが思い描いているようなイメージとは裏腹に、本当のクリスマスはとてもとても暗い、夜の出来事だったのです。聖書には興味深いことが書かれています。《死ぬ日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。(伝7:2-4)》またイエス様も《悲しむものは幸いです》とおっしゃいました。_ これってどういうことでしょうね。みなさん分かりますか。聖書って不思議なことを言いますね。イエス様って不思議なことをおっしゃいます。
 お祭りって日常のことを忘れて、盛り上げていく日なのではないでしょうか。ハレの日は辛いことや悲しいことを置いておいて、美味しいものや笑い声で一杯に埋めてしまう日ではないでしょうか。しかし、このキリスト教会の中でも特に大きな記念の日に、聖書は悲しみに心を留めよと言っています。みなさんは悲しみに沈んだことはありますか。
 ヨセフ・ベイリーという方が息子さんを癌で亡くされた時の話をしましょう。ベイリーさんは回顧録でこのように書いていました。「悲しみに心が引き裂かれる思いをして座っていた時、誰かがそばに来て、神のご計画や、こうなった理由を、死の彼方の希望について、話し始めました。それからその人は話し続けました。話はどれも、もっともなことばかりだと思いました。でも、私の心は凍ったままでした。『この人、早くどこかへ行ってくれないかな』と心から思いました。しばらくして相手は、ようやく帰っていきました。すると別の人がやって来て、わきに腰をかけました。彼はひとことも話しませんでした。何事かを尋ねることもしませんでした。1時間以上、私のわきに腰を下ろしているだけでした。私が口を開くと、耳を傾け、ひとことふたこと返事をして、その後で、短く祈ってから帰っていきました。」この話を本に書いたベイリーさんは、あとに来た人に助けられ、慰められたと言います。後に分かったことは、あとに来た人にも同じような経験があり、悲しみを知っている人だったということでした。
 聖書は神の言葉です。主が私たちに語っている言葉です。この言葉は2番めの人のようだと思いませんか。【聖書を閉じる】_ こうすると、何も言ってきません。この時、主は何をしておられるのでしょうか。私たちのたましいのわきに腰をかけて、共におられるのです。この聖書の中には神の知恵が敷き詰められています。神のご計画も、この世界の有様も、私たちがどこから来てどこへ行くのかも、あらゆる神の知恵が詰まっているのです。私たちが元気になり、色んなことを知りたいと思って尋ねるなら、情熱をもって沢山のことを教えて下さいます。しかし、あなたが悲しみに打ちひしがれている時、主は静かに座って、ひとことも話さず、あなたのたましいから滲み出てくる言葉に耳を傾け、ひとことふたこと返事をなさいます。私たちのすべてを知っておられるお方、イエス様は、切り株の脇から出た小さな芽のように生まれました。コンクリートから出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが憧れるような見栄えもありませんでした。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていました。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかったのです。
 2000年前のナザレの町でイエス様は天から降って、地に来られました。ひとことも話すことのできない赤ん坊として。天使は告げました。「その男の名はインマヌエルと呼ばれます」と。インマヌエルは「神が私たちとともにおられる」という意味です。暗闇に星が輝きました。ヨハネ1:5にはこうあります。イエス・キリストは《人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。》悲しみを知っている人でないと本当の助けはできないと思ったことはありませんか。イエス様はそれを知っています。クリスマスの喜びは、過ぎ去れば消えてしまうような上澄みの喜びではありません。クリスマスの喜びはどん底から湧き上がってくる喜びです。あなたが打ちひしがれて、下に降っていった時、一番下で、あなたの脇に座ってくださっているのはイエス様です。闇の中で救いの光が輝きました。あなたが闇に飲まれてしまうことは決してありません。
 聖書って不思議です。イエス様って不思議なお方です。また教会も不思議な人たちの集まりです。とっても元気で、喜んでいます。みんなで一緒に教会堂を飾り付け、楽しく讃美し、神様に祈り、互いに挨拶を交わしています。でも、ぱっと見ては分からないだろうと思うのですが、実は様々な悲しみを知っている人たちの集まりでもあります。ベイリーさんのように子供を失った方もおられます。大切な人と会えなくなった方もおられます。癌で体の一部を取らなければならなかった方も、仕事を失い途方に暮れ方も。罪の責めに悩み苦しみ眠れぬ夜を過ごした方も。今も命の危険がある病があって、この冬を祈りながら過ごしている方もおられます。しかし、その一人ひとりが、闇の中で救いの光を見つけました。ともにおられるイエス様を見つけました。イエス様は闇の中で私たちとともにいてくださり。やがてそこから立ち上がる力と問題の解決を与えてくださいました。それでみんな喜んでいるのです。この喜びは上っ面の喜びではありません。底から湧き上がってくる喜びが、ここにあります。
 教会の中のある方が、私に話してくださったことがあります。お子さんが小さい頃、癌にかかり、長い間、闘病のお世話をされた方でした。「当時、色んな人がお見舞いをしてくれて、励ましてくれたり、色々としてくれた。それは有り難かったのだけれども、でも、本当に助かったのは、教会の人たちが静かに祈っていてくれたことでした。」とおっしゃったのです。聖書って不思議です。イエス様って不思議です。イエス様が内に住んでくださっている教会って不思議な人たちの集まりです。今日、みなさまをお迎えできましたことを嬉しく思っています。
 ヨハネ3:16《神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。》今日、イエス様があなたと共にいてくださることに気付いていただきたいと思います。イエス様を受け入れ、本当の慰めと助けを知っていただきたいと思います。イエス様によって救いをいただけたなら、今度はイエス様にしてもらったように、あの2番めの人のように、打ちひしがれている人のわきにしばらく腰をかけて、帰って静かに祈り続ける人になっていただきたい。教会はイエス様が作られた弟子たちの群れのことです。イエス様はあなたも招いておられます。教会は毎週日曜日10:30から、いつも集まっていますので、どうぞまたお越しください。
 With コロナと言われ始めて、1年、2年と経ちました。ウイルスには何の意味があるのでしょうか。何も意味はないのです。ウイルスは生き物ではありません。意志を持っているわけでもない。それなのに、そのようなものに私たちは苦しめられているのです。でも、イエス様は生きておられます。イエス様は闇の中でも共にいてくださるお方ですから、闇から抜け出しているのであってもイエス様と共に歩んでいこうではありませんか。人びとはコロナが終わるのを待っています。私たちはイエス様が来られるのを待っています。クリスマスに地上に来てくださったように、また帰ってきてくださる日を待っています。救いの光は、私たちの希望の光です。
 
 お祈りいたします。《光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。》
 
 天の父なる神様。私たち一人ひとりを愛してくださっている主よ。み名を賛美し、心から感謝いたします。今年もクリスマスを迎えることができました。こうして喜びの日に、一人ひとりを招いてくださったことをありがとうございます。
 クリスマスは闇の中の輝きでした。光である主が、闇の中の降りてきてくださった日でした。私たちはそこに落ちないようにしようと必死になっているところです。まして誰が自らの意思で、そこに行こうとするでしょうか。人びとは遠いところから声をかけ、浮き輪を投げて、あとは何とか頑張れと言います。一体誰が、この闇の只中に飛び込んできて、しかも一緒に沈まないで助けることができるでしょうか。そんなことができるのはイエス様、あなただけです。
 主イエス様。私の心に来て、ここに住んでください。あなたは私たちの希望の光です。あなたと共に歩む人生を与えてください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。




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