2021.12.12アドベント礼拝第3回「救い主はみどりご」ヨハネ黙示録5章



今回はメッセージの前に映像を見ながらクリスマス・ストーリーの朗読がありました。キリストと出会った羊飼いの男の話。アナウンサーである姉妹の美しい声が広がって心に深く入ります。クリスマスの出来事は 予言の成就。そこで今回はヨハネ黙示録を開きました。この一見難解な書は、当時のクリスチャンにとっては、「マンガ」であると!すなわち、絵にして分かり安くしたもの(!)と牧者。時代が変われば、なんとやらです!

クリスマスー救い主が赤ちゃんだったということ、このおどろくべき福音が語られます(Re)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

おはようございます。アドベントの3週目を迎えました。今日もみなさまをお迎えして、共に主を礼拝させていただけますこと本当に感謝です。クリスマスの説教は礼拝と祈祷会を含めて何回か続けてきております。その中で、預言の成就ということばが度々出てくることにお気づきのことと思います。もう何年もクリスマスのメッセージを聞いておられる方々の中には、「預言の成就」「預言の成就」と耳にタコができるほど聞いてこられたでしょう。またそういう話かと思って、ため息が出てくるという方もあるいはおられるかもしれません。なぜこんなひねくれたことを度々言うのかといいますと、この私がひねくれ者だったからです。メッセージを真っ直ぐ聞いてないんですね。あーじゃないの、こうじゃないの色々と考えてたんですね。でも皆さん、聖書は叩いてみるものですよ。「叩きなさい」と書いてあるじゃないですか。(そういう意味じゃないんですけど。)叩けば叩くほど、ホコリどころか、これが本当にこの世界のことを言っていると分かってきました。
 何の話をしているのでしょう。成就の話ですね。成就というのは「成し遂げる」という意味です。悲願を成就するとか言いますね。旧約聖書で主が約束してくださったことを、クリスマスに成し遂げてくださったと聖書に書いてあるのです。なぜこの事実が大切なのでしょう。_ 約束を成し遂げてくださった方は、これからも約束を果たしてくださると信じるに足るからです。イエス様の弟子のヨハネは、福音書の終わりの方でこのように書いています。《これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)》イエス様が旧約聖書で約束されたキリストであることを信じるための証拠であることは良くご承知のとおりです。それには続きがあって、イエス様のみ名によって永遠のいのちを得るためでもあるのです。聖書に書いてある出来事はいずれも過去に起こった事柄です。そこで主が約束をして、成就をしてくださったことが記録されています。私たちはそれを見て、単に過去のことに思いを馳せるだけではなく、将来の希望を信じて待ち望むのです。
 今日の聖書箇所をお開きください。ヨハネの黙示録5章(497ページ)【聖書朗読】

 今日はクリスマスの中で、野宿をしていた羊飼いたちがみどりごイエス様を見つけた出来事に心を留めております。アドベントにヨハネの黙示録を開くことはあまりないことかもしれませんが、天の軍勢の賛美の脚注を調べています内に黙示録5章の参照がありましたので、ここに導かれてまいりました。
 目を留めていただきたいのは、ヨハネが耳にしたことと目にしたことです。ヨハネの黙示録は脚注をよく見ていただければ分かるように、旧約聖書からの引用が沢山あります。この書は聖書全体のメッセージをもう一度振り返って、迫害を受けている7つの教会を励ますために書かれたものです。聞いたこととは何でしょうか。それは聖書から学んできたことです。見たこととは何でしょうか。実際に目撃したこと、経験したことです。ヨハネは幻の中で次のように聞きました。《長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」》
 旧約聖書を思い出してみましょう。ヤコブは息子のユダに預言しました。《ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。雄獅子のように、雌獅子のように、うずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こせるだろうか。王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う。(創世記49:9-10)》イザヤはこう預言しました。《エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、【主】を恐れる、知識の霊である。この方は【主】を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。(イザヤ11:1-5)》
 ヨハネの黙示録は平たく言いますと漫画です。聖書のメッセージを絵にして、分かりやすく伝えています。一体どこが分かりやすいのかと私たちは思いますが、当時のクリスチャンには直感的でよく分かったのです。「長老の一人が言った」というのは、古い歴史のある聖書に書いてあったということです。聖書を読んでヨハネがもっていたキリストのイメージはどのようなものであったでしょうか。ユダは獅子の子、王権はユダを離れず。確かにユダ族の王が治めていた南ユダ王国は北イスラエル王国よりも長続きしました。北イスラエルの人びとは多民族との結婚によって溶け込んでいってしまいましたが、南のユダヤ人たちは捕囚の地でも民族を保ちつづけました。それでイスラエル人という言い方はユダヤ人となったのです。ユダヤ人はイスラエルの中のイスラエルだ。本物の主の民だと自負していました。ユダ族から出た王様でもっとも輝かしいのはダビデ王です。エッサイの子ダビデ。彼は戦いが残っていたカナンでついに戦いを終わらせ、王国を確立した王でした。そういうわけですから、聖書を読んでキリストを待ち望んできたユダヤ人たちが描いていたイメージは、「あのダビデ王のような力強い、勇ましい、輝かしい人が現れる!」というものだったことでしょう。
 ヨハネが見たものは何だったでしょうか。彼は《屠られた姿で子羊が立っているのを見た》のです。屠られたとは殺されたという意味です。もう死んでるじゃないかと人びとが笑うようなものです。ユダヤ人は神殿で子羊を捧げる時に、生きている子羊をもってきて、喉を切って殺してから祭壇に捧げました。ですから屠られた子羊は彼らにとっては見慣れたものだったことでしょう。ヨハネが見た時、勇ましく力強い王様ではなくて、殺された子羊が立っていたのです。
 これらの幻は主イエス様のことを指しています。主イエス様は旧約聖書で預言されていた特別なメシアでした。《ユダ族から出た獅子、ダビデの根》と伝えられてきたキリストでした。人びとはイエス様がダビデ王のようにユダヤ人の王国を再建してくれると期待していました。12弟子たちさえも、世の支配者を力強く打ち倒す様子を描いていたのです。ところがイエス様がついに成し遂げられたことは、呪われた者となって十字架にかかり死ぬことでありました。弟子たちは非常に困惑し、失望しました。ところがイエス様は墓からよみがえり、弟子たちに現れ、聖書全体からご自身のことを解き明かしてくださったのです。それでヨハネは聞いてきたことと見たことの繋がりをついに理解しました。
 この後、6章から8章の5節にかけて巻物の封印が解かれていきます。そこにはこの世界の様子が書かれていました。戦争、征服、飢餓、死といったものが現れます。この世界で人びとを苦しめている事柄です。最近は反出生主義者という方々がおられるそうです。この世界に生まれてこないほうが良かった。私には生まれてこない権利があったのに、私に聞きもしないで私をこの世界に生んだ人がいる、とんでもないことだと言っています。確かにこの世界で生きることは苦しみと隣り合わせです。クリスチャンたちも例外ではありません。クリスチャンたちは迫害をうけ次々に殉教していました。一体どうしたらこの世界に救いがあるのでしょうか。人びとは様々な方法によって救いを実現しようとしてきました。しかし人びとが積み上げてきた知恵によって救いは見いだせませんでした。人がいつも行き着く先は暴虐と荒廃でした。現代でも同じことです。自然の動植物を守ろうと活動し始めた人たちがいつの間にか凶暴になってしまったことを見たことはないでしょうか。慈善活動がお金集めの手段となって誰かが私服を肥やしていたということがなかったでしょうか。軍事的な解放が報復の原因となり、戦いが戦いを生んでいく様子も何度も目にしてきたのではないでしょうか。人はどんなに頑張っても暴虐と荒廃に行き着いてしまうのです。
 しかし、神に不可能なことはありません。主は十字架の死によって救いをもたらされました。なぜ十字架が救いなのかは、この聖書に詳細に説明されています。イエス様の救いがもたらしたのは愛と平和、そして永遠のいのちです。それを知った聖徒たちは歌いました。天使たちも大声で叫びました。ついにはすべての造られたものが《「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」》と言ったのです。
 さて、クリスマスの話をしましょう。羊飼いが夜番をしていると、主の使いが現れ、主の栄光が周りを照らしました。またその後、突然、御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美して言いました。《「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」》羊飼いたちは大変驚きましたが、天使の言葉通りベツレヘムに行くことにしました。彼らは救い主がおられると聞いたのです。主キリストがおられると聞いたのです。しかしながら、その救い主はみどりごでありました。生まれたばかりの赤ん坊です。羊飼いたちはそのニュースを聞いて、ベツレヘムに行き、この出来事を見届け、神をあがめ、賛美したのです。よく考えてみてください。クリスマスの出来事を思い出してください。人びとはみどりごのイエス様を礼拝したのです。神殿ではシメオンとアンナが神をほめたたえました。東方の博士たちが来たのはもう少し後でしたが、それでも1歳か2歳の幼子です。力強く勇ましい王として現れると期待された特別なキリストは、みどりごとして私たちのところに来てくださいました。ここに福音の大切なメッセージがあるのです。みどりごに何ができるでしょうか?_ 神に不可能なことはありません。
 人の知恵はより優れたもの、より華やかなもの、より力強いものを追い求めています。クリスマスもショッピングモールに行けば、とても華やかに彩られているではありませんか。しかし主イエス様が来てくださった時、その最初のクリスマスは一切華やかなものではありませんでした。そこにいたのは、布に包まって飼い葉桶に寝ているみどりごだったのです。このみどりごこそ、教会が人びとにお伝えしている福音です。良い知らせです。人が愚かだと言って嘲笑ったイエス様に救いがあることを聖書は明らかにしています。いのちを捨てることが勝利であるとは、誰の心にも思い浮かんだことのない事柄でした。しかし主は私たちを決して諦めないで、ことばを与え続け、ついに主イエス・キリストにおいて救いを実現してくださいました。
 聖書はこう言っています。《ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(Iコリント1:22-25)》
 お祈りいたします。《「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」》

 天の父なる神様。私たちの主、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしいお方です。それにも関わらず、みどりごとしてこの地に来てくださり、人びとから嘲られ罵られ、ついには殺されることも良しとしてくださいました。それは私たちを救うためでした。あなたの深い愛のゆえに心から感謝し、み名をあがめます。今日こうして兄弟姉妹とともに、また天の御使いたちと共に、あなたに賛美の叫びをあげることができます恵みを心から喜んでいます。
 この世の知恵は私たちを惑わし、より華やかなもので着飾るように、より力強いもので人びとを引きつけるように誘惑してきますが、私たちはただ十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。多くの人はそれを嘲るでしょう。殺された子羊に何ができるかと。飼い葉桶に寝ているみどりごに何ができるかと。しかしイエス様が成し遂げてくださったことを同じように成し遂げることができる人は、他にひとりもいません。贖いを成し遂げ、その恵みをただで受けることができるようにしてくださいました。主イエス様。私たちはあなたを礼拝します。
 主よ。あなたが王の王、主の主として帰ってきてくださる日を待ち望んでいます。その日、私たちはすべての国々から聖徒たちが集められて、本物のハレルヤ・コーラスを大声で叫ぶのを見るでしょう。主よ、すぐに来てください。
 主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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