2021.12.26 年末感謝礼拝「神の計画とその恵み」使徒の働き20章17〜32節



今年最後の礼拝でした。

半年あまり、旧約聖書を少しずつ読み解いて下さいました。

聖書の中で、厳しい律法が語られてるように感じてましたが、まず、最初に神さまが私達一人一人を愛して下さってる、という恵み、から始まっているということを示してくださった事、あらためて感謝しました。(Yu)

[礼拝説教] 中尾敬一牧師

聖書箇所:使徒の働き20:17-32(277ページ)
説教題「神の計画とその恵み」
 
 おはようございます。2021年の主日礼拝も最後となりました。週報には番号がふってありまして、私はどこかの時点で番号を書き間違えるかもしれないと心配しながらいました。でも、ちゃんと52となりました。主よ感謝します、と祈りました。今日も兄弟姉妹をお迎えし、共に礼拝し、主に感謝できますことを嬉しく思います。
 詩篇119:105《あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。》今年の年間標語聖句です。この詩篇119篇は「みことば」について歌っている讃美歌でした。その中でも、篇全体を象徴する節がこの105節です。「みことば」とは聖書のことです。特に聖書の中でも、モーセの律法と呼ばれる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のことを指して、この119篇では「みことば」「みおしえ」「おきて」と言っています。今年はモーセの五書を共に読みながら、みことばと共に歩む一年を過ごさせていただきました。「みおしえ」や「おきて」と聞くと硬くなってしまう私たちですが、みことばには主の恵みがあふれていましたね。人がエデンの園に置かれたのは恵みでした。ノアが残されたのは恵みでした。アブラハムが選ばれたのは恵みでした。イスラエルがエジプトから救われたのは恵みでした。主の民が荒野で養われたのは恵みでした。約束の土地をいただいたのも恵みでした。この恵みはすべてのことの土台です。すべての始まりです。私たちには神の恵みがある。これが足のともしび、道の光となるのです。
 「神のみことばと共に歩む」というテーマは今年特に覚えさせていただきましたが、来年以降も心に留め続けたい大切なテーマです。年が変わったら以前を忘れてしまうのではなく、ひとつずつ積み重ねていくことができたら幸いです。
 今日は年末感謝礼拝ですので、ここまでをまとめてお話します。今まで見てきた出来事を思い返しながら聞いていただきたいと思います。新約聖書を開きますから、先日もお話しましたように枠の話です。中身はどこにあるのかと思われるかもしれませんが、その中身は今年すでに話してきたことです。思い出しながら聞いてください。
 聖書箇所をお開きください。使徒の働き20:17-32(277ページ)【聖書朗読】
 
 使徒の働きは、パウロの宣教活動に同行していたルカが書いた書です。ルカの福音書と使徒の働きは前編と後編になっています。個人的には第1ルカの福音書、第2ルカの福音書とか名付けてくれれば分かりやすいのにと思いますが、こうなっていますので仕方がありません。イエス様の働きと弟子たちの働きは継続性がありますよ、イエス様と共に働いておられた聖霊は、弟子たちとも共におられて働いておられますと語っているのが、ルカの福音書と使徒の働きです。
 イエス様が働きの最後に捕らえられて、迫害者の手によって自由を奪われてしまいましたが、それでも主の働きは進んでいき、十字架が成就しました。それと重なるように、パウロの働きも、最後は迫害者に捕らえられて自由を失うところへと進んでいきます。今日開きました箇所は、パウロがこれから捕らえらることを聖霊に教えられて、クリスチャンの群れに最後の言葉を残している場面です。22-23節《ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。》ちなみにイエス様がかつて言われた言葉はこうでした。《「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子について、預言者たちを通して書き記されているすべてのことが実現するのです。人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(ルカ18:31-33)》イエス様は聖書の通りにとおっしゃっていますし、パウロは聖霊に導かれてと言っています。そして同じようなことが繰り返されました。ルカは働きの一貫性を見出しています。
 さて、パウロは最後に何を語ったのでしょうか。25-26節《今、私には分かっています。御国を宣べ伝えてあなたがたの間を巡回した私の顔を、あなたがたはだれも二度と見ることがないでしょう。ですから、今日この日、あなたがたに宣言します。私は、だれの血に対しても責任がありません。》聖書を語る人たちの目指すところがここにあります。パウロは教会のみなさんに、「話しておくべき必要なことは十分に語り尽くすことができました。後はみなさんの手に委ねられています。」と言い残しています。毎週、毎週、講壇で聖書を語っているのは、「牧師はありがたい話をすることができますから、いつも牧師に聞きに来てください」ということではありません。聖書のメッセージをみなさんの手に託しているのです。たとえすべてのメッセージを語り尽くすことはできなくても、少なくともみなさんが聖書を読むときに、それを理解することができる鍵をお渡ししています。噛み砕いて渡し、噛み砕いて渡し、やがて固いままでも霊の糧を得ることができるように奉仕しています。
 続く27節で《私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。》と書いています。パウロが語っていたのは「神のご計画」でした。神の御心と表現する場合もあります。主のご計画ですね。聖書には神のご計画が記されています。「え、神の計画?陰謀論か何かですか?」とおっしゃる方がおられるでしょうか。陰謀論ではありません。隠されていないからです。人びとに知られないように行われているのではありません。聖書によって人に明らかにされている計画です。陰謀論ではありません。それは歴史の中で確かに実現しているからです。陰謀論は人を怖がらせるだけで実現しません。「では、何ですか。世界を牛耳る選ばれし者たちが計画を実行し、人類をコントロールしているのですか?」いいえ。何と、神である主は人をコントロールするのではなく、人に仕え、恵みを与えているのです。(恵みとは受ける資格のないものが、何の代価もなしに与えられるものです。)この計画にはすべての人が関わっています。むしろ《この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれた》と書いてあります。これが聖書が明らかにし、すべての人に伝えようとしている神の計画です。
 今年、モーセの律法を読んで何を知りましたか。神のみことばには主の恵みがあふれています。パリサイ派はモーセの律法を法律の部分だけ抜き取り、ルールにしてしまいました。律法にはアダムをエデンの園に置かれた主の愛が記されていたはずです。律法には主と共に歩んだノアが残されたことが、またアブラハム、イサク、ヤコブと共におられた主の恵みが記されていたはずです。律法には出エジプトの救いが記されていたはずです。荒野で食べのものを与えてくださり、敵から守ってくださったこと、約束どおりに土地を与えてくださったことが書いてあったはずです。律法を十戒から始めてはいけません。その十のことばでさえ《わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である》と始まっています。パリサイ派の中のパリサイ派であったパウロは、イエス様と出会い、目からウロコが落ちて聖書が分かりました。主イエス様から「神の恵みの福音」を教えてもらったのです。「え、神の恵みの福音て十字架のことじゃないんですか?」そうです。十字架は、レンズを通る光が一点に集まって、また広がっていく時のように、その光の焦点になっています。しかしパウロは神の恵みの福音を点では語りませんでした。聖書全体から線で語ったのです。一連の神の恵みの中で十字架は焦点であると語りました。神の恵みの福音は聖書全体から、どこらかしこから溢れています。
 「教会に起こる様々な問題の大部分は、私たちが神の計画(主の御心)を知らないことにゆえんする」とは私の仮説です。それを表面的にしか分かっていないのではないかと思うのです。少なくとも私自身はそれを良く知らずにいました。神の御心というのは、何か秘められたことで、断食して祈り続けている時に神の声が聞こえてきたりして分かるものか何かのように考えていました。確かに主の御心の中には「摂理」と呼ばれる秘められていて私たちには知らされない事柄もあります。例えばヨブは病の原因を決して知ることがありませんでした。しかし、その摂理も神の計画の一部であり、摂理があるということは明らかにされています。神のご計画自体は秘められたことではありません。聖書において明らかにされています。熱心な祈りの中で示されるということも時にはあるでしょう。しかし、必ず聖書に照らし合わせて霊を吟味してみなければならないとヨハネは警告しています(Iヨハネ4:1)。
 今日の午後はクリスマスの片付けをすることになっております。クリスマス礼拝は終わりましたが、まだ飾りは残っていまして、余韻を楽しんでおります。このクリスマスツリーの飾りはひとつの木に飾られているので美しいのです。あちらこちらに散らばっていては何にもなりません。そのようにクリスチャン生活に関わるあらゆる事は、神のご計画(神の御心)という木にすべて繋がっています。教会という群れがあるのも、私たちが宣教をするのも、祈るのも、賛美するのも、聖書を読むことも、互いに挨拶をすることも、食事をともにし聖餐式をもつことも、献金することも、すべて神の恵みの福音に繋がっているのです。私たちが平日には散らばっていくことも、神の御心によってです。ひとつのところに集まっているだけが御心ならば、修道院のように24時間同じ建物で共同生活をすべきでしょう。しかし主は弟子たちを派遣なさるお方です。派遣され、帰ってきて、また派遣され、帰ってくる。これを繰り返しています。これは主のご計画によるのです。その恵みの計画を知らないことはクリスチャンの悲劇です。そんなわざわざ集まらなくても、神様に心を向けて、平安な気持ちで、信じる思いがあればいいじゃないと言っている人たちが少なからずいます。聖書にはそう書いてあるのでしょうか?教会って聖書と関係ない事なのでしょうか?新約聖書の後の方にだけ出てきて、主の民というのは旧約聖書には出てこないのでしょうか?
 もちろん今はコロナのことがありますから、物理的に集まらないことは隣人への配慮であり、愛です。ですからインターネットを使って集まることもしています。ネットで礼拝に集うことが悪いとか劣っているとか、そういう意味ではありません。ただ、ネットでの形で、どうやって主の恵みの計画が成っていくのか、色々と思いを巡らしていくことは大切なことでしょう。今後の課題です。教会は神のみ心に繋がっています。
 最後に32節を読みます。《今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。》これから二度と会えないだろうと覚悟していたパウロは、教会を神とその恵みのみことばにゆだねました。世間の人びとは、キリスト教というのはパウロが懸命に働いたから広まったのだと言っています。知ったように言う人達は全然聖書を読んでいないか、読んでも理解できなかったのでしょう。あるいは、そう言っておけば通ぶれると思っているのかもしれません。ですが、そんな訳はありません。ちょっと学んでみればすぐに間違いと分かることです。パウロの手紙だけで恵みの福音が分かりますか?彼は聖書を解き明かしていたではありませんか。アダム、ノア、アブラハム、イサク、モーセを引用して、主の恵みを説明していたのです。パウロから出た言葉ではありません。神の恵みは聖書によって明らかにされています。
 神のご計画のすべてを、余すところなくみなさんに知らせたい。これが私の思いです。毎週説教する理由です。神の恵みの福音を知らせ、証しすることが私の役目、みなさまは恵みのみことばに肉付けしていってください。牧師は時が経てば交代していきます。しかし、主とその恵みのみことばに基礎を据えるなら、この群れは岩の上に建つ家のように、堅く立って、主を証しすることができるでしょう。
 お祈りいたします。《あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。》
 
 天の父なる神様。この一年も私たちを瞳のように守り、御翼の影にかくまってくださった主よ。あなたの真実な愛のゆえに、心から感謝いたします。
 今年は引き続くコロナ禍の中で、牧師が交代した年でありました。大きな試練でありましたが、あなたは私たちを守り、恵みに恵みを加えてくださいました。ありがとうございます。私たちにみことばを与えてくださりありがとうございます。私たちの足にともしびを、道の光を与えてくださり、闇の中にとどまることのないようにしてくださいました。人びとが、これからどうなるのか分からないと言っていた時に、私たちはどこに向かっているのかを知っていました。その道が恵みに溢れていることも教えていただきました。一歩一歩、踏み出した時に思いがけない恵みを見出しました。なんと幸いなことでしょう。
 私たちの頭には、あなたの恵みとあわれみの冠がかぶせられています。人びとがこれを見て、あなたのみ名をほめたたえますように。《わがたましいよ 【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ 【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。》
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
写真はfuminさんより




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