2022.1.2 新年礼拝「主の恵みを証する」使徒の働き20章32~35節


 新年のご挨拶を申し上げます。

今年最初の礼拝です。会堂の壁は何もなく真っ白で、次の新たな日々を予感できます。普段はなかなか来られないご家族や子供たちも一緒の楽しい礼拝になりました。年頭に当たって今年の教会の標語聖句が発表され、今年、何を目当てにして歩むかが示されました。わたしたちに注がれている神の恵みをしみじみと思います。今私たちは激動の時代に生きていると語られました。一体、人類、私たちの行く先はわかりませんが、今年も聖書を解き明かしていただき、神の御心と共に歩むこと、そこに希望があると確信してスタートします。(Re)


[礼拝説教] 中尾敬一牧師

聖書箇所:使徒の働き20:32-35(278ページ)
説教題「主の恵みを証する」
 
 新年あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。会堂も昨年末にクリスマスの片付けをいたしまして、スッキリしております。また今年もここからみなさんとともに、主のみことばに支えられて、イエス様の教会を建てあげて参りたいと思います。ひとつひとつ主の恵みによって彩っていきたいと思います。テーマを掲げる絵も制作をお願いしてありまして、下準備が進んでいます。ただ、新年礼拝の日にバン!と掲げておくのではなく、まず御言葉とキャンバスから始めて、そこから表現していきたいと願っています。
 今年の標語聖句をお開きください。使徒の働き20:17-32(277ページ)【聖書朗読】
 
 みなさまお気付きの通り先週の続きです。先週は前年のまとめのメッセージをいたしました。新年ですから気持ちは新たにしたいと思いますが、御言葉は掛けられています。聖書は全体でメッセージを語っているのですから、これまでのことを積み重ねていただきたい。目に見えない真理は堅く保ち、目に見える形は時々リセットすることが大切です。預言者エレミヤは瀬戸物を作っている職人の姿を見て、主の働きの本質を教えられました。エレミヤ書にはこう書いてあります。《私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。》なぜ作り変えられたかというと、理想の形は陶器師の心にあるからです。教会の本質は、神の御心にあります。私たちが伝えようとしているのは、目に見えない真理、しかし現実の歴史に実現している神のご計画です。
 パウロは今日の箇所で何を言っているのでしょうか。イエス様が直接選ばれた弟子たちは使徒と呼ばれます。イエス様が天に昇っていかれた後、使徒たちは教会にイエス様の教えを伝える人たちになりました。彼らはおそらく献金によって生活を支えられていたと思います。旧約聖書の主への捧げものの用途を考えても、レビ人の生活のために使われていたのですからおかしいことはありません。主の民の中に恵みによって生きる人達がいることは、すべての人が主の恵みによって生きていることを証ししています。ところがパウロは、自分のビジネスを持っていまして、自分の生活や教会の牧会、宣教にかかる費用を自分で賄っていました。《私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました》とはそういう意味です。パウロは他の使徒たちを批判しているのではありません。他の箇所では、使徒たちが献金によって支えられていることは当然のことと説明しています(Iコリント9)。しかし、パウロが何も受けないで働くことによって、主の御心の別の側面を表現することができると言っているのです。その側面とは、主のご計画はすべて恵みだということです。
 主は一体どんな利益を目論んで世界を創造されたのでしょうか。一体どんなメリットがあって、人を丁寧に形作られたのでしょうか。一体どんな見返りを求めて、自らの命を捨てて、私たちを救ってくださったのでしょうか。聖書に書かれているあらゆる出来事を思い出してください。神である三位一体の主は決して貪ることのないお方です。ただただ私たちを愛してくださっているゆえに、すべてのことを成してくださっているのです。
 年間標語聖句を書いていただくにあたって、私には悩みがありました。これはちょっと長すぎるのではないかと思ったのです。字数を数えてみました。前回は24文字。今回は記号も入れて33文字。9文字も増えているんですね。「どうしようかなぁ。鉤括弧の中だけにして、後は口頭で説明しようかな」だいぶ悩みました。でも思い切って、そのままお願いしてみましたら、すぐに分かりましたと言っていただき、きれいに枠に収めてくださいました。本当に感謝です。
 「主イエスご自身が言われた」この部分を外してしまいますと、物語が失われ、道徳の話になってしまいます。聖書は道徳の本ではありません。聖書は、神の恵みの計画を明らかにしているのです。主は私服を肥やすものがひとつもないのに、世界と私たちを創造し、罪を忍耐し、帰ってくる者を子として迎え入れ、悔い改める者を新しい天と地に残してくださいます。神は愛です。
 その主イエス様が私たちを招いてくださっています。わたしに付いてきなさいと。ルカはイエス様の言葉を思い出して《『受けるよりも与えるほうが幸いである』》と書きました。マタイは《あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)》と書きました。パウロは《私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。(ローマ15:1)》と書きました。これがイエス様の弟子の姿です。イエス様の教会の姿です。かつて主ヤハウェがご自分の民に言われた言葉と全く一致しています。《あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、【主】であるわたしが聖だからである。(レビ19:2)》主が恵み豊かであるように、私たちもまた恵み豊かでなければなりません。そうして主の民が証しすることが主のご計画なのです。
 【標語を開く】そういうわけで2022年の標語は「  」です。
 今年も引き続き聖書の物語を追いながら、聖書全体のメッセージを学んでいきましょう。私たちがどのような歴史をたどって今日に至っているのか知らなければ、神の言葉を取り違えてしまい、台無しにしてしまいます。また私たちがどこから来てどこへ行くのか分からなくなり、闇の中に陥ってしまうことになります。愚かな者は経験に学び、賢い者は歴史に学ぶと言います。イエス様が弟子たちに解き明かされた聖書全体のメッセージを今年も知っていくようにしましょう。そこには主の恵みがあります。今年は約束の地から、士師の時代、そして王国時代を順に見ていきたいと思います。説教で語るのは標語聖句の鉤括弧の外側です。「主ご自身が」私たちに注いておられる恵みをまず知ることです。
 そしてその応答は、私たちがどのような群れで「ある」かです。《互いに酷使し合ってはならない。》《兄弟は苦難を分け合うために生まれる。》《主によって互いに祝福し合い、互いに主を誇りとする。》《からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合う》《互いに文句を言い合うのはやめなさい。》《互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。》《互いに受け入れ合いなさい。》《愛をもって互いに仕え合いなさい。》《互いの重荷を負い合いなさい。》《互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。》《互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。》《互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。》《きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。》《不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。》これらの御言葉をよく心に留め、従いましょう。これらはすべて主が私たちにしてくださったことです。
 互いに~しなさいと聞けば、あの人はしていない、この人もしていないと裁く方に向いていくのが私たちの弱さです。よくよく考えてみると、あの人は私に~していないと裁いていたということはないでしょうか。しかも昔の出来事をずっと覚えていて、あの人はあの時私にこうした、こうしなかった、と言い続けていることはないでしょうか。私たちは主から受け、人に与えるのです。受けるのは主から。《ただで受けたのですから、ただで与えなさい》とイエス様はおっしゃいました。あの人はしていない、この人はしていない。そんな事、放っておけばいいじゃないですか。主が正しく裁いてくださいます。イエス様を見てください。主イエス様は何か受け取ったのですか?受け取らなかったどころか、ご自分の民が「十字架につけろ、十字架につけろ、殺してしまえ」と叫んでいるのを見たのです。何一つ受けなかったのに、しかし、命を与えてくださいました。
 どうしても受けることと与えることのバランスが取れないと難しいこともあるでしょう。与えることが難しいと感じるなら、主がどれほど私に与えてくださっているか、もっと知る必要があるということです。ですから、この標語聖句は鉤括弧の中だけでは成り立ちません。まず主イエス様が何をしてくださったのか知ることから始まります。
 このようにして、主の恵みを受けた私たちは、世の人々に「ここに主の恵みがある」と証するのです。主はご自分の民をわたしの宝だとおっしゃいました(出19:5)。世の中にはお宝を自分だけで楽しみたいタイプと人に見せたいタイプの方がおられます。主はお宝を見せたいタイプのようです。ですから、私たちは人びとを教会と関わるように招き、また、恵みを携えて人びとのところに出ていきます。招くことも出ていくことも伝道です。
 礼拝に人びとを招くことを今年も継続していきます。礼拝に人びとを招くことは以前の方法からの転換です。20世紀では、信徒に向けた活動と求道者に向けた活動が2つに分かれていました。ノンクリスチャンが集まる時は伝道集会をしていたのです。礼拝と伝道集会は2つの違う集会でした。かつて、キリスト教宣教は活動家の分野とみなされていました。活動家というのは精力的に行動する人たちですが裏を返せば、学に興味がない人たちというニュアンスもありました。聖書の勉強をしているより伝道活動に邁進せよ!という風にです。21世紀にはパラダイムシフトと呼ばれる、神学的な変革が起こっています。実は激動の時代です。それに貢献したのは宣教学です。くっつくはずのなかった宣教と学がくっついて宣教学が起こってきたのです。最初は学者からも活動家からも冷ややかに見られていました。こちらでは「宣教など学のない人たちの行動だ。マタイ28:19大宣教命令だけを取り上げて騒いでいるばかり。聖書を調べてどこから宣教の話が出てくるのか。」反対側からは「宣教に携わりたいというものが、座って聖書を開いて何をしているのか」と。ところが、宣教学の発展によって、聖書はこれ自体が神の宣教だと分かったのです。教会の存在は神の宣教だと分かったのです。礼拝と伝道は2つの別々のことではなく、統合されたものでなければなりません。それが主の御心です。
 そうすると、根本的な考えが転換されてきたのですから、教会の活動や制度も適応していかなければなりません。例えば、礼拝式は信徒だけが集まるものとしてプログラムされており、時折、伝道礼拝となった時には、今度は求道者に向けたプログラムとなってしまいます。統合されたものではなく、スイッチのように切り替わっています。礼拝式は信仰者が聖霊によって心から主を礼拝する場であり、同時に、周りの人びとが恵みに触れ、招かれている場です。これを統合していくにはどうしたら良いでしょうか。共に考えて見ましょう。外で行う伝道はどうでしょうか。ジョン・ウエスレーは聖餐式を野外で行いました。礼拝を外に持って行ったのです。招いておられるイエス様がご自身から私たちのところに来てくださったことを良く表しているのではないでしょうか。神の国が向こうからやってきた。これは福音です。
 教会は心臓の鼓動のように、毎週同じリズムを持って、集まることと散らばっていくことを繰り返しています。礼拝と祈祷会に集まるとすれば、今年も104回、この鼓動を繰り返していきます。私たちが主の恵みをあふれるほどに受け、溢れ出た恵みを人に与えるなら、集まっている時も散らばっている時も、あらゆる時に主を証しする者となります。それが今年のテーマです。
 お祈りいたします。《主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。》
 
 天の父なる神様。愛と憐れみに富み、怒るのにおそく、恵み豊かである主よ。み名を心から賛美いたします。この年も、こうして兄弟姉妹とともに、あなたのみ前で安息の時をいただいて始めることができますこと、心から感謝いたします。
 主よ。今年もあなたの御言葉によって私たちを導いてください。御言葉を通して、またあらゆることを通して、あなたの恵みを教えてください。あなたの愛の広さ、長さ、高さ、深さを更に教えてください。あなたから受けるものによって十分に満ち足りることができるようにしてください。人に求めるのではなく、あなたの愛で十分に満たされた者としてください。
 私たちを日々作り変えて、あなたの恵み豊かな姿を映し出す群れとしてください。聖霊なる主よ。私たちをみ心によって、主のように聖なる者としてください。イエス様のように自分の十字架を負って従うものとしてください。ただで受けたのですから、ただで与えることができますように助けてください。
 今年もあなたの恵みに触れた人たちが、主イエス様を信じ、洗礼を受け、群れに加えられますように。あなたのように恵み深いお方は他にいません。
 感謝して、主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。





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