2021.6.20 主日礼拝「不従順」 創世記2:15~17、3:1~10、12:1~3

 
そよ風吹く晴天の朝、講壇の後方に、色彩豊かに飾り付けられた天の川。その流れに爽やかなやすらぎと癒しを頂きながらの礼拝式が始まります。
 
冒頭に中尾先生から、竿代信和先生がご召天されたとの報告がありました。竿代先生はインマヌエル綜合伝道団から派遣された最初の宣教師のお一人で、帰国後は名古屋教会でのご奉仕、教団の総理等、重責を担ってくださった方。この3月まで王寺教会でご奉仕下さった田辺宣恵先生のお父様でもあられ、私達教会員にとりましても、ここ数年は信和先生のご健康について、心合わせて祈る事が多くあり、寂しさを感じずにはおれません。
 
先生とつながりのあった中尾先生は個人的な親交についてもふれられ、竿代先生の姿を思い返しながら最後こう話されました。「牧師は名声を受けるような説教をすることよりも、目をみはるような組織をまとめ上げることよりも、まず群れと共に歩み破れ口に立つものでなければならない。」と。
 
お二人の先生に、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。
 
「神である主は人に命じられた。あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」創世記2:16、17
 
今日はアダムとエバの信仰とアブラハムの信仰の対比です。アダムとエバは、主が善悪の知識をみこころによって与えて下さることを待つことができず、それを善悪の知識の木から得ようとして食べてしまいました。
 
そんな二人に、全てを御存知の主が「あなたはどこにいるのか?」と呼び掛け、さらに「何があったのか?」と聞いて下さいました。しかし、彼らは神様に「あなたの前に罪を犯しました。」とは言わず「蛇が私を惑わせた。」と。不従順を繰り返してしまいました。
 
一方アブラハムは神様から最愛の息子イサクを生贄にするよう命じられ、命令通りイサクにナイフを振り落とそうとした時、主はそれを止められました。アブラハムがその試練の意味を理解したのは、イエス様の十字架を見た時です。(ヨハネ8:56)主は、イエス様がイサクの身代わりとして屠られることを計画されていたのだと。
 
神様は私達を成長させ強くするために、時に試練を与えられることがよくあります。主を信頼してイサクを差し出した従順なアブラハムに対し、主に不従順を繰り返してしまうアダムとエバに、自身を重ね胸が痛みます。
 
しかし、主はそんな私達を代価無しに赦し、イエス様の十字架の贖いによって罪の中から救い出して下さったのです。
 
私達が喜びをもって毎聖日に主の前に出て、神様と話し、そして愛する方々と交わりがもてるのは、偉大な神様の愛と、イエス様の主への従順によるのです。
 
「神様、どうか主を信頼し、みこころに従う従順な者に造り変えて下さい。そして、どうか神様の内にとどまらせて下さい。」と祈らずにはおれませんでした。( okumoto )

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