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2026.03.22 教会創立記念礼拝「切り出された岩を見よ」イザヤ書51:1-8

 



63年前に主によってつくられた王寺教会。今日は創立当初に思いを馳せました。主によって導かれこの教会に加えられたものとして、できることをしていきたいです。(megu)



礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今日はインマヌエル王寺教会の創立記念礼拝です。インマヌエル王寺教会は1963年にJR王寺駅近くの王寺町久度にて教会活動を開始しました。西村先生と7名の信徒によってスタートしたと記録されおります。

その7名の信徒のひとりであった矢野姉を一昨年天に見送りました。世代は変わっていくものですが、初期の教会の様子をご存じの方がおられますので、初めの頃のお話を伺いました。

神である主が歴史を見る視点があります。それは聖書の視点です。聖書を読めば、神様が事の始まりと、その後の経緯を覚えておられるお方だと分かります。次の世代に語り伝えよと言われました。イサクも、ヤコブも、ヨセフたちも、自分が生まれていなかった時代に神様とアブラハムの間で何があったのか知っていたのです。主がアブラハムと約束(契約)されたことの流れに、自分が置かれていると認識していました。

私たちには、個人のクリスチャン人生という歴史と、置かれている群れの歴史があります。群れの歴史は個々人のクリスチャン人生が織り合わされたものです。個人主義が進んでいく中で、クリスチャン人生にはよく思い巡らすことがあるけれども、教会の群れには無頓着であることが増えてきています。しかし、聖書は個人と主との関係も、群れと主との関係も、どちらも取り上げています。それらは絶妙に織り合わされていると明らかにしています。

すべてのことは神である主から始まります。私たちはインマヌエル王寺教会が誕生した時にはいなかった人たちばかりです。しかし、主が「わたしは王寺の町にわたしの教会を建てる」と言われたから、すべてが始まり、今日があります。今日は「初め」に心を留めてみましょう。

聖書をお開きください。イザヤ書51:1-8(1255ページ)【聖書朗読】

イザヤ書は旧約聖書の預言書の中で一番最初に出てきます。預言書の順番は文章の長さで決まっています。ですから、イザヤ書というのは長いのです。長いということは、何を語られているか分かりにくいということにもなります。

この長い預言書が、結局伝えようとしたことは、「神の裁きがイスラエルの希望になる」ということでした。エルサレムはバビロンに滅ぼされて、更地になる。人々は連れ去られて、この地からいなくなる。しかし、それはきよめる炎であって、炎の後には、神の救いが来る。70年後、その日には、あなたがたは救いの泉から喜びながら水を汲むと語られました。だから焼き尽くす炎がやってくるけれども希望をもちなさいと、主は言われたのです。

ところが、イスラエルの人々は、この預言を喜んで聞き入れようとはしませんでした。結局、イザヤは弟子たちに預言書を渡して、封印することになりました。人々が本当にイザヤ書に向き合い、主のことばに希望をもったのは、イザヤの時代よりもずっと後、バビロン捕囚が実際に起ってからだと言われています。

イザヤ書は前半と後半に分かれていて、39章までがイザヤの時代、40章からがバビロン捕囚以降の時代にたって語られています。今日開きました51章は後半部分に入っています。すなわち、もうエルサレムは破滅して、更地になってしまった。もう人々は捕え移されて、約束の地から追い出されてしまった。その状態で語られたのです。

主は言われました。《エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。(イザヤ40:2)》これはどういうことでしょうか。目の前に見える現実と、まるで違うように思えます。バビロンでの苦役は終わっていませんし、遠いエルサレムは荒れ果てたまま。罪の償いの代わりに、その2倍の祝福が与えられたと言われても、まだ目には見えません。

そこで今日の箇所です。《あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴に目を留めよ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼一人を呼び出し、彼を祝福し、彼を増やしたのだ。(51:1-2)》神の民イスラエル民族のスタート地点はアブラハム(アブラム)でした。アブラムの時代は、バベルの塔の後です。地上のすべての人が創造主を忘れてしまっていました。アブラムさえも、ほかの神々に仕えていたとヨシュア記に書いてあります(ヨシュア24:2)。ヤコブが逃げていった親戚のラバンは偶像を持っていましたね。そのような霊的に壊滅状態の世界で、主はアブラム一人を呼び出され、祝福されました。またイサクが生まれた経緯も奇跡でした。0から神の救いが始まり、奇跡によって増えたのです。それが神の民イスラエルの「初め」でした。

世界的にキリスト教徒が減ってきています。あまりに目に見えて信徒数が減っていくので、教会は壊滅するんじゃないかと嘆いている人も見かけたことがあります。もし仮に、(聖書は一切そのような事は示唆しておらず、起こるとは思いませんが、思考実験として)世界中からクリスチャンがひとりもいなくなってしまったとしたら、どうなるでしょうか。神の民、教会は終わりなのでしょうか。そんなことはありません。主はゼロから民を起すことがおできになるからです。実際、一度、それをなさったのです。

エルサレムは神殿も王宮も、家々も城壁も破壊し尽くされ、70年間放りっぱなし。都は廃墟になり、荒地、砂漠となっていました。風が強く吹き、砂が飛ばされ、石が転がる音が聞こえるだけ。ところが主は、まもなくエデンの園に響く感謝の歌声を聞いておられました。

「初め」に目を留めることは、私たちの希望になります。切り出された岩、掘り出された穴を思い出すことは希望です。昭和38年より前には、インマヌエル王寺教会はありませんでした。主がひとつの岩から切り出されたので、インマヌエル王寺教会が始まったのです。主が呼び出し、主が祝福されました。

王寺教会の証集を読み返していました。創立から7年ほどたった頃の西村先生の証が載っていました。西村先生の苦悩が書いてありました。教会の実情を考えながら、「少しも進歩前進しているようには見えない。悪くいえば、辛うじて後退を止めて停滞している」と感じておられたようです。具体的に何がそう思わせたのかは書いてありませんでしたので分かりません。でも、創立から7年経って、いけいけどんどんで進んでいたわけではなかったようです。

アブラハムは0から1の恵みを経験しました。何もなかったのに突然祝福されたのです。そうして、アブラハムひとりから、妻やロト、使用人たちが加わりました。でも、そこから先が問題でした。アブラハムには子供がいないし、普通に考えて、彼もサラも高齢で子供が与えられる望みはありませんでした。ところが主は、人の考えを超えて、約束通りにサラからイサクを生まれさせてくださいました。主がアブラハム一人を呼び出し、彼を祝福し、彼を増やしたのです。これが「初め」の出来事です。

アブラハムはサラからの子イサクが生まれるまで25年待ちました。75歳からの25年です。あの25年間と同じような期間を西村先生も過ごしおられたのかもしれません。0から1になったけれども、そこからどうやって増えるのか。人の考えでは全く不可能に感じられる。そのような事があったのではないでしょうか。

しかし主は、アブラハムとの約束を守られたのと同じように、インマヌエル王寺教会を顧みてくださり、ただただ神の御業によって、今のようにまでしてくださいました。創立当初はアパートの一室に足踏みオルガン一つだったそうです。聖餐式の器具でさえ他の教会から借りていたそうです。昨年、会堂のエアコンが壊れて一冬難儀しましたけれど、もちろん当時はエアコンもなかったですね。持っていなかった時よりも、持っているものを失った時の方が人は慌てるのですね。創立記念が来るたびに創立当初の様子を想像してみたいと思います。

今では会堂が与えられ、60年以上の間で積み上げられてきた物や経験などがあります。しかしそれでも、神の御業は同じように現れています。いつも人の考えを超えて、私たちが何かしたからではなく、主に導かれた人々が加えられ続けているのです。

4-5節には、神の宣教の様子が語られています。《わたしの民よ、わたしに心を留めよ。わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしのもとから出て、わたしが、わたしのさばきを諸国の民の光と定めるからだ。わたしの義は近く、わたしの救いは現れた。わたしの腕は諸国の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に期待をかける。》さばきを受けて、焼き尽くされることは証にはならないと考えるのが、人間の考えでしょう。ところが、焼き尽くす炎によってきよめられ、救われて二倍の祝福を受けることは、諸国の民の光となると主は言われるのです。主が考えておられることは、本当に人の考えとは違うのです。実際、世の中では滅びたらおしまい、一度落ちたらおしまいと多くの人が思い込んでいます。主の救いを知らないのです。アブラハム一人を呼び出し、彼を祝福し、彼を増やした主を知っている私たちは、福音を携えています。神の救いはとこしえに続き、神の義は絶えることがありません。

神である主が「初め」の記憶を大切にしておられるように、私たちも「初め」をおぼえておきましょう。後のすべての人々が初めの恵みに立ち続けるために、あの苦悩の時期があったということ。たとえ物が増え、自信が増したように思えても、主により頼むことを忘れてはいけません。0を1にすることができるお方だからこそ、焼き尽くす炎も容赦がないことを心に留めましょう。主は今日も同じようにご自分の御業を進めておられます。主に心を留め、主に耳を傾け、主の腕に期待をかける新しい一年の歩みとなりますように。



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