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2026.04.05 イースター礼拝「あなたはすべてをご存知です」ヨハネの福音書21:1-23





今日はイースター礼拝でした。復活されたイエス様を信じ、何があっても従って歩むものになりたいです。また今日は中尾先生の王寺教会での最後の礼拝でした。今まで王寺教会のためにたくさんご尽力いただきまして本当にありがとうございました。(megu)


礼拝説教 中尾敬一牧師

イースターおめでとうございます。私たちの救い主イエス・キリストは、十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に死から復活されました。主はよみがえられました。今も生きておられます。

4つの福音書の最後の数章に、イエス様が墓からよみがえられた朝の様子が記録されています。それは日曜日の朝の出来事でした。イエス様の弟子たちも、誰一人、イエス様が復活するとは想像もしていませんでした。女性たちがお墓を見に行きましたところ、墓の入口をふさいであった岩がわきに転がっていました。ペテロとヨハネが中を確認すると、イエス様のからだはなくなっていたのです。女性たちが途方に暮れ、泣いたりしていると、天使が現れて、イエス様がよみがえられたと言いました。それから間もないうちに、復活されたイエス様は、彼らに、またエルサレムにいる人々に姿を現されました。福音書は、「私たちは復活されたイエス・キリストを見た」という証言でもあります。

今も生きておられるイエス様は今日、私たちに何を語っておられるでしょうか。主は復活の後、天に昇られ、人の目には見えなくなられました。目に見えないお方の声をどうやって聞くのでしょうか。御言葉である聖書を通してです。また、御言葉を悟らせ、思い出させてくださる聖霊の御業を通して、今日、私たちはイエス様の語りかけを聞くことができます。死からよみがえられたイエス様のことばを聞きましょう。

聖書をお開きください。ヨハネの福音書21:1-23(229ページ)【聖書朗読】

この箇所はシモン・ペテロと復活されたイエス様のやり取りを伝えています。今日の箇所に注目する前に、前提として思い出しておかなければならない出来事がありました。それは、イエス様が十字架にかかられる直前のことです。ペテロは12弟子の中でも、最もイエス様に従うことに熱心な弟子でした。彼の心のなかには「私は他の弟子の誰よりも主を愛し、主のためにベストを尽くしている」という自負があったのではないかと思います。そして周りの弟子たちも、ペテロには一目置いていたことでしょう。

ところが、ペテロは大失敗をしてしまいました。イエス様が祭司長たちに捕えられて、裁判の場所であるカヤパの家に連れて行かれた時、ペテロはヨハネと共に、その家の中庭に入り込みました。その家で裁判が始まり、声が聞こえるほどの距離で、主イエス様が訴えられていました。ペテロが忍び込んだ中庭には裁判の関係者や家の使用人たちが多くいて、夜中だったので顔は見えづらかったのですが、人々がペテロに気が付き始めました。ペテロはいつでもイエス様の横にいたのですから、人々の記憶に残っていたとしても不思議ではありません。彼らが、ペテロに「あなたはイエスの弟子ではないだろうね」と聞いたとき、ペテロは「知らない。弟子ではない」と言い、嘘ならのろわれてもいいと誓いながら「そんな人は知らない」と言いました。彼は三度も主イエス様を知らないと言ったのです。

ペテロはその後、どんな気持ちでいたのでしょうか。彼は自分がイエス様の一番弟子だと思っていたでしょう。神を愛し、イエス様を愛していると自信がありました。しかし、自分でも気が付かなかった、本当の自分の本性が明らかになったのです。イエス様が人々から尊敬を受け、高められていた時には「私はイエス様の弟子だぞ」と胸を張り、イエス様が裁判にかけられ、人々から罵られていた時には「私はイエスの弟子ではない」と言ったのですから。私の愛は本物ではなかったと落胆していたのではないでしょうか。

イエス様は十字架の死から三日目によみがえられ、ペテロにも現れてくださいました。「平安があなたがたにあるように」と言ってくださいました。もちろんペテロはイエス様がよみがえられて嬉しかったはずです。でも、ちょっと心のどこかに、イエス様と合わせる顔がないというか、一体、主とどのように会話をしたら良いのだろうかと思うような後ろめたい気持ちがあったのではないかと思います。イエス様がよみがえられたのは本当に良かった。でも私は弟子としては失格だ。そう思ったでしょうか。みなさんだったら、どう思うでしょうか。

「私は漁に行く」ペテロはそう言いました。かつて網を捨ててイエス様の弟子となったペテロが「私は漁に行く」と言いました。「イエス様はこれからますますご活躍していかれるだろう。私はそれを遠くから応援していよう。でも、イエス様の一番近くにくっついて歩くのは…、弟子としての歩みはもう終わったんだ。」

そのようなペテロに、イエス様は再び現れてくださって、はじめの経験をもう一度再現してくださいました。ペテロがイエス様の弟子として歩み始めた最初の頃、夜通し漁をしても一匹も取れなかったのにイエス様の言う通りに網をおろしたら大量の魚が取れたという出来事があったのです。弟子としての最初に経験を主は思い出しておられ、ペテロにあの頃を思い出させてくださいました。みなさんも、イエス様の弟子として歩み始めた最初の頃を思い出してみませんか。どんなことがありましたか。

神である主との関係は、生きておられるお方との関係ですので、やはり人間関係と同じようなところがあります。やっぱり色々とあっての今日の関係です。ペテロは最初の頃と同じ出来事をもう一度経験したのですが、違う感覚をおぼえたはずです。最初の時は感動して、イエス様にどこまでもついていこうと思ったでしょう。ところが今回は、イエス様と一緒に朝ごはんを食べたのですが、会話が弾んでいる様子はありません。むしろあまり会話がなかったのではないかと思われる描写があります。

でも、この食事にもイエス様の愛をみることができます。落ち込んでいるときには食べることが助けになるそうです。エネルギー不足になると集中力や気力が落ちて、さらに落ち込んでしまいます。温かいものを誰かと一緒に(たとえ会話がなくても)取ることが良いと言われています。ペテロに必要なことをよく分かっておられて、備えてくださるお方なのです。

食事の後、主はペテロに言われました。直球の質問でした。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを(いつも無条件で)愛していますか。」最初の時なら、迷うことなくはっきりと答えたでしょう。でも今回は歯切れがよくありません。「はい、主よ。私があなたを(調子の良い時には)愛していることは、あなたがご存じです。」そうなんです。それは事実でしたから。イエス様は同じ質問を繰り返されました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを(いつも無条件で)愛していますか。」ペテロも同じ答えを繰り返します。「はい、主よ。私があなたを(調子の良い時には)愛していることは、あなたがご存じです。」イエス様はもう一度、三度目も、同じ質問をされました。でも、言葉を少し変更なさいました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを(あなたが言っているその愛で)愛していますか。」イエス様が三度も同じ質問を繰り返されたので、ペテロはあの日、裁判の傍聴席で三度、主を否定したことを思い出し、心を痛めました。ペテロは言いました。「主よ、あなたはすべてをご存じです。」私も自分自身が分かりました。まして主よ、あなたはすべてをご存知です。「あなたは、私があなたを(神の愛とは比較にもならない限られたものでできるだけ)愛していることを知っておられます。」

かつてのペテロは、自分がイエス様の側にいれば良いものをイエス様にもたらすことができると考えていたでしょう。しかし今はどうでしょうか。あの暗闇の中でさえ、人々はペテロがイエス様の側にいつもいた弟子だったと気がついたのです。イエス様の側にいるということは、人々が弟子たちも含めてイエス様を見ているということです。こんなフィレオーの愛しか持っていない自分が、イエス様の側にいたら、イエス様にとってプラスなのでしょうか、マイナスなのでしょうか。「マイナスとしか思えない。だから私は漁に行く。」そう思ったのではないでしょうか。

しかし主は言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」続く19節にはこう書いてあります。《イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。》ペテロが神の栄光を現すと書いてあるのです。「私がイエス様の側にいたら神のみ名が汚される。」これがペテロの考え。しかし、ペテロが両手に帯をされ連れて行かれるなら、神の栄光となる。これがイエス様の考えです。そして主は言われました。「わたしに従いなさい」

やがて私たちひとりひとりは、すぐに来ると言われたイエス様と直接お会いすることになります。その時には他の人がどうとか関わりはありません。すべてをご存知の方の前にひとりで立つのです。きっと気まずさを感じるのではないでしょうか。しかし、どうか覚えておいてください。イエス様の願いはただひとつです。「わたしに従いなさい。」 今日も生きておられて、私たちに語ってくださった主に、私たちはどう答えますか。



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