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2026.03.08 主日礼拝 「誤解を解き律法を確立する」ローマ人への手紙3:19-3



律法は救われるためにあるのではなく、救われた人に与えられるものと教えられました。
神である主が私たちを愛して下さったように、互いに愛し合うものになりたいです。(megu)

礼拝説教 中尾敬一牧師

おはようございます。今朝もようこそお集まりくださいました。私たち、罪人を赦してくださった主の御前に、今日も集められた恵みをおぼえて、主に感謝します。

受難節を過ごしている私たちです。十字架に向かっていかれた主イエス様を思い出しています。思い返してみれば、神である主は、苦しむお方でした。エデンの園から人が離れてしまってから、主はご自分の愛する放蕩息子(娘)たちのために苦しみ続けて来られました。生ける神が苦しんでこられたことについて、聖書全体を思い巡らしながら、この受難節に、深く考えてみたいと思います。

私のことを気にもかけないで自由にやると言う人がいたなら、その人の自由をコントロールしようとするか、そんな人とは一切関与しない、というのが人の常ではないでしょうか。自由にさせた上で、自分が苦しみ続けるとはどういうことなのでしょうか。神である主が、すべての人を愛しておられるということです。

その愛はどれほどでしょうか。ご自分の愛する独り子を、贖いの代価として犠牲にするほどでした。ヨハネの手紙にはこのように書いてあります。《神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Iヨハネ4:9-10)》

苦しみを考える時、私たちは神である主の愛を知ります。神の愛を見出す受難節でありますように。

聖書をお開きください。ローマ人への手紙3:19-31(301ページ)【聖書朗読】

ローマ人への手紙を理解するには、律法とはそもそも何かについて良く知っているという前提が必要です。ローマ教会はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの分裂が問題でした。その問題を解決するために、手紙が送られたのです。教会内部の問題と、律法の理解にいったい何の関係があるだろうかと思われるかもしれませんが、大いに関係があると主は(パウロを通して)語られました。

律法とはそもそも何でしょうか。出エジプトを思い出しましょう。律法はシナイ山で与えられました。この「タイミング」が重要なポイントです。エジプトで奴隷になっていて、モーセがファラオに対峙した時、律法はまだ与えられていませんでした。「律法を読み、これを守るならエジプトの支配から救い出してやろう」とは、言われませんでした。エジプトから救出されて、分けられた海を通り過ぎ、シナイ山まで来た時に、律法が与えられたのです。救われた民に、与えられたのが律法でした。十のことば(十戒)の序文は何でしたか。《わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、【主】である。(出20:2)》救われ、贖われた民に律法が与えられました。

そもそも律法は神の民が救われるために与えられたものではないのです。神の民として贖われた人々が主に従っていくための掟でした。バビロン捕囚から帰ってきた時にも同様です。律法を守るようになったからエルサレムに帰れたのではありません。70年の神の時が過ぎ、主のあわれみによってエルサレムに帰ることができました。そして神殿が再建された時、エズラは律法の書を読み上げ、民がそれを聞いて「アーメン」と言ったのです。救われるための律法ではなく、回復された民が従う律法です。

ところが、イエス様の時代のユダヤ人たちは律法を誤解していました。律法主義というその誤解は初代教会にも影響を与え、今日の私たちにまでも同じ現象がみられます。新約聖書の手紙の中で、パウロは独自の新しい教えを説いたのではありません。聖書にある通りの話を解き明かして、人々の誤解を解こうとしているのです。

律法主義とは、律法を守れば神の罰から救われるという考えです。私の努力によって基準を満たせば合格して救われるという考えです。ローマ教会にはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいました。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンは生まれ育った文化が違います。考え方、感じ方、習慣、食べ物などが違います。私はこうするけど、あの人はこうしない。そうすると、「私たち(ユダヤ人)のようにする人が救われるグループだ」「私たち(ギリシア人)のようにする人が救われるグループだ」_ 「私たちのグループこそローマ教会だ!」と互いに言い合うことになります。

20節《律法を行うことによっては神の前に義と認められない》について考えてみましょう。もし、人が生まれてからずっと、神の喜ばれることだけを行っていたのなら、神の罰をうける理由はありません。しかし、たった一度でも罪を犯すなら、神のさばきがくだります。たとえ罪を犯した後で「やっぱり今からは律法を守り始めます」と言っても、そもそも律法は救われるために与えられたものではないので、神のさばきを免れることはできません。これまで旧約聖書の中で、神の民はどうやって救われたのでしょうか。イザヤ書にはこうあります。《【主】はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか。──あなたの神は仰せられる──わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。(イザヤ54:6-8)》神の民は、永遠の真実の愛によって、神である主のあわれみによって救われたのです。罪を犯した後に律法を守った人は救われるとは、いったいどこから表れた考えなのでしょうか。聖書からはそのような教えは見つかりません。しかし今や、神の義が示されましたとパウロは言います。律法と預言者たちの書(旧約聖書)によって証された神の義(ご計画)は何でしょうか。罪人を救う神のあわれみの実体とは何でしょうか。神の御子、主イエス様の十字架によって、神の怒りをなだめる代価が支払われたということです。この十字架の代価を信じ受け取ることによって、私たちは贖われて(買い戻されて)、神の家族に帰ってこれたのです。

「私たちこそ救われる側だ、奴らは違う」と思い込んでいた誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。誤った律法の理解によってでしょうか。いいえ、聖書が本来証ししていた神の義によってです。人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって救われます。律法と割礼を持っている。これらは何の誇りにもなりません。ユダヤ人も異邦人も、すべての人が罪の下にあり、すべての人は神のあわれみによって、すなわちイエス・キリストを信じることによって救われるからです。

さて、救われた者には何が与えられるでしょうか。ここで登場すべきものが律法なんです。本来、律法が与えられるタイミングはシナイ山です。エジプトではありません。神の民、神の家族、イエス様の弟子となったのだから、主の御心を行うのです。「救われるために神の掟を守らなければならない」ではなくて、「神の家に帰ってきたので、主が喜ばれることを行いたい」なのです。クリスチャンではない人たちに聖書を読んでみてと勧めるのは、「これを行えば救われるよ」と言うためではありません。「神様の恵み、すなわちイエス様の死と復活によって、信じるだけで救われると書いてあるよ」と伝えるためです。クリスチャンが聖書を読む理由は、基準を守って救われるためではなく、神である主を愛しているからです。私たちをあわれんでくださった主が喜ばれることをいつも行っていたいからです。律法は無効になるのでしょうか。決してそんなことはありません。本来の目的で確立されます。

律法には何が書いてあったのでしょうか。色々と具体的な知恵と真理が書いてありますが、要約するなら「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」です。イエス様が最後の晩餐の時に、弟子たちにパンと杯を与え、「わたしの血による新しい契約です」と言って、新しい戒めをお与えになった時、何と言われたでしょうか。《わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)》主が私たちに最も望んでおられることは、私たちが互いに愛し合うことです。

ローマ教会がユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンに分かれて、争っている時に、こんな神学的なお話をして、どうにかなるの?と思いますか。パウロはこのローマ教会に、「ぜひ福音を伝えたいのです」と言いました。福音はユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。教会に何か問題が起こっていると、「聖書を読んでいる場合じゃない。こんな時には知恵を絞って、まず問題を治めないといけない」と考えてしまいがちです。でも、教会はイエス様が作られたのです。教会が何だかおかしいことになっているなというときは、主の御心から外れてしまっているときです。解決するためにどうしたら良いのか。それは神の知恵を知ることです。御言葉に立たない教会があったら、それは教会と呼ばれていても、教会ではない何かです。教会と呼ばれているのに、キリストの弟子ではない宗教団体か何かです。

教会とは、主イエス様を信じて救われ、神の家に帰ってきた人たちの群れです。「ユダヤ人クリスチャンたちはローマに何年も居なかったじゃないか。」「異邦人クリスチャンたちは律法のルールを守っていないじゃないか。」「だから私たちがローマ教会。あなたたちはローマ教会を名乗るな。」福音はそのように言っていません。すべての人は罪人です。すべてのクリスチャンは神の義によって救われました。自分の義によって救われた人はひとりもいないのです。「~だから、私はクリスチャンだ」と言える人は一人もおらず、「~にも関わらず、私はクリスチャンだ」というのが事実です。

神である御方が私たちに対して「~にも関わらず」で来てくださったのに、どうして私たちは他の人たちに「~だから」と言うのでしょうか。「~にも関わらず愛された」私たちが、どうして「~だから愛さない」と言うのでしょうか。神である主が受け入れてくださった一人ひとりです。私たちは「~にも関わらず」の心をもって互いに愛し合いましょう。互いに愛し合うなら、律法を確立することになります。



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