礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。今日も共に主を喜ぶ礼拝の時が与えられ感謝です。主イエス様の死と復活によって、永遠のいのちが与えられています。共に喜び、感謝しましょう。
今年に入ってからローマ人への手紙を読み始めています。一緒に読みながら、この書の当初に持っていた目的を知ろうとしています。ローマ人への手紙といえば、神学の書というイメージが強いのではないでしょうか。しかし、当時は教会の問題を解決するために書き送られたのです。「あなたたちはそんなことをしていてはいけない。方向転換をして神の義に相応しい道に進みなさい」とローマ教会は言われたのです。
旧約聖書にしても、新約聖書にしても、これは私たちがお勉強するためにある書物ではないのです。神の民を導くための神のことばです。イエス様の時代のパリサイ人や律法学者たちが陥った失敗は、神様に対して自分の正しさを示すために聖書を使ったということでした。神のことばに従って、主が導かれる方向に進もうとするのではなく、私はこれで大丈夫だと言って、誰にもどこにもついていこうとはしませんでした。結局、導こうとされた主イエス様を殺してしまったのです。
聖書は神の民(教会)を導いています。私たちは群れとして、神の御言葉に従って、イエス様についていくのです。神である主を受け入れようとしない世から救われて、新しい天と地に向かって、主イエス様が帰ってこられる日に向かって、方向転換をして進んでいきます。もちろん、進むと言ってもアチコチに引っ越しをするわけではなく、落ち着いた生活(Iテサロニケ4:11)をするわけですが、その生き方は主の日を待ち望んで、神の国の義を第一とする方向に向かっています。
聖書をお開きください。ローマ人への手紙3:1-18(300ページ)【聖書朗読】
前回は2章の後半を読みました。ユダヤ人クリスチャンたちに向けて語られていた部分です。ユダヤ人クリスチャンは、過去の歴史において、律法と割礼を持っていました。「私たちは持っているぞ」ということで、誇りをもっていたのです。しかし、彼らは律法に違反していました。みなさん、旧約聖書を読んできたことを思い出してください。律法には具体的に示された知識と真理がありました。主を恐れる。主とコミュニケーションを取る。主に感謝する。主と人の間でとりなす。夫婦は互いに恋い慕う。家族は贖われる。奴隷を再出発させる。利息を取らないで貸す。借金を免除する。等など、他にも沢山具体的な知恵と真理がありました。神を愛し、隣人を自分自身のように愛するための具体的な知恵と真理です。しかし、神の民は律法を守らず、代わりに、汚れた動物は食べていないぞとか、安息日には仕事をしていないぞとか、律法をルールにして本質を骨抜きにしてしまったのです。
ユダヤ人たちは、割礼という外見上のしるしを持っていました。全世界の中で、主の御名を宣べ伝える証人として、ショーケースの中に置かれていたのです。それなのに、彼らは主の御心に歩まず、他の国の人たちと同じく、罪の本質に生きていたので、割礼は無意味なものになってしまいました。かえって、彼らの姿によって、神の御名が汚されていて、もはや律法をもっているという利点は、何の誇りにもならなくなってしまいました。
さて、このようにユダヤ人クリスチャンたちがパウロから指摘をされていた時に、何が起こったと思いますか。ユダヤ人たちが罪を指摘されると、異邦人クリスチャンたちが盛り上がってくるわけです。「そうだ、そうだ!」「ユダヤ人だから何だって言うんだ。律法を先に知っていたから、割礼を受けているからって、偉そうにするんじゃないよ」と。するとパウロは異邦人クリスチャンたちに向きを変えて、3章から語り始めました。
《それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。》異邦人であっても、律法を守り、神である主の御名の栄光を行いによって輝かせる人であるなら、御霊による心の割礼をうけた人目に隠れたユダヤ人になることができます。それは血筋の問題ではなく、信仰による従順の問題です。しかしながら、そうだからユダヤ人の割礼には何の益もないじゃないかとは言えません。先があるから後があるのです。一番があるから二番、三番が続くのです。アブラハムの子孫、ユダヤ人がシナイ山で聖書をいただいたのですから、異邦人は神の掟を知ることができるようになりました。
主の掟は、石板に書いてあろうがなかろうが、書物に記されていようがいまいが、この世界をお造りになった主の御心です。もし、書かれた律法がないままに、主が喜ばれることを行おうとするなら、手探りでやってみるしかありません。隣人が困っている時に、利子を付けてお金を貸したとします。「それが主に反抗する行為だとは知りませんでした。だから私は無罪ですね」とはなりませんね。主は聖書があるかないかに関わらず生きておられるわけですから。律法がなかったら、私たちは心にある良心が、困った人から利益を得るのは良いことではなさそうだなと感じることを頼りに、手探りで主の御心を行うしかありません。主の御心であるのかどうか、完全に明確ではないのですから、神のさばきを考えながら恐る恐る歩むしかないでしょう。しかし、ユダヤ人たちが神のことば(律法)を委ねられたので、異邦人たちは恐る恐る進む無くても、神のことばにアクセスすることができるようになりました。彼らが世界の中で神の宝の民とされて、ショーケースに入れられたことによって、まことの神のことばがどこにあるのか判別できるようになりました。
「ユダヤ人が律法と割礼を持っていることが一体何だ。何の意味もないじゃないか」と言うなら、神様のご計画を軽んじているということ、彼らを通して与えられた祝福に何の感謝もないということになります。
ローマ教会の異邦人クリスチャンたちが、ユダヤ人クリスチャンを見下していたこと。この背景には、神である主のご計画を大切にしていないという問題があったわけです。3~8節で語られている事柄に、異邦人クリスチャンの姿が映し出されています。彼らの姿はどうでしょうか。神様のご計画に対して、まるで評論家(コメンテーター)になっています。
「ユダヤ人の中に不真実で、不信仰で、従わない人たちがいたから、神様のご計画というのも失敗しちゃったよね。」いいえ、決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であって、神の計画(御心)に従わなかったとしても、神である主は約束を果たされる真実なお方です。「あ~、そっか、そっか。そうだよね。人間がめちゃくちゃやっても、神の計画は完璧だよね。だったら、何で怒ったりしてるわけ?人間が悪かった分、神の計画が素晴らしいって分かったよね。良かったじゃん。神の栄光だよ。なのに、み怒りを下すなんて、おかしな話だね。もういっそ、もっと悪を行えば、神の栄光がもっと表れていいんだから、どんどんやっちゃおうか。」いいえ、決してそんなことはありません。人の悪が神の栄光になるのではなく、神の義が神の栄光を表すのです。_ 「神の計画がそんなに大事なの? 完全な計画かな。穴だらけじゃないの」とつぶやいている姿が思い浮かびます。神のことばを前にして、コメンテーターになっている。まるで私たちの方が神様のご計画を評価する立場にあるかのように思っている。このようことは、現代の私たちにも当てはまらないでしょうか。
教会にあるあらゆる問題の根底には、「イエス様をかしらとする教会なのに主への畏れがない」という問題があります。私たちはどのような姿勢で、神のみ言葉を聞いているでしょうか。「主よ、あなたのご計画を教えてください。あなたの御心を教えてください。私があなたの計画に従っていき、御心を行って、イエス様の後をしっかりついていけるように導いてください」と思って聖書を読んでいるでしょうか。それとも、「私が心休まるような聖書箇所が見つからないかな。私の計画が上手くいく秘訣が見つからないかな。」と思って聖書を開くでしょうか。イエス様が先に進んでおられるでしょうか。自分がイエス様を従えて先に進んでいるでしょうか。イエス様の時代にも、イエス様にこう言った人たちがいました。《「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください。」(マタイ8:21)》《「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」(ルカ12:13)》自分が今困っている問題、自分の計画が先にあるとこのような言葉が出てきてしまいます。すべてのことは主が心配してくださると聖書に書いてあります(Iペテロ5:7)。神様の完全な計画の中で、すべてが上手くいくようになっているのです。私たちに安息を与える計画が立てられています。だから、私たちは主が立てておられる計画に従っていくために、神のことばに耳を傾けるべきなのです。
8節に中傷という言葉があります。別の言葉で言えば「悪口を言われている」ということです。この悪口の裏には、神の計画なんて穴だらけで完全ではないじゃないかと鼻で笑うような考えがあります。神様の計画が完全に思えないのは、人間の理解が神の知恵に遠く及ばないからです。理解できないから、人間の知恵によって、ああだこうだ、評論家のように言うのです。主の真実はさばきの日にすべての人に明らかになりますが、その日になってからでは、もうどうにもなりません。
聖書によって明らかにされている、神である主のご計画を重んじるなら、教会にいる人々を、神のご計画によって加えられたひとりひとりとして受け入れるようになります。あの人は素晴らしいから受け入れられる、あの人は素晴らしくないから受け入れられないではなく、神の計画によって兄弟姉妹とされたすべての人々を主にあって受け入れ、愛し合うようになります。
結局、ユダヤ人クリスチャンの方が優れているのでしょうか。異邦人クリスチャンの方が優れているのでしょうか。ユダヤ人クリスチャンにしても、異邦人クリスチャンにしても、優れているところは全くありません。ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪のもとにあるからです。
先聖日は「かたじけない」という話をしました。私たちはみな、一人残らず、すぐれていないのにイエス様の教会に招かれたのです。かたじけなくも神の宮に住まわせていただいている私たちなのです。そのような自覚が私たちのうちにあるでしょうか。高慢になって、神様のご計画さえも評論できる人間であるかのように考える罠にかかっていないでしょうか。そんな私たちを救うために、主イエス様は来てくださいました。神である主ご自身がすべての人の罪の宥めのささげ物として、十字架にかけられました。イエス・キリストを信じるなら、この贖いを通して、価なしに義と認められ、永遠のいのちが与えられます。ですから、恵みによって与えられた永遠のいのちに相応しく歩みましょう。

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