礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。主を喜ぶことは私たちの力です(ネヘミヤ8:10)。主のあわれみによって、今日も私たちは集められました。今日は聖なる日ですから、罪を悲しむのではなく、主の恵みを共に喜びましょう。
受難節にはいくつかのキーワードがあります。ひとつは先日話しましたメタノイア(悔い改め、方向転換)です。他にも「断食」というキーワードがあります。キリスト教会は受難節に断食をする習慣をもってきました。イエス様が公生涯を始める前に、40日間荒野で断食をされたことを思い出すためです。
イエス様は荒野で四十日四十夜、断食され、悪魔の試みを受けられました。荒野は何があった場所でしょうか。かつて神の民がエジプトから脱出して、カナンに入るまでに40年間過ごした場所です。古代イスラエル人は荒野に40年。イエス様は荒野に40日。イエス様は神の民の歴史をなぞっていかれました。悪魔の試みは3つありましたが、いずれも神の民が失敗したことについて、イエス様を試みたのです。①とにかく、まずパンが欲しいと貪ること。②自分から破滅に向かっておきながら、神である主が自分を助けるか試みること。③主以外のものを頼みにして、偶像礼拝すること。しかし、イエス様はイスラエルが失敗した試みをすべてパスされました。空腹をおぼえる状況でも、ただひたすら主を求めたのです。
断食の正しい意味は、飢え渇く時に主を求めることです。「私は衣食住を求めない。ただ主を慕い求めます。」これが断食の意味です。衣食住なしに生きられる人間だということではありません。「私の必要、私の幸せは主が最高のものをいつも用意してくださる」ということです。「神を無視して、幸せを自分でかき集めようとしません。私がただひとつ必要なのは神である主です。主がおられれば全てが満たされます。」この信仰が断食の意味なのです。
この朝も、共に同じ信仰をもって、主を求めましょう。
聖書をお開きください。ローマ人への手紙3:31-4:25(302ページ)【聖書朗読】
前回は、律法が与えられたそもそもの目的を思い出しました。律法はシナイ山で与えられたものでしたから、救われるための書物ではありませんでした。しかし、ユダヤ人たちは、律法を守れば神の罰を免れて救われると誤解していました。だから律法をもっていることを誇りに思っていたのです。その誇りのゆえに異邦人クリスチャンを簡単に受け入れたがらなかったのです。
律法が求めていることは、教会が互いに愛し合うことです。ところが律法は救われるための書だと誤解したことによって、律法は愛のないルールブックとして使われはじめ、台無しになってしまいました。人は神の愛(主のあわれみ)によって救われるのです。昔も今も、将来に渡って変わることのない真実です。神の恵みによって救われたのだから、主に喜ばれることを行いたいと思うように変えられ、律法の最終目標「主を愛し、互いに愛し合う」に向かっていきます。こうして私たちが神の愛に生きる時、律法は確立されます。
モーセの律法とは、創出レビ民申命記のことです。先日、山上の説教の学び会がありました。感想を分かち合っている時、ある方が言われました。「聖書は簡潔に要点が箇条書きにまとまっていたら分かりやすくていいのにと思ったことがある」という趣旨の言葉でした。みなさんもそう思ったことはありませんか。でも、律法(モーセ五書)は箇条書きではありません。法律のように条文の一覧でもありません。それは物語です。主は物語(実際の出来事の記録)として律法を書かれました。どんな出来事が、どのような時系列で起こったか。その時、神である主は何をなさったか、人はどう応答したか。そのように一連の出来事を知らせるものとして、律法を作られました。これはとても重要なポイントです。律法を相応しい方法で読んでいないから、特に、出来事の経緯を忘れてしまっているから、ローマ教会は互いに愛し合うことができなくなっていると言われているのです。
パウロは律法そのものの物語によって律法や割礼の誤解を解こうとしました。「律法のルールを守ったら義と認められたということがありましたか。割礼を受けたから義と認められたということがありましたか。ありませんでしたね。アブラハムを思い出してください。ダビデの言葉を思い出してください」ということです。物語には時系列が大事なんです。
全ての人間が神を忘れてしまった世界で、アブラムは神である主に呼ばれました。彼はいきなり神の祝福を受けました。そこで彼は主を信じて、主が告げられたとおりに出ていったのです。その後に、主と契約を結んだ印として割礼を受けました。律法が出てくるのはもっともっと後です。アブラハムが死んで、孫のヤコブがエジプトに移住し、それから400年経って、子孫がエジプトを脱出して、シナイ山まで来た時に、ようやく律法が登場します。信仰の父アブラハムが義と認められたのは、割礼を受けたからではなく、律法のルールを守ったからでもありません。突然現れて、祝福してくださった主を信じて、主が告げられたとおりに出発したから、義と認められました。
アブラハムの子孫とは、その血を正統に受け継いだユダヤ人のことでしょうか。いいえ、アブラハムと同じように、主を信じて、主が告げられたとおりに方向転換(メタノイア)する人たちのことです。その中にはユダヤ人もいるし、ギリシア人もいる。すべては信仰によるのです。それはアブラムが祝福された創世記12章の段階から、神のご計画でした。だからアブラムは「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と言われたわけです。
聖書を読み、主の掟を知るなら、私たちが神に喜ばれることなど、不可能であると分かります。人は息をするように罪を犯しています。「誰かに対して怒って、馬鹿者とか愚か者と言ったら人殺しと同じ罪だ」とイエス様は言われました。人はみな罪人であって、神のさばきから救われるのは不可能です。しかし、アブラハムは何を信じたのでしょうか。彼は高齢であって、妻も子どもを産める状態ではなかったのに、「あなたの子孫は、このようになる」と言われたことを信じました。彼の信仰は不可能を信じる信仰だったのです。みなさん、自分のことは自分が一番知っていますよね。自分が救われるのは不可能だと誰よりも知っていますよね。そうです。事実それは不可能です。しかし、神である主は不可能を可能にしてくださいました。神に不可能なことはありません。アブラハムは、神には約束したことを実行する力があると信じました。クリスチャンとは、神である主が不可能を可能にしてくださったと信じた人々です。私が救われるなんて不可能なのに、主は御子の十字架によって私を救ってくださったと信じたのです。アブラハムと同じ信仰です。
教会のメンバーとは誰でしょうか。聖書にないことを勝手に作り出して、教会のメンバーを定義していないでしょうか。律法を持っていた人がローマ教会でしたか。割礼を受けている人がローマ教会でしたか。聖書に記されている一連の出来事の中で、本当にそんな話があったでしょうか。ありませんでした。教会のメンバーって誰でしょうか。総会の資料に載っている第一種会員のことでしょうか。礼拝に毎週来るようになって、だいたい5年ぐらい継続した人のことでしょうか。献金をして財政に貢献している人のことでしょうか。奉仕に励んで役に立っている人のことでしょうか。聖書検定の合格者のことでしょうか。お祈りが上手にできる人のことでしょうか。証で人を感動させられる人のことでしょうか。洗礼をこの教会で受けた人のことでしょうか。教理の理解が正しい人のことでしょうか。交流の輪にうまく馴染んでいる人のことでしょうか。_ 聖書にはイエス様によって教会が作られて、初代教会につながっていった一連の出来事が記されています。その物語の中に、今言ったような話はありませんでした。ところが、私たちは時に、神の物語にはなかった話を勝手に作り出すことがあるのです。教会のメンバーは、不可能を可能にしてくださる主を信じ、神の恵みによって救われ、主のことばに従って御霊によって歩んでいる人たちのことです。それ以外のことはありません。
互いに愛し合いなさい。「はい、主よ。私は兄弟姉妹を愛しています。この人たちを愛しています。あの人たちは兄弟姉妹とはちょっと違いますもんね。」もしこのように思うことがあれば、立ち止まって、聖書の物語をよく思い出してみなければなりません。世の中の常識から倣うのではなく、自分の感覚や周りの人の考えに合わせるのではなく、昔からの習慣を基にするのではなく、神の物語を土台として考えなければなりません。どういう経緯で教会が建てらたのでしょうか。ルールによって定まっているのではありません。一連の出来事(神の物語)によって定義された教会が教会です。もしイエス様の出来事と繋がっていなかったら、教会と呼ばれているのに教会ではない何かになってしまいます。王寺教会はイエス様の教会なのです。
アブラハムはある日突然、祝福を受けました。当時の世界は神である主を完全に忘れ、いのちの源を離れて、ただひたすら滅びようとしていました。二千年前のあの日、イエス様の隣の十字架にかけられた犯罪人の言葉を思い出します。《おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。(ルカ23:41)》人間のしたことを考えれば、この世界は滅びて当たり前です。自分のしたことの報いとして死に至ることは当たり前です。ところが、神である主は突然、一方的に、アブラハムがまだ何もしていないのに、彼を祝福し、アブラハムによって地のすべての人々が祝福を受けると言われました(創12:1-3)。そんな不可能なことはあるでしょうか。《私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。(Iヨハネ4:9)》こんな不可能なことはあるでしょうか。しかし、アブラハムは神には約束したことを実行する力があると確信しました。クリスチャンと呼ばれる人たちもそうです。神には約束したことを実行する力があると、十字架の死と復活は不可能を可能にすると確信したのです。
滅びるのが当然であった私たちが救われたのは、神の恵みによって不可能が可能にされたからです。私たちには何の誇りがあるでしょうか。何の誇りもありません。教会が互いに愛し合えないのはどうしてでしょうか。傲慢や妬みがあるからではないでしょうか。私の方が優れていると考える誇りがあると傲慢になります。あの人の方が優れていると考える誇りがあると妬みになります。私の方が聖書を理解している。私の方が頑張っている。私の方が常識がある。私の方が役立っている。私の方が霊的だ。私の方が…。(逆に、あの人の方が…。)不可能を可能にしてもらえたから、教会に加えられたのに、一体何が誇りになるというのでしょうか。聖書は「誇るものは主を誇れ」と言っています。私たちの誇りは不可能を可能にしてくださった、憐れみ深い主、このお方だけです。
私たちに、知らず知らずのうちに入り込んでくる実体のない誇りが取り除かれるように祈りましょう。聖霊によって、主だけを誇る者たちに変えられ、互いに愛し合って、心ひとつに神をほめたたえる群れとなるように祈りましょう。


0 件のコメント:
コメントを投稿