今日は汗ばむくらいの暖かい1日でしたね。
ユダを親しい友として裏切りも全て受け入れて下さったイエス様のいつくしみ深い愛を知りました。もしこれから間違った方向に進んでしまったとしても、イエス様の元に立ち返り身に余る愛を受け取れる者になりたいです。(megu)
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。今日も主にある兄弟姉妹と共に礼拝し、主が帰ってこられることを待ち望んでいます。主が与えてくださった恵みに感謝します。
今年の受難節が始まりました。主イエス様の生涯と御業を記念する教会暦の3つ目の季節です。受難節を過ごす時のポイントのひとつは悔い改めることです。
悔い改めるとは、ギリシャ語のメタノイア(μετάνοια)を翻訳した言葉です。「悔い改める」がメタノイアの意味に近いだろうということで、長年聖書の訳語として使われてきましたが、実際にはだいぶ語弊があります。日本語の悔い改めは反省して行為を繰り返さないようにすることですが、古代ギリシャ語のメタノイアは心の方向転換・価値観の転換・生き方の向きを変えることを意味しています。
「神の国が近づいた。メタノイアして福音を信じなさい。(マルコ1:15)」神が存在するなんて信じもしない生き方から、私を創造された主がおられると信じるようになる。私が自分の生活の糧を頑張って稼いでいるんだという世界観から、神の恵みによって日々の糧が与えられていると信じる価値観に変わるなどということです。「メタノイアにふさわしい実を結びなさい。(ルカ3:8)」生き方が方向転換されると、出てくる結果が変わってくるということです。「メタノイアして神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。(使徒3:19)」神を無視し、神に不平を言い、神に怒り、神が示すところに絶対行こうとしない生き方を変えるなら、罪赦されて神である主との関係が回復されます。「神のいつくしみ深さがあなたをメタノイアに導きます。(ローマ2:4)」神様のいつくしみ深さにふれる時、生き方の方向転換に導かれます。こうしてみると、悔い改めるとは表面的に近い感じはするけれども、本質的には意味の違う言葉であると分かると思います。
メタノイアしないで、世の中の人と同じ世界観や価値観で生き続けるなら、私たちは実を結ぶことのないいちじくの木のようになってしまいます。今年の受難節は、神のいつくしみ深さをさらに深く味わい、また新しい方向転換に導かれていきたいと願います。
聖書をお開きください。ヨハネの福音書13:21-30(212ページ)【聖書朗読】
今日の箇所は、イエス様が十字架にかかられる直前の最後の晩餐と呼ばれる食事会のときの出来事です。イエス様が十字架にかかられたのは、ユダヤ人の過越の祭りの期間でした。この祭りのときに、ユダヤ人たちは家族や親しい人たちと集まって、一緒に食事をする習慣がありました。イエス様は、この過越の食事を12弟子たちと一緒に過ごされました。彼らがイエス様の最も親しい人たちとして愛されていたことが分かります。
イエス様はこの後、ユダヤ人の祭司長たちによって逮捕され、不当な裁判にかけられて、ローマ総督の死刑判決を受け、十字架につけられます。その背景には、イエス様が神を冒涜する者として、ユダヤ人の指導者達に憎まれていたという事情がありました。ユダヤ人の指導者達はイエス様を殺そうと計画を立てていました(ヨハネ5:18)。彼らがイエス様を殺したいほど憎んでいることは公然の事実でしたが、12弟子のひとりであったイスカリオテのユダは、なんと祭司長たちのところに行って、どのようにしてイエス様を彼らに引き渡すか相談し、引き渡しに成功したら銀貨30枚をもらう約束を取り付けたのです(ルカ22:3-6)。そして最後の晩餐の後、ユダは、師であるイエス様を敵に売り渡しました。それでも、死刑になるとは思っていなかったようです。その後、一晩のうちに死刑判決が下され、ユダは驚いて祭司長たちに金を返しに行きました。祭司長たちがそれを受け取らなかったので、ユダは後悔して、金を神殿に投げ込んで立ち去り、自らの命をたってしまいました(マタイ27:1-10)。
イエス様は、最後の晩餐のとき、ユダが祭司長たちと繋がっていること、この後、ご自分が十字架にかけられることになることを全てご存知でした。そのような中で、どのようにユダと、また他の弟子たちと接しなさったのでしょうか。
イエス様は言われました。《「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを引き渡します(裏切ります)。」》(脚注に※あるいは「引き渡します」と書いてある通り、直訳では「引き渡す」)この言葉に込められたイエス様の思いは、18節を見ると、垣間見えてきます。《聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。》と、詩篇41篇を引用して話しておられました。
詩篇41篇はダビデの詩です。前後を含めて読みますと、こう歌われています。《私の敵は私の悪口を言います。「いつ彼は死にその名は消え去るのだろうか。」人が見舞いに来ても その人は噓を言い 心のうちでは悪意を蓄え 外に出てはそれを言いふらします。私を憎む者はみな 私についてともにささやき 私に対して悪を企みます。「邪悪なものが 彼に取りついている。彼が床についたからには もう二度と起き上がれまい。」私が信頼した親しい友が 私のパンを食べている者までが 私に向かってかかとを上げます。》かかとを上げるとは、踏みつけて屈伏させようとしているということです。敵が悪口を言い、見舞いに来た人も心の中で悪意を蓄え、なんと信頼した親しい友や私のパンを食べている者までが、私を踏みつけようとしていると言っています。以前、旧約聖書から家族の話をしたときに、「父の家」や「贖い主(ゴエール)」について説明しました。家族は父に養われ、食事の保証を受けていました。私のパンを食べている者とは、父の家に属する家族や雇い人、やもめ、在留異国人たちのことです。愛して、日々の糧を与え、恵みによって生活を支えている家族のことです。そんな家族さえも、かかとを上げると言っているわけです。
イエス様は、ユダや他の弟子たちをどのように思っていたでしょうか。詩篇41篇には、敵や嘘つきの見舞い人、私を憎んでいる者なども出てきますが、イエス様はユダを敵だと思っておられたのでしょうか。イエス様は最後の部分だけを取り上げて、弟子たちに語られたのです。すなわち、ユダや他の弟子たちを「私が信頼した親しい友」「私のパンを食べている者」として見ておられたということです。
しかし、弟子たちはイエス様の心の思いを理解していませんでした。彼らはイエス様がだれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていました。なぜ互いに顔を見合わせたのでしょうか。互いに顔を見合わせる場面にみなさんも居合わせたことがあるでしょうか。どういう時にそのようにしたでしょう。互いに顔を見合わせるのですから、目が合うのだと思いますが、互いの目で何を話したのでしょう。
イエスが愛しておられた弟子(この福音書を書いたヨハネ)は、イエス様の側で食事をしていました。当時は寝そべりながら食事をするスタイルですから、横になっていたと書いてあります。ペテロがヨハネに送ったのは「イエス様がだれのことを言われたのか尋ねろ」という合図でした。ペテロはどうして裏切り者の正体を知りたかったのでしょうか。ペテロの心の中と、イエス様の心の中を比較してみたいと思います。ペテロの心の中には、まず「私はイエス様を引き渡すような人間ではない」という考えがあったでしょう。また「誰が裏切り者なのか知らないままにしておけない。私はこの件で裏切りを阻止するために立ち上がなければならないのだ」というペテロらしい正義感があったのではないでしょうか。もしペテロがユダのことを知ったとして、ペテロは彼を自分の兄弟として愛そうとしたでしょうか。ペテロのようにしてしまうことは、私たちにもあるのではないでしょうか。しかし、イエス様は違いました。イエス様は全部知っておられたのに、ユダを「信頼する親しい友人」「私のパンを食べている家族」として受け入れ、なおパン切れを浸して彼にお与えになりました。イエス様はユダを愛されたのです。ここまではっきりと言って、パン切れを渡しているのに、周りの弟子たちはユダが裏切り者であると分かりませんでした。こんなに明確にしているのになぜと思います。パン切れを浸して与えるイエス様の様子が、裏切り者を晒し者にしようとする行為とは程遠い様子であったからでしょう。どのようにされたのか文面からは読み取りにくいのですが、逮捕の時まで、ユダがイエス様を引き渡すとは誰も分からなかったのです。ご自分の敵でさえも、私のパンを食べている家族として愛し、パンをお与えになった主イエス様は、今日でも世界中のキリスト教会で行われる聖餐式にて、変わることなくパンを与えてくださっています。
さて、イスカリオテのユダはこのようにしてイエス様を裏切ったのですが、裏切りを予告されその通りに行ったのは、ユダだけだったでしょうか。いいえ。イエス様を引き渡したのはユダだけでしたが、実はイエス様を裏切ったのはイスカリオテのユダだけではありませんでした。だれのことを言われたのか尋ねるように合図したシモン・ペテロは何をしたでしょうか。13:38で、彼はイエス様にこのように言われました。《まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。》何のことかと言いますと、この後、イエス様は逮捕されて、夜のうちに裁判にかけられるのですが、ペテロとヨハネはその裁判が行われた大祭司の家の庭に潜入したのです。目と鼻の先で、イエス様が不当な裁判にかけられて、死刑にされようとしていました。ペテロはイエス様の弟子であったのですから、様々な証言に対して、証言が正しくないことを証明することができる人物でした。ところが、声を上げて訴えるどころか、その庭にいた他の人たちに、「あなたはイエスの弟子ではないだろうね」と言われ、それを三回も否定したのです。ペテロも、裏切りを予告されその通りに行いました。
他の弟子たちは、16:32で、こう言われました。《あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。》最後の晩餐の後、イエス様の一行はゲツセマネの園で祈ってから、兵士たちに見つかります。明かりとたいまつと武器をもってイエス様を逮捕しにやってきた大勢の兵士たちを前に、弟子たちはみなイエス様を見捨てて逃げてしまいました(マタイ26:56)。他の弟子たちも、裏切りを予告されその通りに行いました。
イスカリオテのユダと他の11人を分けたのは、罪を犯したかどうかではありません。みな罪を犯しました。ユダと11人を分けたのは、イエス様を裏切ったかどうかではありません。みな予告されその通りにイエス様を裏切りました。ユダと11人を分けたのは、裏切った後に、どうしたかです。
インマヌエル讃美歌89番に「狭き道をば」という讃美歌があります。「狭き道をば たどる身なれど ほめ歌わが口にあり この魂に かたじけなくも 御霊はいますなり」「かたじけない」は時代劇でしか聞かない古い言葉です。「畏れ多い。もったいない。身に余る恩恵を受けて感謝するようす。」を表します。とても日本的な表現だと思います。イエス様は私たちの罪を背負って、私たちの身代わりに神にのろわれた木(十字架)にかかって、私たちの負債を清算してくださいました。私たちには罪の報酬である死の代わりに、キリストの復活によって永遠のいのちを与えてくださったのです。私たちは裏切り者であるのに、神である主はいつくしみを与えてくださいました。「かたじけなくも、主イエス様を信じよう。救いの恵みをいただこう。」11人の弟子たちはそのようにしたのです。あなたもそのように一歩踏み出すことを主は願っておられます。

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