【福音】は信じる全ての人に救いをもたらす神様の力と教えられました。この1週間も神様の力をいただいて歩んでいきたいです。(megu)
礼拝説教 中尾敬一牧師
おはようございます。この朝、イエス様がご自分の羊の群れである私たちを愛してくださったことを覚えて、主に感謝します。
今年に入ってから、私たちは新約聖書の手紙を読み始めました。使徒たちが生きていた時代の教会を初代教会と言いますが、初代教会は礼拝の時に、これらの手紙を朗読しました。何度も繰り返して、会衆の中で朗読していました。その時代、聖書と言えば旧約聖書のことでした。使徒たちから送られてくる手紙を礼拝の中で朗読するとは、どういうことだったのでしょうか。想像してみてください。
これらの手紙は教会に宛てて書かれた手紙だったのに、どのようにして礼拝で朗読すべき聖なる書物たり得たのでしょうか。その理由は、イエス様の直接の弟子である使徒たちは、イエス様の教えを忠実に守るように教えていたからです。使徒たちの教えは主イエス様の教えを伝えるものだったからです。イエス様は天に昇られる前に弟子たちに言われました。《あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ28:19-20)》これらの手紙と同時期に書かれた文章があり、礼拝では決して読まれなかったものがあります。例えばトマスの福音書などが有名です。なぜ受け入れられなかったのか。それはかつて直接聞いたイエス様の教えと異なっていたからです。イエス様の教えと異なる文章は受け入れられませんでした。そういうわけで、教会は使徒たちの手紙がかつて直接聞いた主イエス様の教えと一致していることを確認し、礼拝の中で朗読し、ただ読むだけでなく、語られた通りに従おうとしたのです。それらは「教会がこれこれの点で悔い改めなければならない」という具体的な教えでした。
旧約聖書を読む時の大切なポイントは、主イエス様が解き明かされたように読まなければならないということ。新約聖書を読む時のポイントは、これが弟子たちの教えではなく、主イエス様の教えを伝えたのだと心得て読むことです。
聖書をお開きください。ローマ人への手紙1:14-17(297ページ)【聖書朗読】
最初にローマ教会に起こっていた問題の背景をお話しました。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが互いにさばき合っていて、教会が分裂状態にあったことです。この分裂状態に平和が与えられ、最後には心を一つにし、声を合わせて、神をほめたたえるようにと語られたのがローマ人への手紙でした。
その本題に入る前に挨拶の部分で、教会が主イエス・キリストによって愛され、召された人々の群れであることを確認しました。それから、教会の信仰が全世界に語り伝えられているゆえに、神に感謝しました。
さて、ここからの部分は2:1に繋がる言葉です。2:1-2《ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。…神のさばきが下ることを、私たちは知っています。》どうして神のさばきが下ろうとしているのか、なぜ弁解の余地がないのか、1章の後半に書いてあるのです。他人をさばく者よとは誰のことでしょうか。ユダヤ人クリスチャンの方でしょうか。異邦人クリスチャンの方でしょうか。両方ですね。ユダヤ人クリスチャンは異邦人クリスチャンをさばいていたし、異邦人クリスチャンはユダヤ人クリスチャンをさばいていたからです。教会全体が神のさばきを前にしていたのです。
パウロはいったいどんな動機をもって、一度も訪ねたことがないローマ教会に、神のさばきを警告する手紙を書いたのでしょうか。パウロは「私は負い目のある者です」と言いました。負い目とは、借金とも訳せる言葉です。損失を与えたので埋め合わせをしなければならないということです。パウロが過去に与えた損失とは、イエス様の教会を迫害したことです。彼は福音を悟らず、福音に反対し、教会を壊そうとした人物でした。《「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(Iテモテ1:15)》ということを悟らず、自分こそは神に仕えていると思い込みながらイエス様のからだを傷つけていたのでした。パウロはその過去を決して忘れることがなかったのです。福音を悟らないローマ教会の様子を聞いて、黙っていてはいけない、福音を語らなければならないと心動かされたのです。
《ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(15節)》とパウロは熱く語りました。だけど、ちょっと待ってください。「ローマにいるあなたがた」とは、ローマ教会のことですよね。ローマにいるクリスチャンたちのことですよね。イエス様を信じて、洗礼を受け、聖日ごとに集まって礼拝している人たちのことですね。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたい」とパウロは語りました。
福音伝道。福音を伝えるというと、私たちは「クリスチャンではない人たちにイエス様の十字架の話をすること」だとイメージするのではないでしょうか。でも、聖書はそのように書いてありませんね。ローマ教会のクリスチャンたちは福音を知る必要があると言われているのです。(福音とは2-6節に書いてあることです。)
《福音には神の義が啓示されて(17節)》います。神の義については、旧約聖書からよく学んできました。人が考える正義とは違います。エゼキエル書33:12-20(1474ページ)を読んでみましょう。《人の子よ、あなたは自分の民の者たちにこう言え。『正しい人の正しさも、その人が背いたときには、それが彼を救うことはない。悪しき者も、その者がその悪から立ち返るときには、その悪につまずき倒れることはない。正しい人でも、罪ある者となるとき、自分の正しさによって生きることはできない。わたしが正しい人に「あなたは必ず生きる」と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正を行うなら、彼の正しい行いは何一つ覚えられず、自分の行った不正によって死ななければならない。わたしが悪しき者に「あなたは必ず死ぬ」と言っても、もし彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公正と義を行った彼は必ず生きる。』あなたの民の者たちは『主の道は公正でない』と言っている。しかし、彼らの道こそ公正ではない。正しい人でも、自分の正しい行いから離れ、不正を行うなら、彼はそのことのゆえに死ぬ。悪しき者でも、自分の悪から離れ、公正と義を行うなら、そのことのゆえに彼は生きる。それでも、あなたがたは『主の道は公正でない』と言う。イスラエルの家よ。わたしはあなたがたを、それぞれの生き方にしたがってさばく。」》聖書全体を通して明らかにされている神の義は、このようなものです。ある人たちは「主の道は公正ではない」と言います。現代でも同じだろうと思います。世の中の正義は、「必ず生きる」と判断された人が生き、「必ず死ぬ」と判断された人が死ぬことが公正だと考えるからです。しかし、かつて神の民が歩んだ数千年の歴史を見て、知ることができる神の義とは何でしょうか。すべての人間は「必ず死ぬ」と宣告されましたが、悔い改めて主に従った人は、神の豊かないつくしみと忍耐と寛容を受け、悔い改める心がなかった人は滅びてしまいました。悔い改めるなら必ず神の救いがある。これが神の義、これが福音です。
パウロはローマ教会の様子を聞き、彼らがみな、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも弁解の余地無く神のさばきに合うと分かったのです。しかし、パウロは絶望しませんでした。かえって、希望に満ちてはっきりと語りました。《福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(16節)》どんな状態にあっても、悔い改めて、イエス様に従うなら、(信じるとはイエス様に従って、イエス様の言われる通りに行うという意味です。ヤコブ2:22)救いがもたらされます。
最終的に違いは誰に現れるのでしょうか。正しい人と悪い人で分けられるのでしょうか。世の人々はそれが正義だと考えています。正しい人が残され、悪い人が排除されるのが義だと考えています。しかし、神の義によるならば、最終的な違いは、悔い改めて、生き方を変え、主イエス様の言われる通りに神の国の生き方をしようとするか、悔い改めないで、そのままの生き方を続けていくかによって表れてくるのです。
「信仰に始まり信仰に進む」クリスチャンとして第一歩は、イエス様を神と認めない生き方から、イエス様を私の神として歩み始めることに始まります。それは神の国の生き方であり、私たちの第一歩です。しかし、それだけではありません。福音はクリスチャンになった私たちを、さらなる悔い改め(方向転換)に導こうとするのです。さらに生き方を変え、更に更に生き方を変え、神である主への従順から従順に進ませるのです。
神の義に生きる人は、悔い改めに導かれて、生き方を変えるときに与えられる神のいつくしみと忍耐と寛容、すなわち神の恵みによって生きるのです。「義人は信仰によって生きる」と書いてある通りです。
パウロはこの後、ローマ教会の人たちが悲しむだろうことを言わなければなりませんでした。「ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも、他人をさばいている人たちは両方とも、弁解の余地がありません。神のさばきがくだります。」と言わなければなりませんでした。世の中の常識からすれば「そんなこと言われてしまったら、もう終わりじゃないか」と思うでしょう。しかし、福音があるので、そうはなりません。神である主から「あなたは必ず死ぬ」と言われても、そこから世の常識を離れ、神の国の生き方で生きるように方向転換するなら、神の怒りを免れて救われるからです。
初代教会に書き送られた手紙は、今日の教会にもそのまま当てはまることばかりです。私たちの群れに書き送られた手紙だと思って読むべき、主イエス様のことばです。読んだら悲しくなることも多く書かれています。永遠のいのちに関わる大事なことだからです。先人たちは、そのような経験を「御言葉に刺される」と表現しました。刺されると痛いのは当然のことです。しかし、例え痛い経験だったとしても、痛みも何も無く、神のみ怒りの日を迎えてしまうよりはマシです。私たちは何度も何度も、神の恵みの豊かさによって立ち上がり、生かされ、成長してきました。これからもそうです。福音は信じるすべての人に救いをもたらす神の力だからです。

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